ネタバレなし 仙楽太子的生辰 玄真殿に南陽将軍が訪ねて来た。
そこにはぴりりと緊張が走る。理由なら誰でも語らずしてわかるだろう。彼らは八百年来の犬猿の仲で、道路、柱、植木――生粋の武神たる彼らの激しすぎる喧嘩の末、犠牲になった物はいくつあるものか。 そしてその処理という仕事が誰にまわってきたのか。無論、それぞれの殿の小神官である。
それでもあの騒動の後からはまだその事態に発展していない。それどころか、彼らの喧嘩による騒音を誰もきいていないとの噂もある。しかし事実はどうあれ、小神官たちの骨身に刻まれた苦い記憶はそう簡単に上書きされないのだ。
「……南陽将軍、どのようなご用件でしょうか……?」
拱手を組み、その小神官は彼を見上げる。
いつものように、彼は軽く眉を顰めてはいるが、激昂している様子はない。それどころか、すこし困っているようにすら見えた。
「慕情に会いに来た」
不本意だが、と、その台詞が含まれたような声音に、小神官は内心興味を引かれながらも頷く。
「承知しました。将軍に掛け合ってみますので、お待ちください」
「……ああ」
それから所在無げに、渋面を浮かべて佇む南陽将軍を玄真殿の小神官たちは気にしないふりをしながら、しかし隙をみては覗き見たのだった。
慕情の執務室に足を踏み入れるなり、風信はため息を漏らした。
小神官たちの好奇の眼差しに気づかないわけがない。しかしこの男とふたりきりのほうが落ち着くというのも手放しで受け入れられない、と思いながら。
慕情は公務の報告書やらの巻物に目を通し署名をしながら、ちらりと風信を見上げた。
「それで? 何の用だ、私はお前のように暇ではない。さっさと用件を話せ」
風信は眉が引き攣るのを感じたが、ここで声を荒らげるのは得策ではないと理解しぐっと呑み込む。
「もうすぐ殿下の……誕生日だろう。その相談に来た」
慕情はそれを聞き、ふたつまばたきした後に、そっと筆を置いた。
なぜお前と相談しなければならない、という文句は、今回ばかりは噤まなくてはいけない。
「……いいだろう」
慕情は後ろの棚に積み重ねられたいくつもの巻物のうち、数個を掴むと目の前の机に無造作に置いた。それからひとつを風信の前に差し出す。
風信は訳もわからないままそれを受け取ると、とりあえず、と中を確認してみた。
そこに羅列された文字、それから文章を読み込んでいく。
米、棗、など食物の名前、刻む、煮る、などの工程が続いている。
「……料理の作り方?」
そう呟いてから、風信は慕情が巻物を取り出した棚に積み上げられた残りを見遣った。まさかとは思うが、十中八九、そのまさかだろう。なるほど慕情の気概は充分に伝わった。
「仙楽に古くから伝わる料理だ。謝憐は自分で作ることができないのだから、祝いには丁度良いだろう」
慕情の棘のある物言いに、即座に風信は口を開きかけたが、間違いはないうえ、今日は喧嘩別れしている場合ではない、と一度呑み込んだ。
「……そうだな」
「協力させて欲しいと言うなら、どれがいいか意見を聞いてやってもいい」
八百年にわたる不仲を乗り越え、やや関係は改善されたと思う近日では、風信はその回りくどい言葉の真意を訳すことができるようになってきた。
慕情が言っているのは、つまりはこうだろう。
どれがいいか悩んでいるから、一緒に選ぼう。
素直にそう言えば、可愛げがあるものを、と風信は思いかけるが、別に慕情に可愛げがある必要もないと思い改めた。
視線を上げると慕情は顔を歪めている。
「……なにを百面相しているんだ、気持ち悪い」
「お前なぁっ、……いや、……くそ、もういい。わかった、全部見せろ」
それから目の前に積み上げられた巻物の数(ほかの棚からも出てきた)に風信は目を剥くが、意を決して片っ端から開いていった。
それを見て、あれやこれやと意見を交わし、もちろんすんなりと合意に至るわけがなく、ということを繰り返しているうちに明け方になり、神官は眠らなくても問題ない、といってもさすがにふたりは疲れていた。
風信はその日玄真殿の小神官が仕事を始める前にそこを去ることには成功したが、その後も足繁く玄真殿に通う南陽将軍の姿は、玄真殿、南陽殿、どちらの小神官たちも複雑な気分にさせたものだ。
それはその日もまた同じだった。
南陽殿の小神官たちは、主がその人と連れ立って門をくぐってきたことに緊張を走らせた。
