空の空「……キミは逃げないの?」
キンキーは、物言わぬ死体になった仲間たちに囲まれながらも、自分に向かってナイフを構えている少年へ問いかける。
少年は何も答えないまま飛びかかってきた。
軽く刺突を避けると、そのまま彼の首を掴む。
「が……っ!」
少年の首から下だけを持ち上げて、キンキーは一気に少年を床へ叩きつけた。
激しく咳き込む少年。
彼の両手からはナイフが落ちており、それをキンキーは拾い上げる。
そしてもう一度問いかけた。
「ダメでしょ?質問にはちゃんと答えなきゃ」
少年は答えない。ただ荒い息を整えているだけだ。キンキーはそんな少年の前にしゃがみ込むと、ナイフの先端を彼の腹へ当てた。
「もう一度聞くよ。キミは逃げないの?」
「…………」
少年は答えようとしない。
「答えてくれたらこのナイフをどけてあげる」
「……っ」
「ほら、早くしないとお腹に刺しちゃうよ」キンキーは薄く微笑む。しかし目は笑っていない。まるで獲物を狙う猛禽類のように鋭く冷たい色をしていた。
「……」
少年はようやく口を開くと答えた。
「……刺してみろよ」
予想外の答えに、キンキーは目を丸くする。
「死ぬのは怖くない」
少年は言った。その暗く澱んだ目からは、何の感情も読み取ることができない。
キンキーはただ黙って聞いていた。彼の瞳から目を逸らすことができないでいた。
「……どうして?」と、キンキーはたずねる。
すると少年は暗い声のまま続ける。
「俺が生きてることに、意味なんてないから」
少年の答えを聞いて、キンキーはしばらく黙る。そしてもう一度尋ねた。
「……キミの名前は?」
「……タスク」「タスク、いい名前だね」
キンキーはそう言うと、ナイフの先端を彼の脇腹に当てる。そしてゆっくりと力を込めた。
「……ぐ」
タスクのうめき声を聞きながら、キンキーは目を細める。ナイフの先端がタスクの皮膚を切り裂き、赤い血が滴り落ちる。タスクは苦しそうな表情を浮かべながらも、決して声を漏らそうとはしない。
「どうして、そんなに我慢するの?」とキンキーは質問を重ねた。
するとタスクはゆっくりと目を開ける。
「痛みの分だけ、何も考えずに済む」
虚ろな目のまま呟くように言った。
タスクの答えを聞き終えると、キンキーはナイフを彼の脇腹から離す。そしてそれを投げ捨て立ち上がった。
タスクは驚いた表情をする。そんな彼にキンキーは微笑みかけた。
「いいね」
「質問を変えようかな。キミはずいぶん人生に疲れてるみたいだ。死にたがっているようにも思える。
それでもボクへ刃を向けたのはなぜ?」
「……別に。そうできるからそうしただけだ」
相変わらず、その瞳には感情の色が見えない。
「どうせこの仕事は失敗だが、少しでも抵抗しておけば小銭くらいは稼げるかもしれない。……俺には金が要るんだ、山ほど」
「金を稼いでどうする?」
「『幸せ』になる」
その言葉に、キンキーは首を傾げる。
「何それ?ずいぶん漠然としてるね」
幸せって言っても色々あるだろ、と彼は続ける。「具体的な目標は?」タスクは少し考え込むような仕草を見せる。そしてこう答えた。
「わからない」
「……ある人が、俺をかばって死んだ。その人は死ぬ間際に、俺に『幸せになって』と言った」
タスクは静かな声で続ける。
「でも、それが理解できないんだ。俺には『幸せ』が何なのか、わからない」
タスクは言葉を詰まらせる。キンキーは黙って彼の話に耳を傾けていた。
「でも、あの人が最期に望んだことだ。何でも良いから叶えて、償いたいんだ」
「……俺には力がない。だからいつも奪われる。奪う側のやつはいつも力があった。力を持つ人間には金が山ほどあった」
相変わらず淡々と話す少年だが、わずかに拳を握りしめているのを、キンキーは見逃さなかった。
「だから俺は金を集める。稼いで稼いで、きっとその先に……、『幸せ』がある」
タスクの言葉を聞いて、キンキーはしばらく考え込んだ。そして再び尋ねる。
「じゃあ、それがキミの生きる意味、目的じゃないか」
彼は答えようとしない。ただ黙ってキンキーの次の言葉を待っていた。
「生きる目的がない人間は死ぬしかないよ」
「キミはそんな大切な『約束』があるのに、実は心の底ではそれすらどうでもいいと思ってる。だからこんな状況でも、形だけしか抵抗せず、死ぬのは怖くないなんてのたまえるんだ」
「違う!」
キンキーの言葉に、初めてタスクは感情を露わにした。
タスクは叫んだ。それはほとんど悲鳴に近い声だった。
