It's Show Time ~You're my Valentine~ 仁王のせいで、もとい、仁王のおかげで、コーチの指示したミッションを達成できるチョコレートが袋いっぱい、柳生の腕の中にたんまりと残された。ふわりと甘い香りが漂って鼻腔の奥を通り抜けていく。
ひとの姿で何かをやらかしたらしい仁王を、柳生もすぐさま追いかけて行ったものの、仁王は見つからなかった。もしかしたらどこかで誰かにイリュージョンしているのか、それともパーティーの人混みに紛れ込んだのか、その両方か。
「まったく……」
悪戯好きにもほどがある。
それでもこれくらいの悪戯だからまだかわいいものだ。加えて、柳生自身は乗り気ではなかったチョコレートを集めるミッションをこんな形でクリアできたのだから、その点は評価してひとまずよしとしようか。
とはいえ、その中身が仁王であれ、〝柳生比呂士〟がチョコレート目的で会場の人々に対して接したのであれば、やはり紳士の矜持に反する。あとで何をしでかしたのか締め上げなくては。
やれやれと息を吐きながら柳生はパーティー会場である大広間から出て、廊下に足を向けた。
人通りの少ない廊下の曲がり角を曲がった奥のつきあたり、ひっそりと置いてあるソファに腰掛ける。
人との交流は嫌いではないが、そうは言っても必要以上に人が多くて騒がしい場所はあまり好きではない。身体に休息を与えることで、少々気疲れをしている自分を自覚した。
コーチ陣の、それは本当にテニスの技術向上になるのか疑問符しか浮かばないイベントごとは今に始まったことではないが、思いのほか騒がしいバレンタインデーの一日になってしまった。
できればもっとしっとりとした風情を描いていたものだが、それを言っても仕方がない。ここではコーチ陣の言うことは絶対だ。
「ふう……」
とさっ、とソファに置いたのは仁王が柳生の姿で集めてきたチョコレート。袋の中に、いったいいくつあるのだろうか。
会場には気品のある御婦人方から小さなレディまで老若男女たくさんの人がいた。同様に、覗き込んだ袋の中のチョコレートも大きなものから小さなもの、包みもシンプルなものだったり豪華なものだったり、様々だ。
会場ではそこかしこで英語が飛び交っていたが、英語が得意で社交性もある柳生は、単に交流だけであれば人々の輪の中に入っていくことは全く苦ではない。むしろ普段だったら迷いなく進んで自分からそこに入っていっただろう。一歩踏み出せなかったのは、交流の結果にチョコレートをいただくというミッションに抵抗感を抱いたからだ。今日はそもそもそういうパーティー、挨拶代わりと割り切ればいいのだろうが、心情はそう簡単にスイッチの切り替えが出来るものでもなかった。
そんな柳生と違って、仁王の英語力はオーラルコミュニケーションができる程ではないはずだ。それなのに、よくこれほどのチョコレートを短時間で集めたものだと柳生は感心した。仁王のことだから、言語以外の何かでレディの心を掴んだのかもしれないが。
―――私の姿で、ね。
仁王は柳生以上に華やかな場所が好きではない。それでも楽しいことは好きだから、面白いことには首を突っ込みたがる。
結局仁王がああして人のことをひっかき回すのは、自分ではない誰かに成りすましてだ。
―――仁王くんのままだったら出来ないでしょうに。
仁王本人のままで、自ら初対面の女性に声を掛けられるようなタイプではない。
それでも彼は自分というものをよくわかっているから、あの人を寄せ付けないようなオーラを少し和らげれば、その独特の艶に誘われて周囲の女性たちからいくらでも声を掛けてくるだろうけども。
「……そういえば……」
柳生と真田の分のチョコレートを勝手に集めて、提供もした仁王。
では、自分のミッション分のチョコレートはどうしたのだろうか、との疑問が柳生の頭をよぎる。
「柳生」
「おや、幸村くん」
