(1)
「接吻の練習が必要かも知れない」
風信が眉を顰め、真剣な表情でそう言うので、慕情は思わずにやりと笑った。
「は? 突然どうしたんですか? 頭がおかしくなったんです?」
風信はむっとして更にその凛々しい眉を寄せて言い返す。
「……近衛隊の奴らがそんな話をしてたんだよ。一人前の男なら、それくらい……」
「ふうん? お堅い人達は大変ですね」
慕情は畳んだ仙楽太子の召物を手に抱えているところだった。煌びやかな衣が何重にも積み重なっている。
太子殿下の前ではこんな物言いはしないくせに。
風信は陰険な彼のそんな意地悪な部分を、思いの外悪くないと思っている。じめじめと暗いより余程良い。
「それで? 練習台になって欲しいとでも?」
慕情は冗談のつもりで言ったのだ。
そんなふうに揶揄ったら、風信は怒り出すだろうと思ったのだ。
しかし一瞬呆気にとられた風信は、次の瞬間には真剣な眼差しに変わり、なぜだか、うん、と頷いたのだから慕情は驚いた。
同時に自分の鼓動が、どくんと跳ねたことにも。
「待って、いまは……」
なにを言っているんだ。
慕情はそう思っても、もう遅い。
否定すべきは、この状況でなく、その提案だっただろう。
慕情は衣を握りしめてぼんやりと思った。
ああ、だめだ、皺になったかも知れない。やり直しだ。
風信自身もよくわからない。
ただ、その桜色の薄い唇から目を離せなくなった。
結局のところ、嫌味を言い合うより、罵り合うより、その唇は重ねるほうが心地良い。
ふたりはそれを知ってしまった、始まりは、それだけだ。
-
「殿下が呼んでいるのが聞こえた……」
「俺は聞いてない」
謝憐は自身の稽古の間に、風信と慕情を遣いに出した。加えて途中の林の中で、どんぐりや松ぼっくりを拾ってくるようにと言ったのだ。色を塗って飾りたてて、皇城の子供たちに配るのだという。
まだ稽古の終わる時間ではないはずだ、けれど、確かともいえないのに。
慕情は木の幹に後頭部を擦り付ける。彼は風信の髪を引っ張るが、風信はびくともしない。
いや、本当は、風信の手は軽く慕情の背に添えられているだけだ。
練習とはもう程遠い、行き過ぎた行為と彼らはわかっている。
そこに隠れた感情も、言いたくないだけで、わかっている。
熱い呼吸を交わして、体液を絡ませて、木の幹を汚す。
「……風信、」
「わかってる。まだ間に合うから」
(2)
同じようなことが何度もあった。
雪が強かに降り積もったその翌日も、ふたりは遣いの帰りに、木の幹に隠れてくちづけをした。
触れ合う鼻先がいつまでも冷たくて、「寒いな」と風信は笑う。
「風邪を引いたらあなたの所為だからな」
そう慕情は嫌味を言っても、その笑みは柔らかい。
「……戻らないと」
そう言って風信は慕情の手を掴んだ。
「急ぐんだから、手を離してください」
「すごく寒いから、こうしていてくれ。誰も見てない」
風信の横顔はすぐにふいと逸らされたが、鼻先から耳まで、彼は赤くなっていた。
慕情は自分も同じだと感じたが、寒いからだと言い訳を探す。
そして、そう、誰も見ていない。
太子殿下の侍従は仲が悪くたびたび喧嘩している。
それはよく知られているし、謝憐だってそう思っている。
言い合いをする唇がたまに重なっても、ふたりはそれを公にはしない。
温かくて、ほろ苦くて、そんな日々はふたりの中にだけ、確かにあった。
(3)
謝憐が飛昇し、貶謫され、さまざまなことが変わった。
「去ることを許してください。もう無理です」
慕情がそう言った時、謝憐からは後ろにいた風信の表情は見えなかっただろう。
『俺たちの間のことも?』
その表情が、驚きから悲痛に変わっていくのを見ていられなくて慕情は目を逸らした。
それは答えでもあった。
『私たちのことも』
-
数年後の再会は、気の遠くなるような出来事だった。
彼らが抱えた秘密を知る者はおらず、ふたりはただ自分が得た役割を、ただがむしゃらにこなした800年だった。
謝憐。
あの人が、また世界を掻き混ぜるまでは。
「クソッ、俺の金殿を壊したのは誰だ!?」
風信の怒り狂った怒号に慕情は思わず笑った。
なんて損な奴なのか。ああ、いやちょうど居なかったのだから、運がいいのか?
