春の訪れ「千早くん?千早瞬平くんじゃないか?」
「?……そうですけど」
練習試合の帰り道、駅までの道すがら初老の男性に千早は声を掛けられて足を止めた。
シニアの頃と比べればだいぶ印象を変えたつもりだったがフルネームで名前を呼べる程度にこちらを知っているようで無碍に出来なかった。警戒心をうちに秘めたまま相手の出方を待つ。
「いやぁ久しぶりだね。野球続けてくれておじさん嬉しいよ」
「………、秋津シニアとの練習試合に観にきてくれてました?」
「覚えててくれて光栄だなぁ」
いきなり両手を握手するように握って上下にぶんぶんと振られて面食らった。たまにいる距離感がバグっているタイプの人間との遭遇に千早は全身の毛が逆立つ。
そんな様子を後ろで静観していた藤堂がおもむろに動いた。少し気だるそうなかおで千早の腕を軽く自分の方へ引く。
「千早、電車」
単語で短く話しながらちらりと男性を睨んだ。元々目つきはよろしくない男だ。睨むつもりがなく普通にしているだけで睨んでいるのかと誤解される程なのに明確に鋭く睨む。その視線に怯んだ男性はぱっと手を離して「応援してるよ!」と言ってそそくさと踵を返した。
「……助かりました」
ほっと息を吐いて即座にエナメルバッグから除菌用の高濃度アルコールジェルを取りだし手の平からこぼれ落ちるほど出してなじませた。じっとりと湿った手の触感がまだ両手に残っているような感じがする。
「別に。モテ男は大変だな」
「藤堂くんの知能でも嫌味って言えたんですね」
「腹パンしていい?」
「あはは駄目です」
そういってその日は駅で別れたのだった。
千早がどうにも厄介な人物を引き寄せやすい体質だと藤堂が気付いたのは夏の終わりのことだった。
千早は記憶力がよかった。これまで関わってきたことのある人は何かしらのエピソードとともに記憶しているようで、見知らぬ人に話しかけられたかと思いきや『シニアに差し入れくれた人ですよね』『宝谷との試合見に来て応援してくれてましたよね』『大泉シニアとの公式試合で俺のホームランボール取った人でしたっけ?』などといちいち出さなくても良いエピソードを持ち出し相手を大層喜ばせた。
「いちいち覚えてんの?」
「全員ではないですよ。印象強い人だけぼんやり覚えてるくらいです」
「ほーん…」
何故か面白くないなと藤堂は思った。
練習試合後、相手高の校門から出たところで妙齢の女性から千早は声を掛けられた。目をまっすぐに見てファンだと言った女性にそうですかと微笑んでついでの一言、「先日も試合見に来てくれてましたよね」なんていうものだから女性の纏う雰囲気が一瞬で恋する少女のものに変わったのを藤堂は見逃さなかった。それはそうだろう。推しから貴女の存在を認知していますなんて言われたら誰だってそうなる。
これはまずい。何がまずいかはわからなかったがとにかくそう思った。
思わず千早の肩を抱いて自分の方へ引き寄せ耳打ちする。ちらりとわざとらしく牽制の視線を女性に向けるのも忘れない。
「千早」
いつもよりずっと低い凪いだ海のような声が千早の鼓膜を揺さぶる。
聞き慣れているはずなのに大人びたそれにぞくりと肌が粟立った。なんて声出してんですなんて台詞はだせなかった。
「藤堂くん」
「帰るぞ。」
「え?あ、ああ、はい。すみません急いでるので失礼します」
ぺこり、と会釈して藤堂に半ば引きずられるようにその場を足早に離れる。女性が完全に見えなくなってから藤堂は溜息と共に千早の肩から腕を離した。
「あのよ…。」
「なんです?」
「ああいうの誤解されっからやめたほうがいいぞ。」
「ああいうのって?藤堂くんになんか関係あります?」
「関係ねぇけど……嫌だろ。なんかそういう目で見られてるダチ見んの。」