再度仁王を探しに行こうか、とソファから立ち上がったタイミングで、こちらへ向かってやってきたのは幸村だった。
「仁王は捕まえられたかい?」
「いえ、逃げられてしまいました。まったくこういうときは逃げ足が速い」
「ふふ、柳生でも仁王には敵わなかったんだ」
「多くの人がいる中であまり騒がしく追いかけっこをしていても迷惑でしょう。ここで仁王くんがいくら逃げ回っていたとしても、いつかパーティーは終わりますしね」
「賢明な判断だね」
「それに、仁王くんの居場所はだいたい見当はついています。あとで迎えに行きますよ」
「へえ……わかってるんだ」
「なんとなく、ですけどね。まったく、あんなに好き勝手なことをしておいて、構わないでほおって置いたらそれはそれで拗ねるのですから、困ったものです」
「拗ねるのかい? 仁王が?」
「表面には出しませんけどね」
見張っていないと何をしでかすかわからないし、今回のようにしでかしたあとは怒られるのがわかっていながら種明かしをする。トリックスターは常に観客を欲している。
それだけならまだしも、ひとをその舞台に引っ張り上げたがるのだから、巻き込まれる方はたまったものではない。
とはいえ構わなければ静かに機嫌を悪くするのだ、あの我儘な人は。
「まあ、仁王のことは柳生に任せるからいいや。俺は柳生に用があって来たんだよ。はい、これあげる」
そう言って幸村が柳生に差し出したのは、細いリボンのかかった小さな箱だった。
「ありがとうございます。これは、なんでしょうか」
「チョコレート」
「チョコレート……ですか。私に?」
男性から男性へのチョコレート。つい意図を探るような声色になってしまったことを、幸村もすぐに察したらしい。
「ははっ、別にそういう意味ではなくてね」
口元に手をやって、花が綻ぶようにころころと笑った。
「今回のパーティーは参加者同士の友好の証としてチョコレートを贈るんだから、俺が贈っても間違いではないだろう? 柳生にはいつも苦労をかけているし、助けてもらって感謝しているんだ。そういう日頃の感謝のしるしだから、もらってくれないか」
「ああ、なるほど、そういうことでしたか。実に幸村くんらしいお気持ちです。ありがたくいただきます」
幸村が差し出した箱を恭しくいただいて、柳生はそれを手の中に大事に収めた。
「しかし、このパーティーの開催も急だったもので、私は幸村くんに差し上げられるようなものを用意していなくて……、すみません」
「もともと俺が普段世話になっているお返しで用意したんだから、柳生はそんなことは気にしないでいいんだよ。じゃあ、俺は一足先に会場に戻るよ」
ひらひらと手を振って廊下の重厚な絨毯の上で踵を返そうとする幸村を、柳生は「幸村くん」と呼び止めた。
「ひとつ、お聞きしたいのですが―――」
柳生に背を向けさせかけた幸村に柳生が声を掛けると、肩越しに幸村が視線を再び柳生に戻す。
「なんだい?」
「〝幸村くん〟からいただいたこのチョコレートの、出どころはどちらなんでしょうか」
「出どころ?」
「先ほど言われたような理由で幸村くんからの友好の証として預かってきたもの……というわけではありませんよね。純粋に、あなたから私への贈り物ととらえてよろしいのでしょうか―――仁王くん?」
「………」
「沈黙は肯定と推定します」
反証があるならどうぞ、という意を含ませて、にこりと柳生が微笑むと〝幸村〟はくちびるの端を片方、ニヤリと持ち上げて歪ませた。
「……ふん、もうバレるとはつまらんのう」
その言葉と共に幸村の装いをシュッと脱ぎ捨てて、纏っていたイリュージョンの衣の下から現れたのは、仁王だった。
「私の目の届かないところならまだしも、こんな目前で私をイリュージョンで詐欺にかけようなんて、ずいぶんではないですか」
「そんだけ俺も自信があったんじゃけどなぁ」
