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    qa18u8topia2d3l

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    POIPOI 68

    qa18u8topia2d3l

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    現代AU
    https://poipiku.com/4264032/7648716.html
    の延長線です。
    完結しました!

    現代AU3 ふわりと踊る、柔らかな黒髪。
     すらりとしたその背筋をぴんと張り、颯爽と歩く後ろ姿。

    「…慕情?」

     気づけばそう声に出していた。

     彼は立ち止まり、ゆっくりと、ゆっくりとふり返る。
     彼が驚いているのか、戸惑っているのか、風信にはわからない。





     十年ぶりに再会したのだから、すこし話でもしようと、そう言った。

     どんな仕事をしているのか、仕事は面白いか、職場はどうだ、どこに住んでいるのか(慕情は答えなかった)、それから昔の友人の近況について。
     べつにどれもそこまで重要ではない。
     ふたりの間の沈黙をつぎはぎして埋めるための、他愛ない会話。
     どこにでもありそうなグラスの中の、安いワイン。慕情の手の中のそれが空になって、風信は手を伸ばした。
     冷たい指先に触れる。
    「……なにがいい」
     風信は立ち上がり、なんでもないふうに、キッチンへ向かう。
     その途中で、答えを聞こうとして、ふり向いた。
     慕情が視線を上げ、ふたりの視線が合う。絡まるように、目が離せなくなり、それはきっとそう長い時間ではなかったが、風信はやっとのことで顔を背けた。

     指先は壁に設置された照明のスイッチをたたく。
     グラスはキッチンまで辿り着くことなく、ソファの前のテーブルの上にガチャンと音を響かせた。

     ギシ、と、ふたりの体重を受け止めるソファが音を立てる。
     確かな体温。柔らかな唇の感触。よく知った匂い。
     舌先に感じるほんのりとしたアルコールさえ、覚えたてのあの頃のように感じる。
     慕情の冷たい手は風信の頬に触れ、静かに閉じられた瞼、そっと開く唇は、風信を拒絶してはいない。
     それが合図のように、導かれるように、風信は慕情の首筋に、喉に。唇を、舌を這わす。
     慕情はいつものように、片手で長い前髪を耳にかける。風信の後ろ髪の隙間で、わずかに力を入れたり抜いたりする指が、知らないシャンプーの香りをうやむやにした。




    ***




     カーテン越しに滲む陽光が、早い朝の訪れを教えている。
     別れを選んだ時には、それなりに悩んだり苦しんだりしたのだと思う。いまではそれも霞んでしまって、ただ、薄暗い中に浮かび上がる精悍な背中、じわりと感じる体温が、あまりにも、当然と言わんばかりに心地よくそこにあった。
     慕情が手を伸ばすよりも、瞼を閉じるよりも早く、その背はすこし丸められて、それからのそりと寝返りをうつ。
     まだ重そうな瞼の下で、その瞳は慕情を捕らえ、綻ぶように笑った。
    「早いな……」
     呟いて、腕を伸ばして、その指先は慕情の髪を弄る。すり寄るようなその熱に、慕情の鼓動はどくんと跳ねた。甘えるようなあの眼差しを、見たと思ったのは一瞬で。
     寝起きの温度で、唇が重なる。
     怠惰に、ゆったりと。表面をなぞるような口づけは、やがてもっと深くへ、粘膜を押しつけあうようなそれに変わる。
    「朝……」
     熱いため息と呼吸の合間に慕情は言った。
    「日曜だろ?」
     髪に触っていたはずのその手は、慕情をぐいと引き寄せてから、今度は掌を探している。開かれた掌、ゆるやかに絡まる指に慕情は身を任せた。
     昨日よりも、いまはふたりを遮る衣も少ない。風信の髪が慕情の首筋をくすぐって、呆れたふりのつもりのため息が、熱っぽい、引き攣った音に変わる。
     思わず握った指が、握り返す強さが合図のように、熱い吐息、衣擦れ、軋む音。まだ飽き足らずに情欲の渦に埋もれていく。





