「物思いか」
聞こえた声に、ふと意識が浮上する。思考に沈んでいたつもりはないが、随分とぼんやりしてしまったらしい。自覚しながら、イライは声の方へ振り替えることなく、口角だけを僅かに擡げた。この声が誰のものか、など、見ずとも理解できる。
「どうかな」
「或いは疲れか」
「相変わらず試合に出れていないのに?」
「その分色々聞いてやってるだろ。昨夜もそうだった」
告げられた真実に瞬きをひとつ、ふたつ。視線を掲示板に向けたまま思考を整える。熱に浮かされた考えは、油断をするとすぐに飛び跳ねてしまう。しかしこれはどう跳ねようとも、堪えようとも真実だろう。
昨夜、イライは仲間のトレイシーの愚痴を聞いてやっていた。自室に招く訳にはいかないため、談話室で。隣に立つ男の部屋と談話室まではそこそこの距離がある。わざわざ足を伸ばさなければ通り掛ることなど有りはしない。昨夜は酒盛りもしていなかった為、出歩く用向きなどないはずだ。それは、つまり……導き出される答えに、イライは口角がまたいっそう擡げられるのを止められない。
「探してくれた?」
「たまたま通りかかった」
「そういうことにしておこうかな」
「慈悲深い天眼様なことで」
肩を竦めて息を吐く男の声を聴きながら、小さな笑みを零す。彼が人目のありかねない場所でらしいことを紡ぐのは稀だ。距離や態度には滲ませるが、言葉で示すことに関しては律している。今、エントランスに人目がないとはいえ、随分と寂しい思いをさせたらしい。昨夜だけでなく、ここ数日は狂宴ゲームこと試合の兼ね合いから、ふたりきりになることは難しかった。軍役経験があり、今も傭兵として生きている経歴から、そして試合の中の活躍から、荘園の生存者の誰からも頼られる男。そんな彼が見せる僅かな柔い部分を、自分だけが知っている。その事実は飽くことのない熱情を呼び覚ます。酷い程の優越感さえ身に覚えさせる酷い熱情だ。喉の奥まで這い上がるそれを笑みだけに留めながら、イライは掲示板を見続ける。今隣に目を落とせば、夜まで待てないと自覚していた。
「ちなみに今夜、君の部屋の扉が叩かれるという噂があるのだけど」
「……へえ、こんな偏屈な傭兵の部屋が?」
「そう。しかも、来訪者はクラッカーとチーズ、それから生ハムも拵えるようだ。君のチャイティーさえあれば、完璧な夜の茶会ができるだろう」
「ミルクとシナモンを多めに入れた、甘めのものにしておこう」
「ご明察だ」
言い終えて、イライは口元に小さな笑みを零す。踊るような心地に感けて、堪らず視線を隣へと下げる。薄汚れた若草色のフードを被る愛しい男は、未だ掲示板に目を向けたままだ。今このエントランスで、投げかけた目線が合うことはないだろう。人目を気にしているというよりも、場を弁えている人だ。ここが皆が使う場であることを踏まえているし、そういった姿勢をイライ自身好ましく思っている。ある程度は律していながらも、時折皆の前だろうとふいに近しくなる距離も。ふたりきりの部屋の中では熱を守ろうとするかのように隙間なく寄り添う様も。その全てを、愛おしいと。
会話を終えると無言を楽しむこともなく、ナワーブは体を傾ける。そのまま去るかと思った彼は、仕舞いにイライの背を優しく撫でた。その瞬きの間だけを残して、小さくも大きな背中が扉へと消えていく。
「ずるいなぁ」
居住区へと続く扉が音を立てて閉じ切るまで、イライはその背を見詰めていた。寂しい無音を幾らか耳に入れてから、唇から思わずらしくもない独り言が零れ出す。目を隠す覆いは、赤らんだ頬の一部をも隠してくれるだろうか。誰もいないエントランスで、イライは気恥ずかしさに息を吐く。細やかな睦ぎ合いを見守り続けた相棒は、青年の肩に乗ったまま呆れた風に……そしてどこか嬉しそうに、鳴き声をひとつ零した。