やっぱ柳生にはダメか、とポリポリと頭を掻いている仁王はどこまで本気なのか、底の知れない笑みで柳生へ向けて手を差し出してきた。
「まあええ、見破ったやぎゅーさんにご褒美じゃ。その箱、いったんこっちへ寄こしんしゃい」
「このチョコレートですか?」
幸村になった仁王から渡された手のひらサイズの箱。
言われたとおりに仁王に一度返却すると、仁王は手の中のそれにポケットから取り出したハンカチをひらひらと被せた。
「ちちんぷりぷり~」
ふぁさ、とハンカチを持ち上げて現れた仁王の手のひらにあったのは、先ほどよりもふた回りほど大きくなった箱。
「プリッ。グレードアップしてやったぜよ。喜びんしゃい」
「これが本来のサイズですか」
「おん」
「私がイリュージョンを見抜けなかったら、先ほどのサイズのまま?」
「そうじゃな」
「それはそれは、きちんと仁王くんを見つけられて良かったです」
ありがとうございます、と再度丁寧に礼を言った柳生は仁王からの贈り物の代わりにひとつ、別の箱を差し出した。
「では、私も仁王くんにこちらを」
柳生が取り出したのは、初めに仁王が柳生に渡したものと同じくらいのサイズの、小さな箱。
「Happy Valentine's Day」
今日の会場のあちこちで飛び交っているワンフレーズを、柳生は流暢な英語で声に載せて箱に添えた。
「急だから用意できなかったんじゃないんか」
「それは〝幸村くん〟向けの話ですよ。パーティーのあるなし関係なく、本命用は初めから用意しています」
「そりゃ用意がいいことで」
「あなたと同じです」
「ケロケロ」
頂き物だからと丁寧に両手を差し出した仁王の手のひらに、ちょこんと乗ってしまうサイズ。
上品な焦茶色のしっかりした出来で、品の良い鮮やかなブルーのリボンのかかっている箱は、片手の手のひらに収まってしまうほどだった。
「『本命チョコの割に、ずいぶん小さな箱じゃな』」
柳生が〝仁王〟の声で言った。もちろんわざとで、柳生だからこそできる芸当だった。
「勝手に人のセリフ言うんじゃないぜよ。ンなことは思っとらんわ」
「箱が小さい理由を教えて差し上げましょう。実はその箱の中身はチョコレートではないんです」
「チョコじゃない? んじゃ、何が入っとるん?」
「指輪です。私からあなたへの愛の証に」
「なんじゃと?」
訝しむように眉をゆがめる仁王の表情を見て、柳生はふっと口元を綻ばせた。
「冗談です。いくらなんでも、指輪をそのような紙の箱には入れませんよ」
「……はっ、面白くない冗談ぜよ」
しゅる、と箱に掛かっているリボンを器用な指で仁王がほどいていく。
上下に組んである箱を静かに開くと、そこに綺麗に整列して収まっていたのは、箱と同じ焦茶色をした光沢のある四角い粒の数々。
「こちらはボンボンショコラという、小さな一口サイズのチョコレートです。まるで宝石のような、と表現されることもありますよ」
「確かに綺麗なチョコレートじゃの。食ってええ?」
「どうぞ」
仁王の指先がつかんだ艶めいた褐色の一粒。
大きさだけ見てしまえば、いつも仁王がポケットに忍ばせている個別包装のチョコレートとさほど変わらない。同じようにぽいっと口に投げ入れるかと思ったが、そんな柳生の予想に反して、仁王はくちびるに丁寧にそれを寄せていった。
同じくちびるが、「ん、こりゃ美味いのう」と満足そうに呟きを零す。
「ほろ苦じゃのう。甘さも丁度いい」
「気に入っていただけたのなら何よりです」
「おん。……っと、柳生、ちょいと黙りんしゃい」
しっ、と人差し指を立てて話を遮った仁王は、自らをさっと幸村の姿に変えた。
その次の瞬間、廊下の角から姿を現したのは、未だ鬼のような形相をした真田だった。
「幸村、柳生、こんなところにいたのか。仁王はこっちに来なかったか」
「ここには来てないよ。ねえ、柳生?」
「―――ええ、見かけていたらとっくに私が仁王くんの首根っこを押さえています。私も被害者ですからね」
