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    飯山食堂

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    飯山食堂

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    20210515 Mission:Stanby!での無配です。
    ゴプロ後のまだまだ冷たい一匹狼イーサンと、お薬大盛りで口のチャックが大破したベンジーの話。
    イー?←←←←←←←←←ベンです。

    ##イーベン
    ##M:I

    First Reminding Buzzer 指令を再生してすぐに脳裏に浮かんだのは、教え子の葬儀で見ていた光景だった。
     インドで傷めた脚が治ってから今現在まで、イーサンの主な任務はシンジケートの情報収集だった。時折全く別の任務が入ることはあったが、エージェントの救出任務など、そもそも余程のことでもない限り彼には回ってこない。一度帰投するつもりでセーフハウスを出ようとした彼の元に突然舞い込んだ追加ミッションは、なるほど体が空いた上現在地が最も近いという合理的な理由でのアサインであった。
     製薬会社ラボへの潜入任務に当たっていたエージェントからの定時連絡が途絶えた。エージェントの体内に埋め込んだ発信機は稼働しており、バイタルデータは送信されていることから生存は確認できるため、救出しろとのこと。
     リンジーのようにはさせない、などという気持ちは不思議と湧いてこなかった。何なら、数秒後には判明するが今は誰だか知らないそのエージェントに、ヘマをしたなと小さく苛立ちさえ覚える。
     自分さえしっかり戦えればいい。誰かの生存を気にかけなくとも、自分一人が無事でいれば全てそれで把握できる単独での任務は気が楽だった。究極の管理術ではないかと思うくらいだ。現状把握も戦術の組み立ても、力量の把握も何もかも、自分のことは自分が一番わかっているのだから。一人でできるように個を高めてさえおけば、全体の底上げにもなる。単独任務が難なくこなせるのは最低条件だろう。
     もう何年も、根底にはそれが、独り身になってからは表立ってある。だからなおさら、単独任務に失敗するという事象自体に苛立ちが募るのだ。
    「救出対象はベンジャミン・ダン」
     ぱっと現れた顔は、よく知った、けれどそれより少し前であろう顔。いつの間に潜入任務など請け負えるようになっていたのか。あのおしゃべりで陽気で、ついこの間初任務で浮き足立っていたような彼が単独で潜入任務? 人選ミスではないのか。
     どうして、などという疑問は一つも湧いてこず、納得の溜め息がひとつ出た。
     リンジーは間違いなく自分の教え子の中で飛び抜けて優秀だった。内通者の工作に利用されるようなことがなかったならば、今はトップを走っていただろう。
     頭の中で、在りし日のリンジーと本部で見たベンジーのトレーニング記録が同時に映し出されるが、どう考えてもベンジーに彼女と同じ動きを要求しようと言う気は起きない。実現しそうもない想像は、リンジーの姿とともに鼻につく匂いの煙と空気に紛れて消えていった。

