どうせ今までもしょうもないことしか起きなかったのだから今後もそうなのだ。唯一信頼できる、いや、守るべき姉と自分だけの世界。外側がどうなろうと変わることはない、伏黒恵はそう思っていた。小学一年生のあの夏まで。
保護者だか後見人だかを名乗る五条悟は絵に描いたような適当な人間だった。いきなり引き取ると現れてから衣食住は保証してくれたが恵の生きる指針については何も言わない。親のようにべったり傍にいるわけでもなく見放すように放置するわけでもない。幼い恵にとって五条悟は『なんかよくわからんけど強い男』という認識しかなかった。
だから小学校の授業参観だの運動会だののことを言うつもりもなかったし必要なものがあれば必要経費を乞うことはあったがだいたいの資金は渡された通帳とカードで事足りた。だから連絡は一か月に一度くらい。その連絡も術式についてあっさり言われたり呪霊のことについて容量を得ない説明をされるだけなのだ。
恵は姉がいたので孤独だと感じることはなかったが同年代の友達はできないし作り方も分からなかった。それに不都合を感じたことはない、だって学校にいけば勉強をして図書館にいって何かしら時間が潰せるのだから。けれど土日祝日、休みの日というのはどうにも手持無沙汰になるので苦手だった。
そんな恵を絶望させたのはジンジンと日差しが肌に刺さる夏の日。担任が告げた『夏休み』という言葉だった。
周囲が沸き立つ中、小学一年生の伏黒恵は手汗をかいていた。
長期休み、一か月、学校、給食なし。
なんだそれ、聞いていない。学校はいつも開かれた場所なんじゃないのか。憤りを覚えるもどうしようもない事実。明日は終業式で午前中のみの登校と聞いてさらに項垂れた。
恵は普通の生活を知らない。持て余した時間をどう使えばいいのかサッパリ分からない。姉に聞けばいいのかもしれないが姉に一人も友達がいないことがバレるのもなんだか気恥ずかしくて恵はその日、初めて自分に『おともだち』がいないことを後悔したのだった。
図書館に通い詰めようかしらん。けれど本質的に恵は読書家ではないのだ。旅行なんてことも知らない、生憎ゲームなんてもの触ったこともなく、漫画という娯楽を肉親でもない男の資金から買うのも戸惑われる。
うんうん唸る恵の気持ちなど露しらず、時は無常に流れ、気付いた時には両手にアサガオの鉢を持ちながら帰宅しているところだった。
ああ、本当にきてしまった。これからひと月、どうやって生き延びよう。五条悟に言われた術式の練習? ただそれだけをひたすら? 悪夢だ。かといってそれ以外で時間を潰す方法も知らない。
ぼんやりと自分の影を見つめていた時、背後から声をかけられた。
「ふしぐろめぐみくん、ですか?」
落ち着いた声音だった。思わず振り返ると、そこには白い肌を日差しに赤くさせた青年が立っていた。最初見た時、恵はその鮮やかな金髪を見て『ミモザの妖精』と思ったのだが青年は呆ける恵を見て何を思ったのか少し早い口調で自己紹介をした。
「すいません、怪しい者ではないです。私は七海と言います。五条さんの後輩で、貴方の様子を見に来ました」
確かによく見るとミモザの妖精はこの夏に不釣り合いな真っ黒な制服を着こんでいてその服は恵にも見覚えのあるものだ。彼、七海はしゃがんで恵の視線に目を合わせてくれた。恵にとって、それは初めてのことで、知らないうちに頬が赤くなる。
「あの人、小学生を引き取ったと昨日言ってきたんです。それなのに全然世話していないっていうので心配で……食事は? 体調はどこか悪いところはありませんか?」
覗き込んでくる青い瞳にさらに心臓がバクバク鼓動する。それを勘違いしたらしく、七海はハッと気づいた様子で立ち上がった。ついてにヒョイと奪われてしまうアサガオの鉢。
