「どれだけ飲ませたんだ」
「いや悪い。でも止まらなくて」
ぐらぐらくらくらする。まるでアルコールに揺らされる氷のような気分だった。意識はそんな風なのに、どうしてだか耳から聞こえる声だけはきちんと受け取れるのをイライは不思議に思った。不思議に思ったが、それ以上は何も考えられなかった。暑くて熱くてくらりとする、心地のいい酩酊に浸る。ついで、聞こえた声が心底好きだと思った。思って、逆だと気づいた。好きな声なんだ。でもどうして?
「とりあえず持って帰るぞ」
「頼むよ。俺家知らないし」
「そんな奴をこんなに飲ませるな」
「悪かったって」
イライの疑問は最もだった。今日この飲み会にナワーブは来ない予定だった。バイトの助っ人を頼まれ拒めなかったらしく、ひどく行きたそうにしていたとウィリアムは言っていた。そう、だからこそウィリアムはあんな話題を出したのだ。だからこの場でナワーブの声が聞こえるはずがない。ないのに、聞こえてくるのはどう考えてもその声だった。イライは目を瞑って暗い視界のまま考えた。そしてひらめいた。わかった。酔ってるからだ。失恋したからだ。だから女々しく引きずって、彼が迎えに来る夢なんて見ている。
「イライ、立てるか? 抱き上げようか」
この夢はやけに鮮明で、彼の匂いまで再現されていた。香水を程よくにじませた香りだ。ちょっと野性的で、でも慣れると優しい味をしている匂い。花の香りと合わせるとなんだか似合ってしまう、不思議な香り。イライは悩んで、ふらつく体をどうにか立たせた。そして寄りかかった。立ってしな垂れかかった方がよりいっそう、ぴったりくっつける。
そんな具合で歩いていると、途中からタクシーに乗ったとわかった。大好きな香りにタクシーらしい無機質な香りが混じったからだ。それが嫌で、イライは座席に座らされたときひどくうなった。それを不調と勘違いしたナワーブは「吐くか?」と端的に解決方法を提示した。離れるのが嫌で、イライは首を振って答えた。扉がひとりでに閉まり、車は走り出す。どこに向かうのかは知らなかった。
イライの目が少しずつ覚め始めたのは、車がナワーブの家に泊まったところからだ。
イライがナワーブの家に行くのは数えるほどしかなかった。だからまだ覚えきれているところが少ないはずなのに、香りや光景があんまりにも鮮明にも飛び込んできたもので、これは夢じゃないかもしれないと現実を知り始めた。ナワーブは鍵をきちんと閉め、ほとんど抱えるようにイライを連れてリビングに行くと、ソファに横たわらせた。「水を持ってくる。飲め。いいな?」そう言ってキッチンへと離れていった。その背を、イライは目を開いて見つめていた。キッチンに向かう背姿を見て、瞬きをする。くるりと天井を見て、横を見て、リビングの様子を見る。何度か来たことがある家。ナワーブの家だ。
夢じゃない。夢じゃないのに、夢みたいな光景だった。二度とこの家には来れないだろうと、イライは失恋を悟ったときに同じように悟っていたのだ。友人として誘われることはあるだろう。でもそれに頷くことはもうできないだろうと心に誓っていた。誓っていたのに、こうも簡単に招き入れられてしまって泣きたくなった。どうしてこんなにやさしくするの。口から声にならない声が零れて、ついで涙があふれた。未だ酔いが冷めきっていない体は感情をしとどに露呈した。
「おい、どうした」
水を片手にナワーブが戻ってくる。寝そべりながら泣いているイライに気づいたのだろう。彼は水を机に一度置いて、イライの頬に手を宛がって訪ねた。あんまりに優しい体温に、イライはまた泣いた。もう止められはしなかった。涙も。感情も。それから声も。
「君に」しゃっくりが言葉を途切れさせる「好きな人がいるっ、て」
ほとんど涙にぬれた声は涙と同じようにぼたぼたと室内に落ちた。イライはもう、なにも止められなかった。これがまるきり失恋の姿だとは明らかで、つまり告白と何の遜色もないとは酔った頭でも理解していたが、それでも止められなかった。もういっそ、失恋で踏み荒らされた心をもっとぐちゃぐちゃにして欲しい。そんな被虐的な望みさえあった。同時に、否定してほしいという懇願があった。そんな奴はいないと、一言言ってくれるだけでいい。それだけでこの夜を越えられる。じゃなければ朝を迎えられない。そんな馬鹿なことを必死に考えていた。それくらいに必死だった。
なのに、ナワーブは笑った。心底安心したように。それから、心底愛おしそうに。
「お前にはまだ早い」
頬に宛がわれたままの手がそのまま肌を撫でる。くすぐるような手つきに体を熱くさせて、意味の分からない言葉に頭を困惑させる。
「なにそれ」
「お前が夢で俺にキスしてくれたら話してやる」
それはまさしくキスをするような声で囁かれた。だからイライは驚いて、やっぱりこれは夢かもしれないと思い直した。
「口説かれてるみたいだ」
「みたいじゃない。これでもずっと口説いてる」
「好きな人がいるのに?」
「だからだよ」
頬に触れていた手が目を覆う。優しい体温に、イライはうっとりと目を閉じる。
「ほら、今日はもう寝ろ。明日また話してやるから」
「……約束」
「ああ約束」
目に宛がわれた手はそのままイライの頭を撫でた。どこまでも心地のいい手と声に、イライはゆっくりと息をする。
「おやすみ」
促されるままに意識が落ちていく。夢なのか現なのか定かでない心地のまま、イライは涙の名残をぽっとりと落として、思った。
いい夢だ。とても。
大好き。
この後、夢で前世の記憶を見て、ついでにナワーブにキスをする光景も見てすべてを思い出し飛び起きることになるとは、失恋が正しく間違いだったとは、イライは未だ夢にも思っていなかった。