    *****

     出発前に、頼れそうなベンジーの姿を想像できなかったのは正解だった。もしもできていたら、落胆した分余計に疲れたに違いないだろう。
     ただし正解とは言っても満点ではない。見つけたベンジーは、思っていたよりも数段ひどい姿をしていた。
     固定された椅子に四肢を拘束され目隠しをされたベンジーは、荒い呼吸を必死で繰り返している。生きてはいたが、遠目にも尋常ではないとわかるような状態だ。閉めたドアの音に大きく震え、近づくイーサンの足音にも怯えるそぶりを見せる。
    「ベンジー」
    「ッ……!」
     声をかけると一層震えて、拘束されていると言うのに逃げようともがく。
    「くるな、くるな……」
     上擦った声でそう繰り返しどうにか音から離れようとするその首に、いくつかの針痕が見えた。何か投与されているのか、そう思ってその痕をよく見ようと触れると、途端にベンジーは激しく暴れ出す。
    「さわるな! やめ、ッあ、あ、ああ……!」
    「ベンジー、僕だ」
    「やめろ、くるな、やめろ、やめろ」
     外した目隠しの向こうにあった目は、涙でぐちゃぐちゃな上赤く充血して濁っていた。イーサンは今までのところ、どんな窮地でもやたらきらきらしていた目しか見たことがなく、その何も映さないものに正直に驚いた。目の前にいる自分を知っているはずなのに、全くそれが理解できていないらしい。
     何を投与されたのかはわからないが、音にも感触にも全てにとにかく怯えるそぶりを見せる。こう言う状況でもなければ落ち着くまで待つが、そんなことはできないし今は一分一秒が命取りになる。一つもまともな手がない状況に辟易しながら、イーサンはいささか乱暴に逃げようとするベンジーの顔を掴んだ。
    「ひッ……!」
    「僕だベンジー。よく見ろ」
     顔を背けることを許さず、瞼も閉じさせない。震えも悲鳴もお構いなしに、無理やりその視界に入り続ける。
    「ちゃんと見ろ。わかるか?」
    「ッ……イー、サン……?」
     ようやくベンジーの口から自分の名前が出て、安堵とは違うため息が漏れた。効果が薄れたわけではないようだが、それでもさっきの状態よりは幾分マシだ。これでようやく拘束を外して次の段階に移れる。
     そうして全ての拘束が外れると、椅子からずり落ちたベンジーはイーサンにしがみついた。精神的な異常だけではない、意識変容のみならず発熱・発汗など身体的な異常も触れることで確認できる。
    「何を打たれた?」
    「わかんない、途中からおぼえてない……いっぱい、いろいろ」
     表舞台に堂々と出せないものを作っている製薬会社、薬局に並べられないものなどごまんとあるだろう。そういったものに触れる機会のある自分たちが想像する〝人に言えない薬〟はその一部でしかないと想像するに、ベンジーが打たれた薬がおおよそまともなものではないことはわかる。ベンジーが彼らにとって〝正体が露見した敵〟である点から、その投薬のされ方もおそらくはまともではない。
    「立てベンジー、歩くんだ」
     死体のふりをさせるストレッチャーもないし、抱えて移動できるような環境ではない。改めてリンジーの救出を思い出すが、アドレナリンの注入で自分の足で立って走り銃撃戦もかい潜った彼女のなんと頼もしかったことか。しかし何を投与されたのか分からず既に異常な反応のオンパレードであるベンジーに、これ以上のショックを与えたら命の保証ができない。
     イーサンは仕方なく、先ほど捨てたばかりの目隠しを拾い上げると、それを手早くベンジーの目元に巻きつけて立ち上がった。急に視界を奪われイーサンも見失い、声も出せずにパニックに陥りそうになったベンジーの手を取る。
    「これで怖いものは見えないだろ。手を繋いでいろ」
     離したら置いていく。ダメ押しでそう言うと、ベンジーは子供のように強く手を握り返してきた。無論、イーサンは本気で言っていたのだが、それに気づくこともできないような意識状態だったのは、ベンジーにとっても後のイーサンにとっても幸いだった。