     再び気怠く目が醒めれば、その前に目醒めたときよりもずっと明るく視界に広がる世界は柔らかい。ふと隣の温かさにつられるように視線を向ければ、今度は背中でなく、直にシーツに頬を押しつける気の抜けた穏やかな寝顔。
     慕情はそっと身を起こし、ベッドを降りようとして足でなにか踏みつけた。
     借り物のシャツに、下着だけで、小さく赤黒い跡を残した脚がコンドームの空き箱を踏みつける。その景色がまざまざと事実を映し出すようで、慕情の胃の奥がぞくりとした。
     その箱を拾い上げ、朧げな記憶の中で風信がおそらくなにか捨てていた場所を辿る。ベッドサイドに小さなダストボックスを見つけ、慕情はそれをそっと入れようとした。
     そのそばの、雑誌だとか専門書だとかが雑多に押し込まれたような棚に無造作に挟み込まれた、花嫁の後ろ姿。豊かにフリルのあしらわれたウエディングドレスに身を包んで、ふり向くような。
     慕情の手からするりと、潰れた箱がダストボックスにすべり落ちた。
     温かかった身体が、一瞬で爪先まで冷たくなる。
     それは結婚式場のパンフレットのようなものだったかも知れない。いつのものかもわからない。しかしよく調べる勇気もなく、慕情はフローリングに転がったジーンズを素早く身につけ、逃げるように玄関のドアを開けた。





    「……慕情?」
     風信が目を醒ました時には、隣に歪んだシーツの皺が残されているだけだった。
     彼は部屋のどこかにいるだろうかと、気配を探したが、冷蔵庫の低く震えるような作動音が聞こえてくるだけだった。
     風信は気怠く立ち上がると携帯電話を探し出し、ずっと前に登録したままの、慕情の電話番号を表示する。それから一瞬躊躇して、ダイヤルボタンをタップする。
    『おかけになった電話は……』
     女の無機質な声が、そう告げるだけだった。



    ---




    「慕情、最近風信に会った?」
     わずかに音の遠い電話の向こうで、謝憐は言った。
    「……だったらなんだと」
     慕情はわずかな動揺を悟られまいと思うと、自分の言葉があまりに冷たいと気づくが取り返すこともできない。謝憐は電話口で短く息を吐いた。
    「パーティーがあるんだ。きみは出席者のリストに入っているからね」
    「パーティー? なんの?」

    「あのね、結婚するんだ」

     いつだってその言葉はわずかな驚きを与えるものだ。ただ慕情は聞き返すために、勇気を振り絞らなくてはいけなかった。
    「……誰が?」
     ひと呼吸の沈黙。
    「ああごめん、私と三郎だよ! こっちで籍を入れて、一度帰国することにしたんだ」
     
    「それは……おめでとう」
     遠い電話の先で謝憐は嬉しそうに吐息で笑った。
     共に通っていた大学も卒業という頃に、その不幸は起こった。謝憐の実家である仙楽財閥の事業の破綻と両親の交通事故死は、ほとんど同時に訪れたといって過言ではないだろう。
     その頃三郎は家の都合で海外にいて身動きもとれず、風信は誠心誠意謝憐を支えた。慕情はといえば、謝憐の家からの援助もなくなり、その返済と埋め合わせのために手一杯で、就職によって住む街も変わり直接的にはどんどん疎遠になってしまった。風信はそれを良く思わなかっただろう。一度かけた電話が喧嘩で終わってからは、それきり、だった。
     やがて謝憐は元来の手腕と三郎の手を借りて、いまは海外を拠点に若き骨董商として名を馳せている。慕情も晴れて謝憐の家への恩はかたちの上では返し終え、関係は良好といっていいだろう。
    「……もしかして、風信に会場探しを手伝ってもらったとか」
    「え? いいや?」
     慕情の淡い想像は泡のように一瞬で消えた。おかしな挙動を後悔しても遅い。それならと慕情はもうひとつ質問を重ねた。
    「……あいつは、結婚、は……」
     電話口で謝憐は再びひと呼吸、沈黙した。
    「……事実を言うなら、独身だ。まあ、あと個人的なことは、勝手に話すべきじゃないだろうから、直接聞いたらいい。……風信はきみの連絡先を知らないみたいだったけど。きみは、知っているのか?」
    「……いいえ。知らない」
     慕情は低い声でそう答えた。
     教えようか、彼はあっけらかんとそう言うだろう、だから慕情はその前に言葉を重ねた。
    「パーティーのこと、また連絡くれるんでしょう。とにかくおめでとう。じゃあ、ちょっと忙しいから、また」
    「ああ、うん、ごめん、また連絡するよ!」
     慕情は携帯電話を離すと、連絡先のリストを開く。検索窓に『風信』と打ち込む。それから表示された登録を、よく見ずに削除した。
     鼓動が早い。指先が震えている。
     慕情は半ば衝動的に、嘘を真実に変えた。もう何年も見ることすらなかったのだから、同じだろう。そう思うのに、でも、胸の奥が軋むのを認めたくない。慕情はゆっくりと息を吐くと、グラスの中を飲み干した。



