秘密と日常「千早、ここどうすんの」
「そこはさっき言った公式の応用でいけますよ」
「さっき?」
「俺の話聞いてたんですよね?」
「んん……いちおー……」
放課後、期末考査まであと一週間というタイミングでいよいよ藤堂は千早に泣きついた。
謝礼として明日の昼は千早の分も弁当を作ってくるという伝家の宝刀を抜いて千早を自宅に招いて勉強を教えてもらっている。
考査で赤点を取ると補講が入るということで、野球をする時間が大幅に減るということだ。最悪部活停止もありうるのでそれはなんとしても回避したかった。もちろんそう思っているのは藤堂だけに限った話ではないため千早もこうして協力している。
藤堂は勉強というものがすこぶる苦手である。
授業中は寝るつもりがなくてもいつの間にか眠ってしまう。そして最悪なことに隣の席の男は全く起こしてくれない。最初は「社会のゴミを発酵させてる最中ですので」という理由だったが恋人になってからはその理由が「気持ちよさそうだったので」とか「寝顔が可愛かったので起こすのがもったいなくて」なんて真っ当に聞こえる文言に変わっていた。半分本音で半分は意地悪なのが透けて見えて腹立たしいが根本的には授業中徹頭徹尾寝てしまう自分が悪いので何も言えない。
当然授業についていけるわけもなく、家に帰れば課題のことなんて記憶の彼方に飛んでいってしまう毎日だった。
先日の小テストでも見事0点をとり隣の席の満点だった恋人に『うわぁ全問間違えることってあるんですね。写真撮って良いですか?』なんて皮肉を言われたばかりだ。もちろん写真はお断りした。
「何がわからないのかわからないよりはマシですけどね」
そう言いながらさっき言ったはずである解説を再度繰り返す優しさはあるようだ。藤堂は眉間にシワを寄せながら必死になって問題にかじりつく。そうして必死になっている間にひしひしと感じる千早の視線がどうにも気になって藤堂は手を止めた。
いつもの二人きりの時に向けられる穏やかな春の陽気のような物ではない。責めているわけでも呆れているわけでも怒っているわけでもない、何の感情も伺えない視線がじっとりと刺さってなんだかバツが悪かった。
「千早――」
「なんです?」
耐えきれず藤堂は口を開いた。平坦な抑揚の無い声で返事が返って来る。
「今何考えてんの」
「特に何も考えてませんでしたけど?あ、君のこと考えてました♡とか言って欲しかったですか?」
「おめーの真顔こえーんだよ」
「藤堂くんに怖いものってあったんですね」
からかい屈託なく笑う千早にようやく安堵の息をつく。
「あるわ」
じぃ…と千早の顔を見つめて、二人きりの時くらいその飄々とした仮面をはぎ取れたら良いのにと藤堂はおもむろに手を伸ばした。
斜め向かいに座る千早の頬にそれは容易く届いて、指先でそのまま頬を撫でるとじわりと頬が熱くなる。
怒るだろうか、照れるだろうか、それとも払い除けられるだろうかと反応を待っていると手のひらに頬が擦り付けられた。猫が無でろと身体を擦り寄せてくるような予想外の動きに藤堂の心臓が跳ねる。
「っ……」
「勉強、もういいんですか」
頬に当てられた手に自分の手を重ね合わせて千早はいたずらっぽく問いかけた。先ほどとは異なり熱っぽく見つめられて藤堂はその瞳から目が離せなくなる。
「おー、なんとか?」
「そうですか」
平常心を装って答えるが獲物を狙う動物のようにきゅっと細くなった瞳孔に映る自分の顔がひどく間抜けに見えた。
そのまま千早の顔が近づいてきて反射で目を閉じる。
「?」
予想していた感触は訪れずそろそろと目を開けたタイミングで千早は藤堂に全体重を預けるように抱きついて畳に押し倒した。ゴッ、と鈍い音が後頭部から聞こえた後になんとも言えない痛みが走る。
痛みに呻く藤堂をよそに胸に耳を当てて千早は心臓の音を聞いた。心拍数の高いその音は最近好きで聞いているエレクトロニカによく似ている。
そうしているうちに痛みも引いてきた藤堂は自分の体の上でじっと動かない千早の背に腕を回し密着した。服越しから伝わる体温も、無音の空間も何故か心地よかった。
「ふふ…トトロみたい」
「千早がメイちゃんになるけどいいんか」
「藤堂くんの馬鹿、もう知らない」
「それは姉ちゃんのほうだろ」
「でしたっけ」
くつくつと笑いながらどうでもいい会話のやりとりをする。藤堂は右手は背中に回したまま左手で千早の後頭部を撫でた。刈り上げられている後頭部の感触は妙に癖になる。千早もされるがまま甘んじて受け入れておりこの関係になれて本当に良かったとじんわりと湧く感情を藤堂は噛み締めた。
「俺のことは知ってて欲しいんだけど」
「藤堂くん次第ですかね」
「千早のことももっと知りてぇし」
