腰に手を這わせば「料理中だから」と眉尻を下げて微笑まれた。「危ないよ」と、この男は本気で言ったんだろうとナワーブは分かっている。なのに理解とは裏腹に、こいつは揶揄っているのかと半ば本気で腹を立てかけた。刃物なんて、この優男の百倍は上手く扱える。まな板の上に乗った肉なんてあっという間に捌ける。今横たわるそれは鶏肉らしいが、どんな肉だろうと容易いものだ。それが人のものであっても。加えてイライは、片手に握っていた包丁をまな板に置いて言っていた。万が一にも取りこぼして、ナワーブに刃先のひとつでも当たらないように配慮しているのだ。でもそんなことはナワーブにとってなんの意味もない行為だ。たとえその万が一があったとしても、ナワーブはその挙動を見定めて、軽く峰を掴んで、刃先を包丁に突き刺すことができる。鶏肉を真っ二つにすることも。その手のぎりぎりを掠めることだって出来てしまうのだ。そういう人間だ。それはこの男も知っているはずなのに、「危ない」なんて宣う。困惑するままナワーブが瞬きをすると、彼は顔を少し傾け、頬でナワーブの髪を撫でた。それから「ソファで待ってて」とキスするように囁いた。
頬の輪郭を指先でなぞると「はい、あーん」などと笑ってフォークを向けられた。三又の切先には醤油と胡椒、それからハーブを和えて焼かれた鶏肉が突き刺さっている。香りのいい夕飯だ。一部を少し焦がしたくせに、それは全部自分の方に避けて、ナワーブには綺麗に出来たところだけを渡そうとしている。フォークに刺さっているのもそうだ。とびきり美味しそうに焼けたものを差し出された。ナワーブはこれまで、それなりの経験をして生きてきた。文字通り泥水を啜ったこともあるし、多額の割にちっぽけな量しかこない料理を口にした経験もある。だからスーパーで売られる五百円以下の鶏肉なんて、ひたすらに普通の飯に過ぎない。そのはずだ。なのに差し向けられたそれは、皿の上に乗るそれらは、やけに美味しそうに見えるから不思議だった。大口を開けて食べてやると、フォークを向けたイライは心底嬉しそうに笑った。
肩を掌で抱くと「あの」なんて声が出た。見れば、頬を赤くしたイライが青い目を彷徨かせている。ナワーブより幾らも背の高い男だ。年こそ若いとはいえ、見てくれだけでいえば情けないと言わざるを得ない。はずなのに、どうしてだかそれが赤い果実のように見える。熟れ始めた、甘くて美味しい果実。体を傾けてその腕に胸を押しつければ、その色は更に濃く深くなった。彼の膝の上で大人しくしてる手の甲に指を這わせてやる。びくっと震えるのにちっとも振り解こうとしない有様が、ナワーブには心底愉快に思えた。手を裏返し、掌同士を合わせて握り合わされたときなどは、もう可愛いとすら思えた。
「これって」
「ン」
「浮気になるのかな」
彷徨っていた視線がナワーブへと傾き、口が辿々しく声を出す。罪責と期待、不安と歓呼。全部を綯い交ぜにした声と目に、ナワーブは桃色の唇でにんまりと笑う。
「なるわけないだろ」
そう言ってやって、傾いていた視線ごと唇を奪う。寄せていた体で上に乗り上げて、イライの体をソファに横たえらせる。驚く口に舌を差し入れて、キスを確かなものにさせる。そうやって本当に告げるべき本音を隠した。
ま、アタシが奴ならキレるけどね。