性的なとはいいすぎかも知れないが健全な男子高校生を見る視線ではなかった。梅雨時のぬかるんだグラウンドのようなねっとりとした視線。それを一身に浴びて汚される千早の姿を見たくなかった。藤堂にとって千早はそういう目で見ていい男ではない、もっと高潔な存在なのだ。
「そういうこと言ってくれたの君だけですよ」
「そうかよ。良かったな第一号が俺で。」
「……俺、昔から割とこうなんです。基本一人だったから話しかけやすいんでしょうね。」
一人だからではなくその顔立ちと記憶力のせいではないかと思ったが口を噤んだ。藤堂の主観も入っている上に容姿のことをいうのは良くないことだと倫理観がそうさせた。
「けど最近はなんかそういうのすごく減った感じします。隣にヤンキーがいるからですかね。」
「藤堂葵様に感謝しろよ」
事実、千早に注がれる不愉快な視線や声を掛けられることは春から比べるとかなり減っていた。見知らぬ厄介そうなファンに絡まれるたび藤堂が会話を強制的に終了させたり睨みをきかせ続けたのが功を奏している。
これから秋になり冬になればシーズンオフになるので安寧の期間がおとずれると藤堂はひっそりと安堵したのだった。
なぜ安堵しているのか藤堂にはその理由はわからなかった。
「ネットストーカー?」
「かもしれないってだけです。アカ消そうか迷ってて」
「どんな感じ?警察相談する?」
「まず先生とかかな」
秋が深まり枯れ葉が舞い散る頃千早は部室でため息を付いた。Twitterとインスタグラムのアカウントを所持しているのは既知の事実だったがどうやらネットストーカー被害にあっているかもしれないとポツリと愚痴のように零した。
これです、と渋面のまま千早はTwitterのアカウントを開示した。
おおよそ高校球児のアカウントにつくコメントとは思えなかった。「14日の16時バッセンに入ったの見たよ」「16日の17時半に駅のCDショップにいたよね?」など監視しているようなコメント、どれほど千早が好きか、いつから好きだったなど歪んだ愛情が綴られたツイートが大量に送信されている。
「今はもうここ見てないですけど気持ち悪いんですよね」
「いやいやこれもうブラックじゃん。犯罪じゃん通報しよ瞬ちゃん。」
「…ですよねぇ」
うーん…まずは両親に相談かーと千早が頭を悩ませていると斜め後ろに立つ視線が鋭く刺さっているような気がした。ぞくりと背筋に悪寒が走るが見てはいけない気がして柄にもなく千早は振り向けない。山田がそれを察して慌てたように千早の斜め後ろに立つ男に優しく声を掛けた。
「藤堂君、具合悪い?大丈夫?」
「瞬ちゃんのセコムだもんね葵ちゃん。」
「そんなんじゃねぇわ。」
「セコム?」
「、瞬ちゃん気付いてないの?まじ?」
「何のことで―」
そこまで問い詰めかけたところで顧問がそろそろ鍵を返すよう苦言を呈しに部室に入ってきた。
時間を指摘されて途端に日常に引き戻される。
「やば、もうこんな時間?」
「すいません今でます」
そうしてその場はうやむやになってしまった。
しかし、その数日後に突然ネットストーカーのアカウントはBANされTwitterから永久に消えた。
「誰かが通報してくれたのかも」
「こういうの一人が通報したって無意味なんじゃないですか?」
「じゃあ複数人じゃない?瞬ちゃん親衛隊とか。」
「なんですかそれ」
「まぁまぁもうそういうの来ないなら安心じゃん。」
兎にも角にもそういった事件は警察沙汰になる前に誰かの手によって解決されたのだった。
冬のオフシーズンの最中、千早は自分の心境の変化についていけず眠れぬ夜を過ごしていた。
秋ごろから藤堂の距離感の近さをどうにも意識してしまう。肩が触れるほど隣にいて何かがあれば都度手や肩を引いて藤堂の方に引き寄せる動作に緊張と気分が高揚して心臓が狂ったように跳ねるのを押さえられなかった。
そんなスキンシップをとれるような友人がいなかったのも大きい。