    *****

     脱出自体は比較的容易に済んだ。事前の計画とどこも齟齬が出ることなく、珍しく想定外のことも起こらずに、イーサンが半ばベンジーを引きずる形ではあったが、二人は無事地下水路からラボを出ることに成功した。
     そして現在、水路の出口だった郊外の川沿い、街頭もない小さな橋の下で、イーサンはベンジーにしがみつかれたままピックアップを待っていた。
     響く足音に怯え、足についた水の冷たさに怯え、追っ手を振り切ってようやく足を止めたここで灯した小さな明かりにも怯え、ピックアップを要請した無線のやり取りにまで怯えられてさすがに虚無顔にもなる。これ以上怯えられてはもうこちらが持たないと、座る場所の安全だけ確認して灯りは消し、しがみつかれたのをそのままに座っている。
     ベンジーの顔がくっついている肩口が冷たい。せめて水でも飲ませて気休め程度にでも中和させたいが、あいにく飲み水は持っていない。飲まないのによくそんなに目から出続けるものだと一周回って関心すらするほど、ベンジーはずっとぐずっている。
    「ベンジー、迎えが来るまで少し眠れ」
     そう言って、ベンジーの首に指を伸ばす。面倒くさくなって気絶させてしまおうと雑で乱暴な対処に乗り出したが、ぴたりと当てた指に力を込める寸前、ベンジーが途切れ途切れに言葉を発した。
    「ごめん……イーサン」
     別に謝られることじゃない、捕まったのはともかく現状は薬のせいだ。どうせ気絶させるのだから返答する必要はないと思ったが、続いた言葉に思わず指が離れる。
    「俺、あのとき、ごめん」
     突然出てきた、今ではないいつかへの言葉。一体何を言い出したのかと、思わず聞き返してしまう。
    「なに?」
     正常でない人間と会話をしようとするなど無駄でしかない。成立するとは思えないし、その口から出てくるのが事実真実とも限らないのだ。
    「俺、一回電話切ろうとした……おまえを見捨てようとしたの、ほんとごめん……」
     上海。電話と自分とベンジー、それらで一つだけ思い当たるものが即座に浮かぶ。ベンジーの口から出たのは妄言ではなく、現実を踏まえた言葉だ。
     とはいえ、謝られるようなことではない。指名手配犯からの電話を切ろうとするのは真っ当な反応だったし、彼は結局電話を切ることなく共犯になることを選んで自分とジュリアを助けてくれたのだ。
    「俺おまえに、あんなひどいことして、任務で足引っ張って」
     随分時を遡る自白剤があったものだと思いながら、こんなに長い間そんな気にしなくてもいいようなことをずっと抱えていたのかと思うと、陽気で楽天家なベンジーの秘密を見てしまったような気になる。いや実際に秘密なのだろうが。素面の時に気にするなと言ってやったら楽になるんだろうか、などと考えていると、
    「なのにおまえのこと好きなんて、ほんとおこがましくて、ごめん、ごめん」
     確実に秘密であろう言葉が飛び出してきた。
    「……ベンジー?」
     自白剤で開いてしまった秘密の貯蔵庫の扉から、上海の告白を皮切りに溜め込んでいた言葉がぼろぼろ溢れているらしい。なんて? と聞き返したイーサンの言葉に応えることなく、ベンジーの口はそこだけ通常運転でぺらぺらと秘密を暴露する。
    「もうわかんない、どうすればいいのか……俺ヤな奴だし役に立たないし、イーサンに絶対許してもらえないし、なのにすげえ好きで、今意味わかんないくらい好きで、どうしたらいいのかわかんない……」
     どうしたらいいのかわかんないのはこっちのセリフ、とは思ったが、何故だかイーサンはそのベンジーの口を封じようとはしなかった。
     面白がった、と言われれば否定はできない。聞いてみたいと思ってしまったのだ。自分さえいればいい、自分さえちゃんとしていればいいと、他人を見ることも聞くこともしなくなって、どう思われているかなんてもう長い間気にしていなかったと言うのに。だからこそかもしれないが。
    「俺全然ダメじゃん……おまえみたいになりたくてエージェント目指して、力があればおまえのこと助けてやれるって思って、それで頑張ったのに……」
     語彙力は乏しくなんだか組み立ても雑な、けれど全部真実の言葉達。そういえばエージェントになった動機は聞いたことがなかったが、まさか自分に憧れてなどと言われるとは。子供に憧れの眼差しを向けられる警察官はこんな気分なのだろうか。
     しかしそれに続いた言葉に、イーサンはまるで冷水をかけられたように固まった。
    「おまえが誰かのために頑張ると……頑張るのに、それなのにひとりになっちゃうなんてそんなひどい話ない」
     それはおそらく、自分で気付いていたこと。以前は自覚していて、そうして手放し、それからは封じて忘れようとしていたこと。
     報われないなんて、思わないようにと。