「すいません、こんな日差しの中立ち話はよくないですね。私の身元が不安なら今から五条さんに連絡しますか? そうですか、ではおうちまで移動しましょう」
手を引かれる。ヒヤりと冷たい手。
自分より、大きな存在に手を繋いでもらうのも、姉以外では初めてだった。しかも、こんな、大きな手に。
「そこにスーパーがありますね。昼の用意はもうしてありますか? それなら買っていきましょう。適当に作ります」
作る、何を。首を傾げる恵の横で七海は手早く材料を買い込み、恵の家に向かったのだった。
「苦手でしたか?」
出された冷やし中華に目を丸くする恵に七海は不安そうに尋ねるので力いっぱい首を振った。料理なら、姉が作る。今は友達と遊びにいっている彼女がやってくれるけれど、姉もまた幼く凝った料理はできなかった。
艶々のトマトに細く美しく並んだ錦糸卵、涼しそうなキュウリにハム、カニカマ。それにかかる香ばしいゴマダレの香り。幼い恵は手を合わせ、小さく「いただきます」と囁いてからチュルンと麺を啜った。冷たくて、弾力があるソレに目を見開く。学校で出されたことはあるけれど麺は固まってダマになっているし野菜も少しぬるい。正直に言うと冷やし中華はそんなに好きではなかったのに。なのに。
「おいしい」
そう零す恵に七海は目を細める。
こども二人暮らしだというのに五条が買い与えたファミリー向けの大きすぎるリビングの窓から光が燦々と入り込み、ミモザの妖精を照らした。
「お茶もどうぞ」
コップに注がれる麦茶。さっき買ったばかりのペットボトルのソレはまだ温い。
「このあとデザートも食べましょうね」
デザートは知っている。けれどそれは給食のみに出てくるもので、津美紀も五条の金に遠慮しているのか伏黒家の食卓にそういった嗜好品が並ぶことはなかった。けれど七海はなにも気にせず「どうせあの人の金でしょう」とバンバンとプリンだのゼリーだの、恵にそれが好きかを聞いてかごに放り込み、カードで一括決済してしまった。
恵は自分が食に興味がないのだと、この時までは思っていたのに案外食べれるのだと初めて気付いた。それは空になったプリンの容器が二つ、机に並んでいる時にそう気付いたのだった。
「……それで、あの人きみを引き取ったものの術式の修行と呪霊の説明の時だけやってきてそれ以外はなんの連絡もなし、と」
「そうです」
クソデカため息とはこのことを言うのだろう。そんな見事なため息をついて七海は姿勢を正した。
「私が代わりに謝ります。正式な謝罪はあの人にものちほどさせます。恵くん、こどもにそんな生活をさせるなんて大人の恥です、申し訳ない」
深々と頭を下げる七海に恵はどうしたらいいのか分からず同じ正座のまま固まっていた。
「津美紀さんにものちほど謝ります。それで、恵くんは夏休みはなにか予定は?」
「いえ、とくに」
なにもない。そう、なにもなくて二時間前までの自分は途方に暮れていたのだ。そんな恵の様子を見て七海は悟ったのだろう。
「私も一応呪術師として任務があるので毎日とはいきませんがなるべく顔を出すようにします。その時は外出に付き合ってもらっていいですか?」
外出、つきあう。想像もできない言葉に返事を濁らせると七海はさっとメモを出し丁寧に連絡先を書いたソレを差し出した。
「とりあえず明日、一緒に買い物にいきましょう。この家はこどもの娯楽が少なすぎる。どうせあの人の財布なんてちょっとやそっとのことでは痛まないんですから使ってしまうほうがいいですよ」
七海は立ち上がった。「ついでに夕飯のストックも作っていきますからお姉さんと一緒に食べてください」そう言うと魔法のようにスーパーの食材をスープに、サラダに、照り焼きに変えてタッパーに詰め込んで「では明日」と微笑んで去っていってしまった。
食欲をそそる香りが立ち込めるキッチンとリビング、その中で恵は日常が変わる高揚感に唇を嚙み締めたのだった。