藤堂が隣にいてくれるようになってからリトルやシニアの時に感じていた不愉快な視線は無くなった。無遠慮に近づいて触れてくる大人も今はいない。それもこれも藤堂が牽制し庇ってくれていたからだと最近になってようやく気付いた。
『セコムってそういうことだったのか…』
ネットストーカーに悩んでいた時に要がぽろりと零した「瞬ちゃんのセコム」というワードが今になって合点がいった。
どうして庇ってくれるのだろうか。
どうして触れてくるのだろうか。
どうして、自分はそれに嬉しさを覚えてしまうのだろうか。
全てがわからない。両親に相談するのも気恥ずかしい。こんなときは文明の利器に頼ろうとAIアプリを開いた。なんでも聞くと教えてくれるそれに千早は自分の感情を吐露する。
藤堂の隣にずっといたい、守ってくれたように自分だって守りたい、触れて欲しいし自分も本当は触れてみたい、自分だけが独占したい。思いつく限りの感情全てをぶつけた。
そしてAIは千早にその感情を教えるのだった。
『それは恋です』
一方で藤堂もまた眠れずにいた。
これまでの自分の行動が友人に対するものとしてはあまりに逸脱しているのではと不安になった。
最初はチームメイト、少し経って友人として心配だったから守ったつもりでいた。下世話な視線を向ける大人に腹が立った。千早瞬平はそんな目で見ていい存在ではない、そんな風に触れていい存在でもない。
視線で人を殺めるたびに千早が安心した顔を藤堂に向けられるたびに奇妙な高揚感に見舞われた。
『ありがとうございます』『役に立つもんですねぇ』『藤堂くんがいて良かった。』助けるたびに心の底から安心した声でお礼をいう千早が離れない。
藤堂の中に小さいが確かに宝石のようにキラキラと光っている千早の言葉を脳内で反芻するたびに頬が緩む。
あの声も、視線も、もっといえばその存在全てを独り占めしたくて仕方がない。
最近は嫌味さえ可愛いと思えてしまう始末。相手は男なのに。この感情の名前を藤堂は知らない。
「いつまで起きてんだ」
「げ。姉貴」
「お姉様と呼べ。……なんか悩んでんの?」
藤堂の斜向かいに座って姉は少し心配そうに声を掛けた。普段は横暴だがなんだかんだいいつつも優しい心根で藤堂のことは大事な弟なのだ。
藤堂は意を決して相談した。相手が千早というのはぼかしたつもりだが察しの良い姉はおそらく感づいている。一通り喋るのを聞いてから姉はフッと笑った。
「何笑ってんだよ」
「笑うだろそりゃ。いいか葵それはな」
『恋してるっつーんだよ』
晩冬にAIよってこの感情がどうやら恋というものだと知った。
高校に入って2回めの春。
蕾のまま咲かずに落ちた花のような、生きながら死んでいくような心地の中に一人千早はいた。
藤堂へ感じる思いが恋だと定義されたタイミングで藤堂が千早に触れることが一切なくなった。
半年以上掛けて根気よく藤堂が千早の厄介ファンを身を挺して蹴散らした結果千早は平穏無事に高校野球を謳歌できるようになった。
あれから藤堂から手を引かれたり肩を抱いて引き寄せられることもない。清峰や要、山田と接するのと何ら変わらない距離感。
『―当然だ。』
千早は目を伏せる。
平穏を手にしたということはそういうことだと言い聞かせる。
そもそも自分が勝手に藤堂を好きになったのだ。単に友達が困っていそうだから助けたにすぎない。藤堂葵は人に容易に施すことができる人間だった。
解決したのならもう触れる理由などない。もしくは自分の気持ちが藤堂にバレてしまい忌避されているのかもしれない。そちらの線も濃厚だなと目を閉じた。
相手も自分も男で一般的恋愛の対象外である事は自明なのだ。
気持ち悪いだろうし藤堂に避けられるのは全てが当然のように思えた。
醜い感情だと蓋をしたが一度持ってしまった好きだという感情は液体のように隙間から溢れ出て止まらない。