     それは立場のせいだ。守りたいと思う人は同じところに上げるわけにはいかず、上げられないから危険に晒してしまう。けれど、だからと言ってでは自分がここを下りてしまえばいいのかと言えば……それは出来なかった。無理だと自分で証明してしまった。
     だから離れたのだ。頑張らないことが出来ないから、頑張るためには一緒にいられないから。やればやるほど、孤独は澄んで深くなるとわかっていたが、どうすることもできずに。それがジュリアを守るのだと、それも事実だったから。その為なら、自分一人孤独になれば済むのなら安いと、それで封をした。
     それを、ベンジーが知っていた?
     驚き固まるイーサンには気付くことなく、ベンジーはなおもべそべそと胸の内のさらに奥を吐露する。
    「おれが頑張ったら、隣にいられるくらい強くなったら、一緒に頑張れるようになったらおまえのことひとりになんかしない。一緒にいられるのに」
     それは理想の、けれどジュリアに課すことなどできなかった、イーサンの孤独を打ち消す方法。既に一般の生活は望めず、同じ組織のエージェントからも同じ人間と思われなくなった今となっては、そうだったらよかったのにと一瞬考えて、もう望めないのだとそれ以降永遠に考えることすら葬り去ったものだった。
     そのつもりで一人突っ走ってきた、だからいるはずなどないはずだったのだ。自分を愛して同じところで一緒に命を張り隣で戦ってくれる人など。
     君はどうして、自分の秘密を打ち明けながら僕の秘密を引きずり出す?
    「ひとりにしたくないんだ、一緒にいたいんだ……おまえのこと好きなんだもん。隣にいられるようにってずっと考えてたら隣にいたくなっちゃったんだ。なのに足引っ張るし助けてもらってるしめんどくさいだろ俺、ごめんほんとごめん……」
    「でも、僕が好きなのか?」
    「好きなんだよごめんなぁ〜!」
     聞こえていないかもしれないけど、とまるで願掛けのように確認の言葉を投げかけると、それにベンジーはべそべそと泣きながら情けない声で返事をする。それを本当に信じていいのか、受け取っていいものかという思いを込めて問うたというのに。
     こんな薬漬けの、前後不覚で意識変容、発熱もしているこんな彼の、語彙力乏しく時折怪しい言葉たちが、こんなにも真っ直ぐ心に落ちてくるとは。これを素面で言われたりしたら、間違いなく一言だって聞かずに聞き流しただろう。だというのに、何故かそれが全て事実で真実だと、イーサンの心は理解する。
     その好意はあまりにまっすぐで正直で。そんなものを向けられるのは久しぶりだった。純粋な憧れ、純粋な願い、純粋な愛。それらをもってその上、隣に立ちたいと言ってくれた。遠巻きに上辺を見ているんじゃない、近付いて、触れられるところまで来て、対等に手を掴もうとしてくれている。
    「君はすごいな」
     僕の秘密まで、僕自身ですら忘れていた秘密まで、全て理解して明るみに出してしまった。暗いところで淀みに変わりかけていたイーサンの秘密たちは日に当てられさらさらと解れて、貼り付き動きを止めていた歯車たちを解放する。
     そうして、凝り固まって誰も寄せ付けないように頑なに閉ざしていた扉が、小さな音を立てて僅かに開いたのをイーサンは感じた。
     人の心なんか、もういらない、無くてもいい、困らないと閉めていた扉が。
     泣きながらたくさん喋ったせいか、ベンジーの呼吸が苦しそうな音をはらみだしている。咽頭が腫れてしまったのだろう。呼吸を落ち着かせるためにも眠らせたほうがいい。そう頭で判断しながらも、もっと聞きたかったけどと考える自分に驚く。
     たったこれだけの時間で、今までじっくりと作り上げてきた〝一人でいられる自分〟はどうやら崩されてしまったらしい。
    「ありがとうベンジー」
     なんてことだろうと思いながら、しかし久方ぶりに思い出した感情の鮮やかさに、これもまた久方ぶりな温かさを抱え、ぐずぐず言っているベンジーの頬にキスをしてその首筋に指を当てる。それはとても自然で、感謝と親愛の詰まったキスだった。
    「あ、笑った……」
     キスを受けイーサンの顔を見たベンジーは、掠れた声でぽそりと言う。
    「笑ってるの、いいよ、イーサン」
     そうしてベンジーもふにゃりと笑った。情けないくらい柔らかくて、温かい感情だけで組み上げたような、見ていて心地のいい笑顔だ。君に人たらしの才能があったとは、そう思っていると、ベンジーは蕩けた声でえへへと笑いながら目を細めた。
    「つられちゃう、その顔」
     じゃあ、今自分はこんな柔らかい顔をしていた? 驚きに目を丸くしたイーサンとは対照に、ベンジーは細めた目をそのまま閉じて意識を失った。
     重たくなった体がずっしりとイーサンに寄りかかる。
     意識のないベンジーの髪をそっと撫でたのは、全くの無意識だった。