「それはどうですかねぇ」
「そこはいいって言えよ」
「……俺のこと知ったら藤堂くん俺と付き合うの嫌になるかもしれないですよ」
「知らねーようだから教えてやるけど毎日惚れ直してるから問題ねぇわ」
「うわ……うさんくさー…」
言葉と裏腹に語気に嬉しさが滲んでいるそれに藤堂は破顔した。
「さて、充電したところでそろそろ帰ります」
ゆっくりと身体を起こして藤堂から降りてスマホで時間を確認し荷物をまとめていく。名残惜しそうな顔をしたのは藤堂で、なんとかもう少し一緒にいれないか模索するが思いつかない。
そうこうしている間に千早は荷物をまとめ終えてついに立ち上がったのでつられて藤堂も腰を上げた。
どうにかして引き止めたいのに上手い言葉が見つからず歯噛みする藤堂を察して自室の戸を引く前に振り返った。
「そんな顔しなくても明日も会うじゃないですか。藤堂くんは甘えたですね〜」
「そーだよわりぃか」
「可愛いです」
素直に肯定する藤堂に千早は顔をほころばせる。年齢相応のあどけなさの残る笑顔に藤堂は釘付けになり思わず抱きしめていた。
「ちはや……すき」
「なんですいきなり。俺も好きですよ」
「言ったろ毎日惚れ直してるって」
「ふは、タイミングおかしすぎでしょ………いつか、ちゃんと教えます、俺のこと」
いつとは明言しないが少しずつ開示する姿勢を見せた千早に藤堂は大きく頷いた。
「ん、待ってる」
「未来で待ってて」
「それはハウルだわ」
「あはは、じゃあまた明日」
「おう、明日」
そういって千早を見送ってから藤堂は一人ソファに倒れ込んで天井を見上げた。先ほどの千早の言葉を大事に反芻する。
『いつかちゃんと教える……か』
千早の言葉が、藤堂の胸を締め付ける。千早には、まだ誰にも話していない過去がある。もちろんそれは同じだけ藤堂にもあって、それに無遠慮に触れることは互いにしなかった。
知りたい気持ちもあるが同じくらい不安もある。それはたぶん千早も同じで言葉通りにいつかを待って求めても本当に良いのだろうかと迷いが生じた。しかし一度口にした言葉はもう取り消せない。どうしたものかと藤堂は目を閉じた。
翌朝、藤堂は少し早めに家を出た。千早と駅から一緒に登校するためだ。千早のほうが一本早い電車に乗っていることは想像がついていたので電車に乗り込み姿を探すと千早の方から声を掛けてきた。
「おはようございます。珍しいですねここから一緒になるの」
「はよ。たまにはいーだろ」
「今日は雪でも降るんですかね」
いつものように挨拶を交わし、二人は次第に混んでくる電車内の隅に寄って最寄り駅までの時間を過ごす。
電車内ということもあり会話は次第に減っていく。一駅ごとに乗客が増えていく電車内で千早は藤堂の手を握った。手のひらを合わせるように握っていたが人が増えていくにつれて指先がするりと指の間に絡まりいわゆる恋人繋ぎの形になる。
藤堂は特に抵抗する様子もなく、その手を握り返した。二人の間には、言葉はなくとも穏やかな空気が流れる。
最寄り駅に着き、電車を降りると、二人は手を離して自然と隣に並んで歩き出した。駅の改札を抜け、学校へと続く道を流れに乗って進む。
「あのよ、昨日の事だけど」
「昨日?」
「教えてーことだけ教えてくれたらそれで良いからな」
一晩考えた藤堂なりの訂正をする。千早はキョトンとした表情を浮かべていたがすぐに合点がいって弾かれたように笑い声を上げた。
突然笑われて面白い事を言ったつもりの無かった藤堂は困惑の表情を浮かべる。
「アハハハ、俺にそんな深刻な秘密なんて無いですけど。藤堂くん俺に夢見過ぎじゃないですか?かぁわいいんだ」
「なっ…」
「それとも藤堂くんにはあるんですか?俺にも言えない秘密とやらが」
「ないですケド」
「それより約束覚えてますよね。」
これでその話は終わりというように千早は話を切り替える。藤堂もそれに乗った。
「誠心誠意作らせていただきました」
「ちなみに俺冷凍のグラタン好きじゃないんですよね」
「ぜってーそう言うと思って入れてねぇわ」
「恐れ入ります」
そこでちょうど良く背後から山田が二人の名を呼んだのが聞こえて二人は振り返った。視線の先にはいつもの三人がいて二人の間にあった甘い空気は霧散して日常に意識が切り替わる。
「おはよう千早君、藤堂くん。」
「山田くん、おはようございます」
「はよ。」
「朝練出来ないのなんか変な感じだね」
「だな」
いつもの野球部の会話をしながら校門に入り教室に向かう。それぞれの教室に分かれてから千早は一瞬だけ藤堂を一瞥すると目があった。意味深に互いに微笑んで席に着いた。
誰にも言えない秘密を共有しながら二人は今日も関係を緩やかに深めていく。