任務に就いたのは夕方のこと、新宿駅から少し徒歩で移動した歓楽街で発生した呪霊の討伐を任された虎杖悠仁と七海建人の二人は低級とはいえ数の多い呪霊をサクサクと祓っていったわけだが、最後の最後に現れた呪霊に思いのほか時間を費やすことになった。
と、いうのも、相性が悪すぎたのだ。硬く、スタミナがある呪霊ならいくらでも相手にできるこの二人でも飛行タイプの呪霊とはすこぶる相性が悪い。式神や降霊の術があるならいざ知れず、二人の戦闘スタイルといったら叩く、叩く、ひたすらに叩くの純粋近接戦闘タイプ。ひらひらとビルの上を移動されては分が悪い。
とはいえ「できませんでした」ですまないのが呪術師なわけで、虎杖と七海の二人はビルを飛び、裏路地を駆け回り、殴ればそれだけですむ呪霊を追いかけまわすこと数時間、ようやっと祓った時には時刻は日付変更線を上回り、最寄り駅は日暮里まできていたのである。
汗を拭った虎杖はポツリ、呟いた。
「腹、減った」
そして隣に立つ七海も深く頷く。
「さきほど補助監督に電話をしました。合流まであと30分はかかる見込みとのことです」
二人は見つめあう。その時間僅かコンマ一秒。
「食べに行きますか」
「応!」
そんなわけで深夜会食が決定したのである。
「ラーメンが食いたい」
そう言ったのは若くて元気な胃袋を持つ虎杖であった。
「わかります」
若くはないけどまだまだ元気なままの胃袋を持つ七海も頷く。
「深夜だしさ、カロリー制限したいって気持ちも分かるよ。透明スープの塩なあっさり鳥チャーシューでスッキリ低カロリー、細麺で胃袋に負担がない、みたいな。でもむしろ深夜に食べるんだからこそ罪悪感とか遠慮とかそういう心理状態をガン無視してこってり濃厚油も肉もマシマシのゲテモノのようなラーメンが食べたい」
「流石は呪術師です。ちゃんとイカれてますね」
歩く高架下。終電が頭上を走る深夜経営飲食店街の道の先に、そのラーメン屋はあった。
黄色のぼろ布のようなテントに風化して削れた黒インクで書かれた店名。のぼりに書かれた『背脂チャッチャッチャ』の文字。漂ってくる豚骨の独特な香り。ビンゴ、まさにコレ。
「奢ります。お好きなトッピングをどうぞ」
「マジ? マジのマジ?」
「いいですよ。好きなだけ味玉乗せてください」
神じゃん……呟く若人とくぐるのれん。むわっと立ち上る湯気と麺の香りが二人の顔面に降りかかった。
「豚骨ラーメン大盛のトッピング全乗せに味玉は三つで、チャーハンもお願いシマス!」
あいよ、と返される厨房の奥。七海もメニューを見つめてから注文した。
「尾道風背脂ラーメンに餃子二人前、半ライスを頼みます」
「餃子いくの? 明日出張って言ってなかった?」
大人オブ大人の七海がニンニク臭まき散らしながら新幹線に乗る姿が想像できない。いや、でも、七海ほどの力があれば呪力でニンニクを抑え込めるのか?
「ええ、出張があります。しかし餃子を可能にする手段もあります」
トン、と出されたブレスケア。大人は一つ、いや三つ先の展開まで予想するものである。ちなみに呪力で口臭問題は解決できない。
「え、いいなぁ、俺にもちょうだい」
「いいですよ」
「やった、明日さ、伏黒たちと遊びにいく予定だったんだよね。だからニンニク食べたら釘崎に叱られると思って」
「これがあれば釘崎さんも気にしないでしょう。君も餃子頼みますか?」
うん、と頷く虎杖に七海は「餃子もう一人前追加で」と頼むのだった。
食事風景を見れば人間のなりは大体わかるものである。
だから虎杖悠仁は人の魚の食べ方なんてものも見てしまうわけで。
一級術師、大人オブ大人の七海はそれならどんな食べ方をするのかしらん。女性がデートで訪れたくない飲食店トップ3に入るラーメン屋、服に汁がつくからだとか、啜る姿を見られたくないだとか、そもそも汚い店舗が多いとか、そんな理由が並ぶ中、虎杖はそっと七海の食事姿を盗み見た。
やってきた背脂マシマシのラーメン、もやしがたっぷり乗ったソレをまずもやしからシャクシャク咀嚼する。少し熱いのか、フーと唇と尖らせ、冷ます姿はなんの変哲もない動作なのに妙に色っぽく感じた。
餃子にはテーブルに置かれたタレをポタポタと垂らす。バカみたいにたぷたぷに沈めるのではなく少しだけかけるところに好感が持てる。それに熱くなってきて、耳の後ろに少し浮き出た汗をハンカチでそっと押さえながら肉汁がまだ熱いままの餃子を奥歯で咀嚼する様子は少しこどもっぽく感じた。
レンゲでスープをすくい、飲むだけなのにフランス料理でも食べているような手捌き。虎杖にはとうていできない指先まで美しい所作。
(ああ、好きだなぁ)
そう感じるや否や、心臓がバクバクと脈打った。
麺を箸で持ち上げ、大きく開いた口に入れた瞬間、案外ガッツリ、男らしく食べる姿にキュンと胸が痛くなる。
なんだこれ、青年がその気持ちに気付く前に七海は半分ほど食べ終えたラーメンのどんぶりに箸を置き、ハンカチで額と首筋をトントンと拭いながら虎杖の方へ首を動かした。
「私の方ばかり見ていないで食事に集中したらどうですか」
呆れたように笑う。蛍光灯にパチパチと当たるハエの音がいやに耳に響いた。
「ぁ、うん、ソダネ」
まだ湯気をあげるチャーハンを皿を抱えてかき込んだ。
「火傷しますよ」
またクツクツ笑う七海がライスの上にチャーシューを乗せて器用に箸で包み込んで食べていく。
さっきまで舌にこれでもかと塩味を伝えていた米粒からなんの味もしなかった。追加した餃子のニンニクの味もよくわからない。そんな中で盗み見る七海のラーメンは減っていく。残る餃子を食べつつ「ビールが欲しいですね」と呟く様子すらもはや愛らしく感じてしまう。
なんだ、なんだこれ。若くて元気な胃袋を持つ青年はその初めての感覚にだらだらと汗をかきながら黄身がトロリとこぼれる味玉を一口で咀嚼した。
「汗、すごいですね」
もしかして猫舌ですか、と問いかける七海が尻ポケットから取り出したもう一つのハンカチをそっと机に置いた。
「イヤでなかったら使ってください。予備なので清潔ですよ」
その時、うんだとか、はいだとか、ありがとうだとか、そんなことを言ったのかは覚えていないが虎杖は机に置かれたグレーのハンカチをそっと手に取って額に当てた。
(あ、めっちゃいい香り)
豚骨の独特な香りも、餃子のニンニクの香りも、麺を茹で上げる小麦の香りにも鈍感になっていたというのに、何故かその香りにだけは敏感に嗅覚が反応してしまう、その理由を青年はまだ知らない。
「また来ましょうか」
そう言って黒塗りの車に虎杖を押し込んで自分は別のタクシーで帰宅すると去っていった七海の後ろ姿をバックミラー越しに見つめながら、虎杖はラーメンと香水の香りが混じるハンカチをそっと握りしめたのだった。