「お前の仕業か?……わかった、待っていろ」
風信は確かにそう言ったが、彼が本当に訪ねて来るとは慕情は思っていなかった。
南陽殿の主の来訪に、小神官たちの緊張が走る。
睨むように、真っ直ぐと慕情を見据える、その表情。
「なんだ、本当に来るとはな」
慕情が嘲ると、その眉を更に顰めて、風信は顔を背けた。
「……やっぱりいい」
そう告げるやいなや、風信は慕情に背を向ける。
彼は謝憐のことを話しに来たのだろう。
風信が去り、雰囲気に静けさが戻った金殿で、慕情は彼が去ったほうに目を向けて呟く。
「まだ接吻の練習は必要か?」
言ってみて、彼はため息混じりに笑った。
(4)
それから、更にそれからの数百年で、なにがあったのか?
語ろうとすれば、簡潔にまとめたとしても五日はかかるだろう。
それでも知りたければ、それはまたの機会に。
とにかく、結局のところ。
彼らはいま、風信は車を運転し、助手席に慕情を乗せている。
彼らの肌の上には対になった小さなタトゥーが控えめにあり、風信の片耳にある耳飾りと同じものが、慕情の片耳に輝いている。それはまるで、ずっと探していた、もう片方の居場所をみつけたようだ。
車が停まり、慕情は高く結んだ長い髪をさらりと揺らした。そこには彼の恋人の髪がまだ長い頃、好んで身につけていたものとよく似た、黄色いリボンが結ばれている。
ドアに手をかけた慕情に、風信は運転席から身を乗り出す。
「なあ、なにか忘れてないか?」
悪戯っぽく笑って、風信は頬を慕情に差し出した。
「ふう……馬鹿みたいなことを言うな」
慕情は呆れたように眉を寄せるが、次の瞬間には悪戯を思いついて笑う。
「くちづけの練習?」
それを聞くなり風信は笑い出し、しばらく笑って、かろうじて「もう十分だ」と言った。
慕情はその反応に満足して、風信のシャツの襟を掴むとぐいと引っ張り、その唇に自身の唇をぶつけた。
唇が離れると、風信が言った。
「ああ……今度は……誓いのキスの練習をしよう」
慕情は一瞬驚いて固まったが、答えは、もちろん……
Fin.
TWINsさんの素敵なイラストといつも楽しくおしゃべりしてくれる彼女に感謝して。
***
TWINsさんのキャプションのせりふはそのまま持ってきて私なりに訳させてもらっているのだけど、
I know. We still have time.
は
まだ時間がある、なのか まだ間に合う、なのか迷って、いや、どういうことだ… どういう状況……せりふのチョイス…(褒め言葉)となりました
結局、より色気のある気がしたほうにしました(切羽詰まってる感?)
原文にしかないニュアンス感があるので、原文キャプションたのしんできてくださいね、という話です。(なにより私の訳はあやしさ満点)
でもここにも一応のせときます。
"I hear Dianxia calling–"
"I don't."
「殿下が呼んでいるのが聞こえた……」
「俺は聞いてない」
(ここは 殿下が呼んでる… でもいいのかなと思ったけどわからなかった)
"...Feng Xin–"
"I know. We still have time."
「……風信、」
「わかってる。まだ間に合うから」
"We are in a hurry, let go of my hand."
"It's so cold, hold it like this. Nobody can see us."
「急ぐんだから、手を離せ」
「すごく寒いから、こうしていてくれ。誰も見てない」
"Please allow me to leave, we are at a dead end."
'....Things between us too'
'Things between us too.'
「去ることを許してください。もう無理です」
『俺たちの間のことも?』
『私たちのことも』
(私たちは行き止まりです。はいろいろ鑑みて無理ですと解釈してみたけど、元は行き詰まった、ということかな)
"Hey, Do you forget something"
"Hmph.. Can you not act like an idiot"
「なあ、なにか忘れてないか?」
「ふう……馬鹿みたいなことを言うな」(ばかみたいにふるまわないことができるか?が直訳だよね)
間違いがあったらぜひ教えてください…!