「準備はできているのか」
「ああ、もちろんだ」
などと言い合って、彼らは倉庫に向かって行くのだから尚更だ。
小神官たちの怪訝な視線は本人たちは知る由もなく、風信が倉庫の扉を開けて中を案内すると、慕情は満足げに頷いた。実際の料理は慕情の腕に頼るところが大きいので、風信は一般的なものから特別なものまで、人間界をまわって食材集めに奔走したというわけだ。
これで準備は整った。残すは無事に当日をやりきるのみである。
**
「太子殿下……」
お世辞にも立派といえない小屋。その扉を叩けば、謝憐はにこやかにふたりを出迎えた。
「やあ、またふたり一緒に来てくれたのか? また散歩もいいけど、今度こそ一緒に食事でも……」
「ええ、そのつもりで来ました」
慕情はそう告げると、謝憐の横をすり抜け無遠慮につかつかとその小屋の中に入っていった。
「え? そうなのか? まあとりあえず風信も…… 大荷物だな、どうしたんだ?」
謝憐は風信が担いだ大きな荷物を見、不思議そうに眉を顰めた。
「ええ……まあ……とりあえず、失礼します」
風信が適当なところにその荷物を置くと、がちゃがちゃと金属音が大きく響く。それもそうだろう、この小屋にはまともな調理器具が揃っているとは思えないと、慕情が風信に用意させた数種類の鍋や杓子もその荷物には含まれている。
謝憐はますます首を傾げたが、慕情と風信がまたもの珍しそうに小屋の中を眺めているうちにふたりに声をかけた。
「来てくれたばかりで悪いけど、一緒に行きたいところがあったんだ、つきあってくれるかい?」
ふたりが連れてこられたのは、太蒼山にある、謝憐の両親――仙楽最後の王と王后の墓だった。
「三人一緒は、初めてだろう?」
それぞれに謝憐と訪れたことはあったが、揃って訪れることはなかった。今度は三人で、そう言いながらも、なんとなく機会を失ったままだった。
「父皇、母后、今日は風信と慕情も一緒です」
謝憐が語りかける、その棺の中はもう不完全であることをそのふたりも知っている。
三人で来たら一緒に片付けよう、そう言ったまま、墓の中はまだすこし散らかっていた。
謝憐の後ろで、膝をついて拱手と深い礼をして、顔を上げても風信も慕情も、お互いを見ようとはしない。それは目が合えば過去を思い出し睨み合いそうだからではなく、ぎりぎりで堪えた感情に小さな綻びができていたとしたら、決して見つけられたくないからだ。
それからふたりは無言で、地面に散らばった、おそらく当時は貴重で価値のあったなにかの残骸を拾い集めた。
幾度か、それぞれにその場で動かない謝憐の背を眺めては、また無言で作業に戻る。
謝憐の背後がすっかり片づくと、慕情が口を開いた。
「いつまでぼうっとしているんですか。帰りますよ」
「おい……」
お前はここでもそんな口の利き方しかできないのか――風信は慕情の相変わらずに辛辣な物言いにそう言いかけたが、それはもう忍耐力の訓練のようなものだ。あれが慕情の慣習のようなものなのだから仕方がない。
「……殿下」
風信がそう呼びかけると、謝憐はふり向いてにこりと笑った。
「そうだな、残りはまた今度」
あなたはなにもしていませんけどね――風信が予想した慕情の台詞は飛んでこなかった。その代わりに、謝憐が思いも寄らないことを言う。
「……風信、きみも私を"謝憐"と呼んでいいよ」
風信は思わずその場で固まり、何度か呼吸を経て大きく首をふった。
「……い、……え、遠慮します、殿下は殿下だ……それが呼びやすい」
「……呼んだことがあるくせに」
慕情がぽつりと揶揄する。
「……与君山で。鄙奴が出た時に」
「……お前っ、なんでそんなことを覚えてるんだ!? 気味が悪いな」
「ああ、私も覚えてる」
謝憐がへらりと言う。風信は絵に描いたように動揺し、顔を引き攣らせてまた大きく首をふった。
「……っ、気のせいです忘れてください!」
陛下の墓前で声を荒らげるまい、という風信の密やかな誓いは結局崩れてしまう。
「いいのに。久しぶりに名前を呼ばれて、新鮮だった」
あはは、と謝憐は笑い、慕情は小さく鼻で笑い、風信がそれに怒鳴りだすことは、いまはない。昔と同じようで、すこし変わって、くすぐったくも心地良い。
小屋に戻ると、謝憐は茶を与えられ、風信と慕情の姿はなく、ただ壁一枚隔てた台所のほうから時々言い合う声がする。それからほのかないい匂いと。