    ***



     空が橙色に紫に染まり始める頃、海が見える高台のレストランでのガーデンパーティー。
     風信はポケットから取り出した携帯電話から目を離すと、声のほうにふり向いた。
    「久しぶりじゃないか」
     そう微笑んだのは裴茗で、大学時代に謝憐と風信とは同じ研究室で先輩だった。
    「ああ、どうも」
     風信が会釈するなり、裴茗は一歩近づくと香水の匂いとともに耳打ちする。
    「あそこの彼女、お前のことをチラチラ見てる」
     風信は一気に身を固くした。おそらく裴茗が指しているのは、先程までなんとなく視界に入っていた、給仕の女性のことだろう。
    「俺はその隣の子のほうが好みだから、連絡先を聞いたらダブルデートにしよう」
     その女癖は変わっていないようで、さすが裴茗としかいいようがない。風信は慌てて首をふった。
    「い、嫌ですよ勝手にやってください」
    「相変わらずつれないな……ん? さてはそれは彼女からだったか?」
     裴茗は本当につまらなそうな表情から一転、にやにやと風信の手許を覗き込んだ。
    「ご期待に添えなくて悪いですけど、違いますね。迷惑電話ですよ」
     風信はため息混じりにその履歴を削除した。裴茗は顎に手をやって唇を歪ませ、はははと朗らかに笑った。
    「貧乏くじを引きがちそうな感じは変わらないな!」
     そう言って風信の肩を叩くと、彼が昔からよくつるんでいた友人たちのもとへ戻っていった。
     裴茗が去って開けた風信の視界に、飛び込む影がひとつ。
     すらりとした細身の長身。
     淡いグレーのスーツに淡い藤色のシャツを着こなして、長い前髪が涼やかに揺れる。
     深い黒の瞳が真っ直ぐに風信の視線とぶつかった。どくん、と鼓動が跳ねた。唇は自ずと開いたが、言葉が浮かんでいるわけではない。
     慕情は視線を逸らした。
     そして風信がその俯きがちな面を呆然と見ているうちに、顔を上げて颯爽と近づいて来る。
    「……ほら、そろそろ主役が来るぞ」
     そう言って前を向くよう促した、その声はいつもの彼で。まるでこの十年、いやそれ以上の時間を遡ってしまったようだった。風信は半分安堵して、残りの半分で、胸の奥がわずかに軋んだ。混ざり合うふたりの汗の匂い、すぐに思い出せそうなその記憶に蓋をして、配られたシャンパンのほろ苦い香りを吸い込んだ。



     真っ赤に燃える夕陽を背にして、真っ白なタキシードを着込んだふたりは見ているだけで伝わるような幸せに溢れていた。
     彼しか見ようとしない男を隣に連れて会場内を回り、謝憐は風信と慕情をみつけてさらに顔を綻ばせる。
    「仲直りしたのか?」
     小声でそう言った笑顔の謝憐に、風信は苦く頷くしかできなかった。

     陽が沈む前に、謝憐は高砂に飾ってあった白いブーケを手にとった。
     よくあるブーケトス。謝憐が力いっぱい投げたブーケは高く弧を描いて、風信はすくなくとも自分の正面ではないことに安心したはずだった。
     伸ばされた師青玄の手に当たって、最後にその軌道が変わらなければ。
     白い花を集めたそのブーケが地面に叩きつけられるのが忍びなく、風信は思わず足と手を伸ばして受け止めていた。
     会場の視線が集まって風信は柄にもなく怯む。師青玄に返そうとすれば、「いいんだ、いいんだ!」と笑顔で逆にしっかり押しつけられて、拍手までされて逃げ道を失う。縋るように慕情を見れば、揶揄うような笑みを浮かべて見てくるだけだった。