キンキーはしばらく黙っていたが、やがて静かに微笑むと、話し出した。
「キミはボクにちょっと似ているね」
「何……」
そう言うとキンキーは、タスクの顔に、慈しむように手を添える。
「本当は生きてるのなんてどうでもいい。ただ息が続くから生きている。いっそ死んだ方が楽だと思う時もあるけど、他人に託された『約束』が邪魔をする」
「ただ生きているだけでは、無限に続く未来へ耐えられない。だから理由を取ってつけるけど、本心では納得もしていない」
と、キンキーは続ける。
「ボクも一緒だよ」
「一緒にするな」
「いいや、同じだ。……とにかく、ボクはキミのことが気に入ったよ」
キンキーは、しばらく母が子にするようにタスクの頬や頭を撫で回していたが、突然手を止めると、タスクの開かれた右目の前へ親指を添える。
「キミへ、ボクから一つプレゼントをあげよう」
そう囁いた瞬間、男は思い切り彼の右の目玉を押し潰した。
「!?ぐ、あああああっ!!」
タスクは悲鳴をあげる。片目からは鮮血が溢れ出した。
「なに……」と、彼は声にならない声でキンキーに尋ねる。
「生きる目的を見つけてごらん、何か、心から大切だと思えるもの。空虚な人生の中で、自分を死から遠ざけたくなる理由を」
そう言うと、彼はずるりとタスクの眼窩から指を引き抜く。
「だからまずは、必死に生き延びてみなよ。『これ』は試練という名のプレゼント」
キンキーはそう告げる。タスクの目から溢れ出す血が、彼の肌をつたって床を汚していく。
「もし、キミがここから生き延びて、ボクと再びまみえた時、ボクとキミが『違って』いたら」
キンキーは、タスクの血で汚れた手を見て目を細める。
「その時は、キミの手伝いをしてあげるよ」と、彼は優しく囁く。
少年はしばらく、耐え難い苦痛に喘いでいたが、荒い息を整えると、残った方の瞳をぎらつかせながら言った。
「……必ずだぞ」
それを見て満足そうに笑うと、キンキーはそのまま踵を返す。
そして背を向けて歩き出しながら呟いた。
「じゃあね」
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数年後。
キンキーが目を開けると、そこは知らない天井だった。
身動きを取ろうとしてみれば、自分が椅子へ縛り付けられていることに気がついた。
「久しぶりの再会だっていうのに、ずいぶん手荒じゃないか」
と、キンキーはおどけた口調で言う。
「黙れ」
部屋の隅から声がする。そこに居たのはタスクだった。
すっかり背が高くなり、隻眼を伸ばした前髪で隠している。
彼は長い脚を組み、腕組みをしながら言葉を続ける。
「お前に残された選択肢は1つだ」
声はだいぶ低くなっていたが、その淡々とした話し方や顔つきには、あの頃の面影が残っていた。
「お前の狙いは『大金持家のもう一人』だろ」
キンキーはにやにやと笑っていたが、その言葉を聞いた瞬間、彼の顔から表情が消えた。
「俺の持ってる情報を全部くれてやるよ。だからお前も俺に協力しろ」
その言葉を聞くと、キンキーは金色の瞳を細めた。
しばらく考え込むそぶりを見せたあと、ゆっくりと口を開く。
「……大金持幸子」
その名前にタスクがわずかに反応する。
「ずいぶんと大切にしているように見えた」
キンキーはタスクの反応を横目で見ながら、言葉を続ける。
「彼女を誰かに引き渡せば、おまえは一生遊んで暮らせるだけの大金を手にできる。そのために奔走してるってわけだ」
その言葉を聞いた瞬間、タスクの表情に僅かな変化が現れたが、彼はそれを悟られまいとするように顔を背けた。
そんな様子を見てキンキーは笑う。
「いいよ!おまえに協力してあげる」
そう言うと、キンキーは拘束を容易く解いて立ち上がる。
その様子を見て、タスクは軽くため息をついた。
「でもいいの?大金持一を貰っちゃって」
「いいさ」
タスクは続ける。
「妹の方は守れって言われてないからな」
その言葉を聞くと、キンキーは大声で笑った。
(ねえ、おまえ気付いてる?)
タスクはあの頃から変わらず、『大金を稼いで幸せになる』という論理を生きるための礎としているのだろう。
けれど、キンキーが『大金持幸子を誰かに引き渡せば金が貰えるのか』と指摘した時のタスクの表情。彼のその反応は、まるで。
(お金なんてどうでもよくなるぐらい、あの子のことが大事になってきてるんでしょ)
キンキーの笑い声が部屋中に響く。タスクはその様子を無言で眺めていた。