「一体なにしたの」苛立ちと焦燥を混ぜ込んだ声が電話口から届く「君、このままだと監禁されるよ」
声音も言葉も苛烈な色を帯びている。そも、この男から電話など早々来ないのだ。大佐の副官という立場ある身であるし、その上司たる大佐から…イライにとっては恋人から、過度な連絡は避けるようにと双方に言い伝えられている。副官たるノートンは頭が回る……悪く言えば狡猾な男で、その指示を素直に飲んでいた。そんなノートンから音声の連絡が来たのだ。だから着信ひとつで、それだけの事態なのだと悟れた。
現状の逼迫を認識しながら、けれどもイライは眉尻を下げるばかりだ。なにせ彼は、この事態が何故生じたのか知っていた。
「誘拐されたくせに拘束中に犯人を説き伏せて自首させた?」
「話し合えばなんとかなる人だったから」
「馬鹿じゃないのか」副官は上司の恋仲であることも憚れず嘆息を口にした「馬鹿だろ」それも二度も。
詰る言葉に、イライはさして傷つかなかった。どころか反応すらしなかった。副官たるその男とはそれなりの交友を築いていたので、彼が仕事熱心で、多少の中がなければどんなに呆れようとそんな言葉は出さないことを知っていた。それを差し置いても、例え誰から言われたとしてもイライは同じ呼応をした。馬鹿なんかはまだ易い方で、過去にはもっとひどい言葉を浴びせられもした。暴行だってあった。イライが尊厳あるひとりの人間として扱われたのは、多くの人から大佐と呼ばれる恋人の家に来てからだ。人間を愛する淫魔とはそれだけ不可解な存在だった。思えば、これが全ての起因だった。
だからイライは、自分ひとりが不自由になるなら構わないと思っていた。彼は淫魔で、そのくせ一途で、大佐と呼ばれるその男のことをめっぽう愛していたので、彼から与えられるなら監禁だろうと暴力だろうとなんだって嬉しかった。当人に口に出してもいる。その上で、彼はただとびきり甘ったるい愛欲だけを注いだ。暴力の欠片もない。監禁だって、大分前から検討の中にあるとは知っていた。それでも尊厳を保つためにと踏み切らなかったのだ。そんな彼がこんな事故のような一件ですべてに踏み切るとなれば、後で酷く後悔しかねない。「君たちがどうなろうと知ったことじゃないけど」電話の終りにノートンはそう付け加えた「後々面倒になった奴を宥めるなんて、僕は絶対したくない」そうだ。確かに、こんな形で成るのはいけない。どうせしてもらうなら自分の欲だけでして貰わないと。
そういう訳で、言いつけを破ってイライは寝室から出た。
「ナワーブ」
階段を降り、一階のリビングの戸を開ける。言われた通り、彼はソファで項垂れるように座っていた。なるだけ静かな足音で歩み寄り、隣に座る。顔は上げてもらえない。手持ち無沙汰に背中をそうっと撫でようとする前に声が落ちる。
「部屋にいるようにと言ったはずだ」
「君が心配で」
「心配されるべきは俺ではない。お前だ」
「私は、もう大丈夫だよ」
「大丈夫じゃない」半ば遮るように声は出た「大丈夫なんかじゃない」
俯く顔がぐったりと左右に振られる。
「相手は銃を持っていた。ナイフも。縄の用意もあった。それだけあればなんだって出来る」
それは聞き覚えのある言葉だった。先程、イライは同じことを聞いた。泣き崩れた誘拐犯を支えて建物から出た後、駆けつけていたナワーブに訳を話したときのことだ。話し合いで解決したと言うイライに、ナワーブは同じことを言った。対して告げた言葉を、イライは覚えている。これが彼を傷つけたと、イライは自覚していた。言った後で気づいてしまった。深い後悔を抱いている。「あの人が改めるきっかけになるなら私なんて安いものだよ」と、なにも取り繕わない本心で告げた。
「ごめん。私が、君の心を踏み躙った」
言葉を亡くしたナワーブの顔を、二度と忘れてはいけないと思った。前かがみになっているナワーブの背に手を当てて、そうっと撫でる。
ナワーブの頭は再び横に振られた。
「そうじゃない」
泣き崩れるような声が落ちる。
「俺の心なんて問題じゃない。それどころの話じゃないんだ」