    ***


     大通り沿いのビルの三階、深夜まで営業するカフェの、繁華街の灯りを望むガラス窓に向かったカウンター。
     じゃあ、と言って別れれば、また何年も会うことがないのだろうと思った。お互いにたぶんそれに勘づいていて、飲み直そうか、コーヒーにしようかと言って連れ立って出て、並んで座り、友人同士の他愛ない会話をだらだらとして。
     風信は席を立っている。まだ半分ほど残ったラムコーヒーのグラスには水滴が浮かび、コースターを濡らす。風信が持ち帰った白い花のブーケは、まだ花弁に張りがあって美しい。そして携帯電話がテーブルの上に無造作に置かれている。
     慕情は薄くなったアイスラテをひとくち飲むと、自分の携帯電話のキーパッドを開いた。数字を順にタップして、十一個目を押して、ひと呼吸。
     テーブルが振動する。
     風信の携帯電話の画面に、数字の羅列が表示された。
     一か八か、が二度当たってしまって、慕情はもう呆れるしかなかった。すぐに発信をやめて、画面を閉じる。
     連絡先を消したって、結局まだ、覚えたつもりがないのに覚えている。
     もうひとくち、薄いラテを啜ったところで、風信は戻ってきた。
     席に着く前に、携帯電話の着信の知らせに気づいたのか一度手にして、なにごともなかったように、終電は、と呟いた。
    「それ」
     風信の言葉を遮るように慕情は言った。風信は顔を上げる。
    「お前が受け取るなんてな。次に結婚するってジンクスは、本当かどうか見ものだな」
    「……どうだろうな」
     風信はため息混じりにそう言ってスツールに腰掛けた。
    「ふうん? まんざらでもないじゃないか、」
    「いや、望みがあるとは思えない」
     風信は首をふって、まるで先の言葉を訂正するようだった。慕情は跳ねる鼓動も、熱くなる掌も自覚しながら、つい口を開く。
    「どういう意味だか」
     風信は一度、じっと慕情を見た。
    「結婚しようと思ったことがあった」
     慕情は息を止めて風信を見た。
    「……端的に言えば、しなかったし、向いてないと思う」
     風信は慕情から視線を逸らして、その瞳は窓の外の灯りを真っ直ぐと見て、続けた。
    「……先輩に連れて行かれた店で、変な男に絡まれてたんだ。どうしても放っておけなくて、結局余計な世話だったけど……
     謝ろうと店が終わるまで待って、じゃあ夜道は危ないから家まで送る、ってことになって、……親しくなった。
     よく聞いたら、彼女の家も仙楽財閥が破綻したのに影響を受けて、金には困ってるからおかしな客がいても我慢するしかない、って。
     ……だったら俺が助けになるって言った。もちろん、それだけじゃなくて、一緒にいたいと思ってた。綺麗な人だった。
     ……でも、彼女の期待をわかってなかった。約束した頃、ちょうど大学から声がかかって、戻ってこないかと言われたんだ。研究室を手伝いながら、アーチェリーのコーチをして欲しいって。俺は大学に戻って、やりがいはあっても給料は下がるし、休日も昼間はほとんど居なくて。ある日結婚する相手ができたって出て行った。……きっと彼女を一番にできない俺に気づいて、失望したんだろう。でも誰かと幸せになってくれるならそれでいいって、肩の荷が降りた気がしたんだ、追いかけもしなかった。最低だろ。
     そんなだから、俺にはそんなの縁がないし資格もない。好きな奴がいても、きっと、せめて友人でいるほうがいい」
     風信はそこまで言うと、氷がほとんど溶けたグラスの縁をなぞって傾けた。
    「……その彼女は、お前の負担になりたくなかったんじゃないか」
     慕情がそう口にすると、大きく目を開いてふり向く。
    「終電」
     風信がなにか言い出す前に慕情はそう告げて、風信は手許の携帯電話に視線を落とした。
    「ああ……タクシーで帰ることにする。……なあ、お前、番号変えてるだろ? 聞いても」
    「さっき。お前にかけた。知らない番号があったらそれだろう。……それとうちはここから歩いて帰れる距離だから、シャワーとソファくらいなら、貸してやってもいい」
     風信は今度こそもっと目を瞠って、それから素早く画面を操作した。テーブルの上、慕情の携帯電話は静かなまま、ただパッと液晶画面に光が灯った。
     その数字の羅列を眺め、慕情は拒否のボタンをタップする。伝票を抜き取ると、風信のほうに押しつけて背を向けた。
    「……好きにすればいい」


