全く何の自慢ではなく事実として、ナワーブという男は枯れ気味だった。もっと強調していうなら不能気味だった。元々は精力的な男であったのだが、数々の悲惨な戦場が彼を生命活動から遠ざけた。毎晩悪夢に口付けされた。人肌に触れてはそれが冷たくなる過程を思い出す為、暖かく柔らかな体で慰めを得ようとも思えなかった。
彼は不運な一般兵ではなく優秀な指揮官で、悲惨な経験を代価に勲章を与えられており、そんな男が嫁もとらず愛人の気配もないことは人々の噂を呼んだ。戦地で知り得た現地妻がいるだとか、男色のきらいがあるだとか、そんな声が水面下で音もなく泳いでいた。真実はもっと悲惨な現実だ。誰かの気配があれば任務中だと誤認した頭が腕や手を凶器に変貌させるため、誰も家に入れられない時期があった。それをなんとか乗り越えた後は精魂共に草臥れ果てており、ただ黙々と仕事を熟す朴念仁に落ち着いただけだ。
しかし上記した通り彼の家に入れた者はいなかったし、戦地に赴いた仲間の殆どは二階級特進か行方不明か退職かをしていたので、真相を知り得る者は殆どいなかった。彼の隣に立つ、顔の半分に火傷痕を残した副官の他にはいなかった。ふたりは腐れ縁や悪友といった名が相応しい間柄だったが、新兵には数少ない理解者という風に映った。そして新兵は怖いもの知らずと相場が決まっているので、恐れ知らずな噂が立ちかけた。なるほど、嫁も愛人も不要であるのは理解者が側にいるから。確かに執務を行う際の有り様は阿吽の呼吸だ。実際には互いが互いのことをそれなりに知り得ているだけである。ナワーブはノートンを適度に買収しては利用したし、ノートンは副官という上手く稼ぐ立ち位置の確保のためナワーブが壊れない程度に付き合っていた。ただあの大戦を生き残り、大佐とその副官という立場に収まったという経歴、それから自分たちの慣れない退屈で過酷な軍役生活が新兵の思考を曇らせた。軍部は厳しい世界だったので、そんな不敬で愚かな噂は表沙汰にはならない。なのでナワーブも知らなかった。
ふたりのみの執務室にて、副官が高級娼館の名刺を突きつけてくるまでは。
「十時ね」「は?」「予約とったから行ってきて。指名は自分でやれ」「いつから餓鬼の戯言を怖がるようになった」「ご令嬢達の間で噂になったら困る。玉の輿がパーだ」「最悪だよお前は」そんな訳で、節介どころか保身の行為によってナワーブは数年ぶりに女の肌に触れた。
おかげで新兵の間に揺蕩っていた噂は消えたのだが、次な娼館で噂が立った。というよりも事実が広まった。
戯言をきちんと戯言として片付ける為、副官はひと幾週に一度ナワーブを娼館へと送り込んだ。ナワーブは一度二度はきちんと寝台に身を沈めたのだが、三度目以降は億劫で、時折煙を燻らして終えるようになった。女性を退屈させるわけにはいかないので他愛のない話を聞きながら食事を摂らせた。美しさのための細身は食事がないと喘ぐ子供を思い出させたし、そんな細身が食事を摂りながら笑う様は彼を僅かばかり満足させた。そして途中、偶然にも家出少女を拾い、娼館に送り届けてからは煙さえなくした。彼は訪れる度に少女の様子を見に時間を買うばかりとなり、寝台に横たわることも煙を燻らすこともなくなった。
これは少女を案じた店の女達によって判明した。なにせ彼は大佐と名のある男であった。そして運悪く、少女は虐待を受けて家出をしていたので、最初のうちは体に生傷があった。軍人という身分を振り翳し、娼館に売り飛ばした挙句通い詰めて暴行しているのではないかと案じたのだ。少女はあっけらかんと首を傾げて「一度も手なんて出されてない」と暴露した。前に彼を客としてとった女もそんな具合だと暴露した為、娼館の女達は彼は不能なのだと確信した。「辛い目に遭ったのね」「可哀想に」「疑って悪かったわ」大佐という大役につきながらも女を抱こうとしない男の様は、女達に不憫に映った。「これじゃあ奥様が可哀想じゃないの」と、果てには存在しない女性にまで哀れみは及んだ。
女達はナワーブへ、少女を通して夫婦生活の応援グッズを送った。精力剤だのラブグッズだのを手渡され、果てにイエスノー枕までに及んだとき、ナワーブはついに「こういうものを男に渡すのはやめなさい」と親じみた忠告を少女に告げた。少女は素直だったので「私宛に使わなくてよくて」と白状した「奥さんに使ってあげて」「奥さん」「って姉さん達が」「姉さん」「あたしもそう思うし」男はこのとき数秒黙った。そして娼館内で自分がどんなにか可哀想な男と思われているかなんとなしに悟った。それに対して羞恥や悔しさを感じるほどの矜持はナワーブになかった。というより矜持というもの自体を戦場で粉々に砕かれた後だった。しかし少女が卑猥なものを手渡してくる光景は勘弁極まりなかったので「俺に妻はいない」と真実を告げた。結果、応援グッズの差し入れは止んだが、憐憫は殊更深まった。
なのでナワーブが男として機能することを知るのは、今腕の中で幸福そうに微笑む青年。人でもない淫魔。ただひとりになった。