一目惚れだった。
　小さな水槽の中、狭そうに、悲しそうにしている人魚。付き合いでやってきた趣味の悪い見世物小屋にいたソレを買い取った夏油はさっそく家の中に巨大な水槽を用意して家一つ買える値段で手に入れた人魚『ナナミ』をペットにすることにしたのだ。

　人魚の伝説は多い。人魚姫、八尾比丘尼。見世物小屋に陳列されていた他の種族に比べ人間と馴染みがあるのはひとえに彼らの警戒心の薄さだろう。というのもこのナナミ、捕獲される時に尾びれを抉られ、左目も視力を失ったというのに夏油の家にやってきて数日ですでに主人に懐き、呼べばトプンと水面から顔を出してしまうのだから。
「私が言うのもなんだけど……もう少し警戒したらどうかな」
　頭を撫でると分かってなさそうに首を傾げるのも愛しい。おやつのタイの刺身を摘まんで口元に持っていくと嬉しそうに口を開け、夏油の指ごとパクンと食べる。かわいい。けれど心配になる。
「夏油様、今よろしいですか」
　ぱくんぱくん刺身を食べるナナミと遊んでいた夏油を呼んだのは秘書の女だった。
「ああ、もちろん」
　裸足になって水槽につけていた足を引き上げる時、ナナミは少し悲しそうにするので夏油はそっと頭を撫でて「またくるよ」と微笑む。コクンと頷く人魚が敗れた尾びれでぎこちなく水中へと戻るのを見届けてから夏油はハシゴを降りて仕事に向かうのだった。
　ナナミと過ごすようになってから実に気分がいい。貸した金が返ってこない時、取り立ての手配をするのが心底面倒だったが今では鼻歌交じりにできるし爪を剥がすのも汚いしうるさいし気乗りがしなかったのにナナミの笑顔を思い出すと何枚でも剥がすことができる気分になるのだ。
　そんなわけで夏油は好調だった。人魚は寿命を延ばすというが、たぶんこの幸せホルモンのおかげで健康寿命が延びるのだろう。夏油はそう思う。
　そんなある日、ナナミと遊んでいると再び秘書に呼ばれた。ナナミは彼女がくると夏油との遊びが終わりだと気付いているのか、ヒールの音が聞こえるだけで顔を顰めるようになった。それもまたかわいいと思うのだから末期だ。
「夏油さま、そろそろ」
「ああ、わかった」
　そして今日も水槽に沈めていた足を引き抜こうとした時。
　ソっと触れてくる冷たい手の感触。
　思わず、水槽を見た。ナナミから触れてくるのは初めてだったのだ。そして。

「げ、と……さ」

　人魚の生態は魔力がある。ローレライと呼ばれるその声は聴くものを狂わせる。だから捕獲する時、まずやることは喉を潰すことなのだ。逃げないよう尾びれを抉るのも、抵抗された時に目を潰すのも必要な手順だが、一番にするのは声を奪うこと。
　なのに、ナナミは潰れた喉を震わせ、夏油を呼んだ。
「七海……」
　そっと手を伸ばすと七海は嬉しそうに頬を寄せる。
「本当にかわいいね、お前は」
　にこにこと褒められて嬉しそうにする人魚を構わずにはいられない。夏油は再び足を水に沈めると「あと十五分」と七海の濡れた金髪を指に絡ませて遊ぶので、秘書は大きなため息と一緒に退室するのだった。