もうすっかり日は傾きはじめ、空を薄茜色に染めている。
暇を持て余し、加えて空腹を感じはじめ、謝憐はついにそっと忍び足で近づいて、台所を覗きこんだ。
それはちょうど慕情が開けた大きな蒸篭から湯気が立ち上る瞬間だ。その向こうで、風信が鍋からなにかを器によそっている。
なにをつくっているんだ、と謝憐が口を開く前に、慕情がふり返った。
「もうできますよ」
がたついた卓の上に所狭しと並べられた料理。
翡翠、薄桃、半透明、色とりどりの饅頭、とろりとした黄金色の汁物、つやを放つ鮮やかな肉と野菜の炒め物、香ばしく焼かれた骨付き肉、色鮮やかな煮込み――
美しさと華やかさを好んだ仙楽国の料理だと、八百年の時を越えて、それを謝憐に思い出させた。
「……これは? 仙楽国の料理だ。そうだろう? ……どういうことなんだ?」
謝憐は困惑しながらその料理と、慕情、風信を交互に見た。
慕情は腕を組み、大仰にため息を吐く。
「……明日がなんの日かわかっていますか? まあ、もう数えるのも飽きたでしょうが」
「……まさか、忘れたんですか?」
風信にまで怪訝な眼差しを向けられれば、謝憐も内心焦らずにはいられない。もう何年も前から、はっきりした日付を確認するなんてことは稀になっているのだ。前回数えた日の記憶を謝憐はなんとか掘り起こす。
「……あれ? もしかして……」
「一日早いのは、あなたの最も敬虔な信徒と顔を合わせると面倒だからです。お許しください」
そう慕情がぶつぶつ言い、風信と軽く視線を交わすと、ふたりは拱手を組み頭を下げた。
「「太子殿下、御誕生日誠におめでとうございます」」
謝憐はやはり呆然とした。
「……ああ、やっぱりそうか……きみたち、よく覚えていたな……」
「当たり前でしょう。仙楽太子の誕生日には、私たちはひと月も前から祝宴のための準備をしていたんです」
「飛昇されてからも、たくさんの供物とともに祈りや感謝も届けられた……喜ばしいことですが、あれは確認するのも大変でした」
慕情も、風信も、それぞれに困ったように、しかしどこか懐かしむように目を細めた。
つられて謝憐も懐かしくなり、ゆっくり息を吸い込むが、途中ではっと思い出したように目を見開いた。
「ああ、違った、そうじゃない……ありがとう、慕情、風信」
謝憐は首を傾げ、にこりと礼をする。
ややあって、どういたしまして、と慕情が言った。それからひとこと付け加える。
「あなたにはもうあなたの血雨探花がいるからいいのかも知れませんが」
風信は隣でとびきり苦い顔をするが、その想いは否定はできない。
「……でもまたこうして、お祝いさせてください」
風信はつけ加えるようにそう言ったが、慕情も同じ気持ちだろう。
謝憐は無言のまま何度か頷く。
「……うん。……うん、ありがとう……」
すこし俯けば、彼らが用意してくれた懐かしい料理があって、謝憐は鼻の奥がつんと痛むのを感じる。
「……泣いてくださってもいいですよ。……この馬鹿があなたより先に泣き出す前に」
慕情が呆れ声でそう言って、えっ、と謝憐が驚く声は、風信の怒鳴り声にかき消される。
「馬鹿とはなんだ!」
風信は充血した瞳で慕情を睨んでいて、しかしそれはいつものことなので、謝憐には確かな答えはわからない。それでもなんだか可笑しくて、あはは、と笑った。それは心も晴れやかにしてくれる。
「まあまあ、そんなことより、冷める前に食べよう。ちょうど腹ぺこだ」
夜中にふと目を覚ました謝憐は、いつもより温度の高い小屋の中を見回した。
こんなふうに三人、雑魚寝で夜を明かすのは、いったいいつ以来だろう。
慕情がいなくなるその前の夜だったかもしれない。
その頃は、それが終わる日を思い描かなかったし、その後は、こんなふうに再びその日が来るなんて思いもしなかった。
長生きしてよかった、謝憐は心からそう思うのに、それでもどこかなにか足りない。
ふたりには悪いと思いながらも、そう思うことをやめられない。
「……三郎、きみにも食べさせたいな」
またお願いしたら、ふたりは用意してくれるだろうか。謝憐は、そうあって欲しいと思っている。
「八百年の因果だ。大切な同郷なのだから……今度こそ」
救いたい、そうは言わない。一緒に歩きたい、そう、謝憐は見えない月に祈った。