    *****

    「俺……俺、何かした? いやしたよな絶対した……何した?」
    「報告書には〝顔から出るもの全部出てた〟って書いてある」
     本部の医務室で目覚めたベンジーは、すっかり薬も抜け点滴で水分も栄養も補給しぐっすり眠ったにもかかわらず、元気いっぱいに青い顔をしていた。
    「それにしてもこれだけいろいろ打たれてよく無事だったな」
     ブラントは検査報告書に記載されている薬品のリストを見ながら、呆れとも関心ともつかない顔をしている。自白剤・幻覚剤・催淫剤? 悪いやつが悪い時に使うもののオンパレードだ。
    「最初に臨床試験だーとか言ってたのは覚えてるけど、もうなんか途中から楽しんでる感じだったわ……」
     ひょんなことから捕まえたモルモットだ、何をどうしてもいいのだから打てるものを片っ端から打ったのだろう。拷問に使うようなものばかりなので致死性は低かったのだろうが、保護時のデータを見るにあれ以上何かされていれば危なかったし、そのまま行けば遅かれ早かれ毒薬の試験体にされていただろう。近くにいたのがイーサンだったのも含め、幸運としか言いようがない。
    「今回みたいなのは非常に稀なケースとは言え、薬物耐性は上げるべきだな」
    「えー、って言いたいけど言えないよな、ありえねーことあっちゃったもんな……。イーサンにも迷惑かけたなー……イーサンに! ああー‼︎」
    「ジャケットが君の顔から出たもの全部でぐっちょりだったぞ」
    「いやああああごめんなさいいいい」
     いない者にベッドの上で土下座するベンジーを見ながら、ブラントはぐっちょりジャケットのエージェントの顔を思い出す。
    「あー……うん、それはいいんじゃないかな別に」
     意識のないベンジーとともに戻ってきた、ぐっちょりが半分乾いてかぴかぴになったジャケットを着たそのエージェントは、思っていたのとは違う顔をしていた。敵の本拠地最深部に侵入して、薬を打たれて意識不明の仲間を救出し、だというのになんだかやけに穏やかで晴れているような。
     少なくとも、失態を犯したエージェントに涙と鼻水と涎を付けられ、戦闘を繰り広げ連れて帰ってきた人間がする顔ではない。なんとなく見覚えがあると思ったが、その時すぐにそれに思い当たることはなかった。
    「……何があった?」
    「なにも」
     そう答える顔もなんだか柔らかくて、どう考えてもなにもなかった表情ではない。イーサン本人も気付いていないのだろうか。だとしたらと思うと〝んなわけあるか〟とも言えず。ここ数年見たことのないような、微かに角の取れたエージェントは、自覚のない顔の理由を告げることなく、短い休暇を挟んでまたアメリカを飛び出していった。
     ベンジーへの伝言を残して。
    「療養明けたら薬物耐性訓練だ。スケジュールは組んでるから逃げるなよ」
    「あー……やらなきゃとしんどいの板挟み……素直に頑張るって言えねー……」
    「ちなみに薬物耐性向上についてはイーサンから一言あった。今後一緒の任務に当たる際の不安要素は出来るだけ潰しておきたいってよ」
     それは単なる、仕事仲間からの至極真っ当な言葉でしかない。伝えたブラントだって事務的なものとしてしか考えずに口に出した。だというのに。
    「頑張るわ」
     急にベンジーは目を輝かせる。今のどこにそんな顔になる要素があった? 全く思い当たらなくて不気味にすら感じてブラントは引きながら首を傾げる。キラキラの目で、希望しかないような顔色で、謎のやる気に急に満ち溢れて、まるでドラマの中の全力で恋するティーンのように、……。
     そこで、ぐっちょりジャケットのイーサンの顔に見た既視感の正体にブラントは思い当たってしまった。それは既視感ではなく、経験だった。
     クロアチアで。ホテルに入ろうとする夫婦の、夫が妻に向けていた表情。
    「あー……」
     そんなことになる要素があったとは思えないが、そう報告書をなぞりながら、ブラントは再び首を傾げてベンジーを見る。
    「なに?」
     この裏表ゼロの男が? あの裏ばかり抱えきれないくらい背中に隠す男を? 考えれば考えるほど疑問が尽きない。尽きないながら……途中がどうだったにしろ、そこに辿り着くなら喜ばしいことであるとブラントは思った。
    「頑張れよ」
    「……? うん、ありがと?」
     いろいろと。心の中で付け足すが、目の前のベンジーには伝わらない。まあ言わなくても頑張ってくれるだろうとブラントは報告書のファイルをぱたりと閉じた。
     そこから数千キロ離れた土地で、これから数年後には驚くほど丸くなるが今はまだ少し角のある男が往来でくしゃみをしたことは、誰も知らない。
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