このままでは溺死してしまう。
勉強も野球も手につかない日々が続くくらいならいっそ全部ぶちまけて終わらせようと千早は体育館裏に藤堂を呼び出した。
姉からそれは恋だと教えられてから藤堂は千早に容易く触れることができなくなった。
千早に触れるとどうにも過剰に意識してしまうからだ。触れるたびに気分が高揚しすぎて吐き気を催した。好きすぎて苦しいなんてことがあるとは知らなかった。
春になったら幸い厄介ファンは全て遠くから千早を見守る存在に成り果てたので触れられなくても問題は生じなかった。
そのことでこれまでは何かを言い訳にして千早に触れ続けていたことをようやく自覚した。理由がない今気安く触れることが叶わない。
自分の千早に抱く気持ちはこれまで身を張って牽制し黙殺してきた人間と何ら変わらない。行き過ぎればきっと彼を脅かしてしまう。それだけは嫌だった。好きな人には安心して笑っていて欲しい。
この気持ちは隠したまま遠くから見つめていよう。自分よりガタイのいい男から好意を向けられても嬉しいわけがない。
友達の関係のままなら少なくとも高校生活はずっと隣が確約されているのだ。これ以上は望んではいけない。
この今のポジションを手放すわけには行かないと思っていたのに、千早から体育館裏に呼び出されて藤堂の情緒はいよいよ滅茶苦茶になったのだった。
「すみませんいきなり」
「べ、別に。話って?」
これは…まさか告白か?と藤堂の興奮は最高潮だった。体育館裏なんてベタな場所に呼び出すのだからもうそれしかない。どう返事しよう。抱きしめてもいいか、あわよくばそれ以上イケるか?など喜色いっぱいの藤堂と裏腹に千早の顔は今にも死にそうだった。
無理もない。千早にとってはこれから振られる予定でいるのだから。
「―――っ、俺……藤堂くんのこと好きでした」
「………でした?」
「ご清聴ありがとうございました、それじゃあ」
言い逃げのように踵を返す千早の腕を慌てて掴んで引き止めた。思っていた告白と違う。もっとこう甘酸っぱくて胸が高鳴るような、未来はそれだけでハッピーエンドが確約されているような物だと思っていた。なんだ今の遺言みたいな告白は。
「なぁ、今は?つか俺の返事とかは?」
「面と向かって振りたいってことですか。ひどい人ですね。」
「え、なんで?」
「俺の話聞いてました?男が男に告白したんですよ?」
千早は藤堂の手も振り払えず青い顔のまま唸るように呟いた。告白ってそんな顔でするもんだっけ?と藤堂は必死で考える。頭のいい人間の考えが本当にわからなかった。
「俺は……俺も千早のこと好きだし千早がいいなら付き合いてぇけど。」
「―っ…!?」
ヒュッと千早の喉が鳴った。
「……もう俺のこと嫌いなんか?」
もしそうだったらと話しているうちに冷静になる。嫌われていたらと思うと血の気が引いて藤堂は千早の手を思わず離した。そのまま一歩後ろに引こうとして胸元に鈍い衝撃が走る。
千早が藤堂の胸板に勢いよく飛び込んで抱きしめていた。
状況を理解した瞬間、ドッと藤堂の心臓が突き破らんばかりに跳ねた。行き場をなくした腕をおずおずと千早の背中に回すと千早も抱きしめる腕の力を強める。
「嫌いじゃないです。ずっと俺からも触れたかった」
着崩した制服の胸元で藤堂にしか聞こえない声の大きさで喋る千早は首まで真っ赤だった。藤堂は目のやり場に困り思わず天を仰ぐ。桜の花がちらほらほころび始めているのが見えた。
「藤堂くん、俺と付き合ってくれますか」
そう千早が熱に浮かされたように囁いたので藤堂は視線をゆっくりと下ろす。断るつもりは毛頭ない。
「おう。よろしくな」
そのまま千早の顔がぐっと藤堂の顔に近づいた。経験は無かったが身体が自然と動き藤堂も少し屈んで目を閉じる。
間もなく重なる唇と触れる頬の温かさに春がきたのだと知った。