    ***


     熱いシャワーを浴びて出ると、慕情はちらりと風信を見て、冷蔵庫のドアを開けた。中から水のペットボトルを取り出すと、風信に投げて寄越した。
    「サンキュ」
     風信はキンと冷たいそれをしっかり受け止めて、キャップをまわす。慕情も同じように、別のボトルを取り出して、その白い肌の下で喉仏が上下した。そして口を離した途端、堪らないというふうにアハハ、と声を上げた。
     その声は大きくこそなかったが、いつになくリラックスして、弾んでいるように聞こえて、その屈託のない表情も、一瞬で風信を捕らえた。
    「……? なん」
    「それ。お前が着るとひどいな」
     慕情が指差したのはいま風信が着ている、慕情に借りたTシャツに薄手の七分丈のスウェットパンツだ。慕情は身長は変わらないのに風信とは身体の厚みがまるで違う。Tシャツは丈が短くすら感じるし、太腿も脹脛も窮屈に感じるのは間違いではなかったらしい。
     生地が伸びるとかなんとか嫌味を言われるかと思えばそうでもなく、ただくすくすと笑う慕情に風信はなんともいえない気分になった。
     それから慕情は新しい歯ブラシを渡し、結局シャワーとソファだけ、ではなく風信をもてなした。
     電気を消す瞬間に、心配するな、なにもしない、と風信は言いかけて、噤む。親友の結婚パーティーのその夜に、眠る前に想いに耽るのがその幸せそうな姿だとか、祝いのシャンパンの味だとか、そういったことではなくて、ソーダ味のアイスキャンディーだなんて。ばちが当たるか三郎に祟られるかと思いながら、風信は慕情の部屋の心地よい香りに包まれながら、眠りの中に落ちていった。




     風信が目を覚ますと、コーヒーの香りが鼻をくすぐった。ちょうど風信の視線の先、ソファの目の前にあるテーブルの上には、白い花のブーケがグラスに挿されてある。
     風信がのそりと身を起こすと、慕情はカップにコーヒーを注いでいる。その涼やかな横顔、伏せがちの瞳を縁取る長い睫毛の影。見慣れたようなその顔も、十年の間にもうすこし鋭くなり、あの頃はインスタントコーヒーと湯だった。
     ポットの先端から流れ出るコーヒーがすっと引くと、慕情がふいに風信を見た。 それはまばたきの間に消えて、慕情はふたつめのカップに注ぎ始める。
    「……今日、大学は?」
     風信は一瞬呆気にとられて、それから部屋中に時計を探した。
    「あ……ああ、行く」
     慕情は訊いたくせに、興味ないというように無言だった。風信が視線を巡らせていたその隙に、ことり、ブーケの横に湯気の立ち上るカップが置かれる。
    「……観たい映画があるんだ。夕方の回」
     慕情は独り言のようにそう言って、カップにゆっくり息を吹きかけ、口をつけた。
     風信は寝起きの頭をなんとか回転させる。慕情はなにを言いたいのか。白い喉仏が、下がって、上がってくるまでをカウントダウンのようにじっと見つめた。
    「じゃ、じゃあ……泊めてもらった礼をする。どこなんだ? 何時?」
     少々飛躍し過ぎたか。風信が後悔してももう遅いが、カップから離された慕情の唇はすこし笑っているように見えたのだ。






     ダイヤル音が切れた。
    「もしもし……慕情?」
     履歴に残った知らない番号。答えが返ってくるまでの二拍、風信は息を止めたままだった。ん、とはっきりしない返事がきこえて、風信はほっと胸を撫で下ろした。
     手に触れない距離感で、泊まることを許し優しくして、約束を促す慕情の気持ちの在処はまだよくわからないけれど。

     映画はたまに可笑しく、たまに瞳が潤むようなホームドラマだった。
     慕情がそれを観たがったのはすこし意外な気もしたが、ふたりきりで一緒に大きなスクリーンを眺めた記憶がいままでないことに、風信は気づいた。
     まだ大学に通っていたあの頃――あの坂道を転がり落ちたような夜をきっかけに関係が変わって、だというのに喧嘩ならいくらでもした。本当に数えきれないくらいに、考え方もなにもかも、違っていたからぶつかって、それでも肌を重ねてしまえばお互いしかいないと思えた、慕情も同じだと。あの頃の風信は疑いもしていなかった。好きだと言ったこともなければ言われたこともない、映画を観て食事をして、時間を惜しむように並んで歩いたことも。手を繋いだことも、別れ際のキスも。
     ふたりが歩く道は街灯も少なく薄暗く、人気もない。最寄り駅までの道を、遠回りしていることに慕情は気づいているのだろうか。
    「……慕情」
     月明かりが照らすその横顔。
     あの時追いかけなかった自分を風信は責めたくなる。今度は間違えない、とも。
     慕情はゆったりとふり向く。
    「……キ、じゃない、手……あ、いやじゃなくて」
     風信は歩くのをやめ、慕情もそれに倣った。ふたりの視線が真っ直ぐに合う。
     もっとなにもかも知っているはずなのに、こんなにうるさく心臓が鳴るなんて。
     くそ、と風信は心の中で悪態をひとつつき、拳を握り締めて。息を吸った。
    「お前のことが好きだ」



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