故剑情深『南陽将軍、急な公務のお願いですが、聞いていただけますか』
霊文からの通霊に、風信は眉を顰めた。
「ああ、かまわないが…」
『ありがとうございます。場所は西方の南部、鄙奴が発生している模様です』
「西方の南部? べつにかまわないが…奇英はどうしたんだ?」
西方は奇英殿下ー権一真の領地だ。
『それがつかまらないのです。管轄が近い玄真将軍にも打診しましたが、彼も公務で手が離せないということで、あなたに連絡するよう勧められたので……管轄外で法力が制限されるでしょうから、できれば南陽将軍自ら行っていただくのが良いかと思いますが』
「あいつは俺をなんだと……ああ、まあ、わかった。俺が行こう」
風信はため息と共に頷いた。
慕情との間の長年に渡る不仲は解消されたものの、時に横暴な態度は相変わらずだ。
『お力添えに感謝します。それでは、天官賜福』
霊文は自分の役目はこれまでとばかりに、至極淡々と告げる。
「…百無禁忌」
ーおかしいな、この辺りではなかったか? まるで気配が…
権一真と慕情が治める境界にほど近い西方の森で、風信は霊文からの情報通りに鄙奴の発生を調査している。しかし、鄙奴の形跡は全く感じることができず、早々に片付けてしまおうと勢い込んで来た風信は些か出端を挫かれた気分だった。
辺りは既にもう暗くなっているが、もうすこし夜が更ければ現れるかもしれない、と、風信は身を隠すような場所を求めて見回す。
すると突然視界を白い物体が横切るのが見え、風信は咄嗟にふり向くが、この一瞬でも答えを間違うことはない。
「錯錯⁉︎」
真っ白な肌に大きな目、するどい牙と蛇のような長い舌。蜥蜴のような手足の先の長い爪。
彼は風信の声に慌てふためくような様子で、じたばたと飛び回っている。
彼がひとりでいるわけがない。それならば…
風信が目を凝らして探さずとも、彼女はすぐに見つけられた。
「錯錯!」
その叫び声に向かって錯錯は勢いよく戻り、その腕の中に収まっていく。
風信との距離は、おそらく二丈にも満たない。 *一丈=三.三M
「剣蘭!」
すぐに背を向け走り出した彼女を、風信も一瞬の迷いもなく追いかける。
あの大騒動の後、彼女は結局風信の前に姿を見せることなく去っていったのだ。
彼女がなんと言い残していったのかー風信は後日謝憐から聞かされた。
『面倒を見るという約束を風信は守ってくれるかも知れないが、無理やり傍に縛りつけたくない』
『鬼になった私たちを、いつか嫌いになるに違いない。そんなのは悲しい』
『私には錯錯がいればそれで十分』
「追わないで! あなたの元には行かない!」
「じゃあせめて、きちんと別れをさせてくれ」
「…え?」
「剣蘭、本当にすまなかった。あの時…私はきみを諦めるべきじゃなかったのかも知れない。そうじゃなきゃこんなことにならなかった」
「…わからないわよ。結局こうだったかも知れない」
「それに、知らなかったとはいえ…きみはずっとひとりで錯錯を気にかけてきたんだろう。……ありがとう」
「…私がそうしたかったから、そうしただけ」
「もうきみたちを追いかけることはしない、探すこともしない。ただ、ひとつだけ、約束して欲しい」
「…なに? 約束するかは内容次第だけど」
「本当に困った時には、俺を頼って欲しい。必ず」
「…あなたの手助けはいらないわ。太子殿下にお守りもいただいたし、太子殿下に祈ればいと言われているもの」
「それでも間に合わなかったらでいい。いや、そんなことはないかも知れないが……十回に一回でもいい。約束して欲しいんだ」
どちらも引く様子のない押し問答に、剣蘭の腕の中の錯錯が飛び出したと言うようにもぞもぞと動き始める。
先に大きなため息を吐いたのは剣蘭だった。
「あなたって、本当に私のことが好きだったのね!」
風信は一瞬その言葉に呆然とし、それから、ふ、と堪えきれないように笑み混じりの吐息を漏らした。
「…なんだそれは」
「そうでしょう? こんなにしつこいんだもの! 頑固者! …わかった、わかったわよ。困ったら南陽廟に祈りに行くわ。約束する。それでいい? その熱意に免じてあげる」
「ははっ、きみという人は…」
「なによ?」
風信は次第に大きく肩を揺らし、たまらないというように笑い続けている。
次第に目尻には涙が浮かんで、それを親指で拭いながら、
「…たぶん、きみのそういうところが…」
「はいはい。もう過ぎた話よ。八百年も前に。あなたもよくわかってるでしょう?」
「信徒のためによく働いてくださいな。南陽将軍」
にこりと笑った剣蘭の姿に、風信の記憶の中の彼女の姿が重なった。
ーああ、やっぱり、きみだ。
自然と唇は弧を描くけれど、胸の奥の温度はあの頃とは違うことを知っている。
じゃあ、と背を向けて、錯錯を腕に抱いたまま、一度もふり返らずに剣蘭は遠ざかっていく。
その背が小さく小さくなって見えなくなるまで、風信はそれを見送った。
深夜、人気のない廟の中に剣蘭は錯錯を引き連れて入っていく。
調度品はどれも美しく、こだわり尽くされた廟の中はとても美しかった。
彼女は静かに一本の香を焚き、目を閉じて祈った。
「将軍、昨晩ひとつ変わった祈りが…」
小神官が報せてきたその内容に、慕情は無言で頷く。
特に対応する必要のないことを理解し去っていく小神官の背を視界に入れながら、届けられた言葉を思い浮かべて慕情は唇に薄い笑みを浮かべた。
ー嘘つき将軍。ありがとう。
それは数日前のこと。
ー運が悪い。
それは互いに思ったことだろう。
鄙奴の発生を調査していた慕情は、再び胎霊の親子に出くわしたのだ。お互いに良い感情は持っていないというのに、なんと因果なことか。
「私たちは人間に害を加えていない。見逃して。……あの人には伝えないで。お願い」
その女鬼はそう懇願した。
慕情は了承し、彼らを解放した。
ただしその森からすぐ出ることのないよう、数日間の効果を持つ結界を仕掛けて。
結局のところ、彼らの間には数百年に渡る因縁があり、慕情はそれを清算してしまいたい。
「霊文真君……あなたに頼みたいことがある」