「む、それもそうだな」
「真田、怒るのはわかるけれど、他の招待客もたくさんいるんだし、あまり騒がしくしていると周りに迷惑だよ」
「わかっている。だからこそとっとと仁王を捕まえたかったが、相変わらず逃げ足だけは速い奴め。幸村、俺はひとまず会場に戻る」
「俺はもう少しだけここで休んでから戻るよ」
「わかった」
頷いた真田はやってきた廊下を戻っていった。
「―――……よくわかりましたね、真田くんがやってくるのが」
真田の後ろ姿が完全に見えなくなってから、柳生は口を開いた。
「なんとなく、ね。でもまさか柳生が味方してくれるとは思わなかったな」
満足そうに〝幸村〟が笑って返す。
「よく言いますよ、そこまで計算して幸村くんになって私に話を振ったのでしょう?」
「ふふ……じゃあ、俺の思惑通りちゃんと俺のこと庇ってくれた柳生に、ご褒美をあげようかな」
柳生に向かってするりと伸ばされた〝幸村〟の腕。その先にあるものを察して、柳生はぱしりとその腕を掴んだ。
「仁王くん、あなただとわかっていても、私は幸村くんとキスをするつもりはありませんよ」
「残念」
シュッとイリュージョンを解いて、ぺろっと赤い舌先を出す仁王に、柳生は呆れ顔を見せた。
「何が残念ですか。まったく……」
「たまにはこういう余興も面白いと思ったんじゃがのう」
「それこそ面白くない冗談です」
「そんなら、こういうのはどうじゃ?」
手にしていたチョコレートの箱から、仁王は次の一粒を取り出す。四角の端をくちびるで食んで、ん、と口を突き出した。
その姿を視界に映して、ハーフミラーコートの硝子の裏側で、柳生は微かに目を細める。
今日、会場内を包み込んでいるチョコレートの甘い甘い香り。それよりも仁王に甘い自分を、自覚はしている。
結局その舞台上に引き上げられて仁王のシナリオ通り共謀して詐欺を演じてしまった。それも内心癪といえば癪だったので、ふぅ、とあえてため息を吐くことで表現したが、結局は仁王の差し出すご褒美の甘い誘惑に抗えるはずもないのだから、単なるポーズでしかない。
「落とさないでくださいよ?」
ぐい、と腰を引き寄せると、仁王の胸元に飾られたコサージュの細いリボンが左右にひらひらと舞うように揺れた。
「―――……んっ……」
軽く開けたくちびるを寄せて、同じように逆の端からチョコレートを食みながら、仁王のくちびるまで食べてしまうように重ね合わせる。
舌先で小さなチョコレートを仁王の口腔内に押し込んで、反発するように押し返してきた仁王の舌先と押し付け合う。
長く甘い時間を楽しめるキャンディーやキャラメルと違って、舌の上ですぐに蕩けてしまうチョコレート。互いの舌の上で押し付け合ったり、取り合ったりして弄んでいるうちに、薄い膜のようなビターチョコレートの衣が剥がれて、中のガナッシュが甘さを口腔内に広げていく。後を追う微かなキルシュの香りが鼻腔を通り抜けていった。
一度軽くくちびるを離して、こくりと甘さを飲み込んだのを一瞬確かめてから、再び深く口づけ合う。数秒前までそこに存在していたチョコレートを舐めるようにざらりと絡ませた舌には、まだカカオの残滓が残っていた。
「……っ、ふ…ぅ……」
伸ばしてくる敏感な舌先を吸って、窄めた形でつつき合って、やわらかく絡ませ合う。
ぴちゃ、と微かな水音が、会場である大広間から洩れてくる喧騒のBGMの波に乗っては、紛れて流れて消えていった。
「……っ、はぁ……」
「―――面白かったですか?」
「俺じゃのうて、こーゆーの好きなのはお前さんじゃろ?」
「それはどうも、ごちそうさまでした」
「ハッピーバレンタイン、ってところじゃの」
「……仁王くん」
「ん?」
「You're my Valentine」
「……あなたは私のバレンタイン? なんじゃそれ」
「意味を知りたいですか?」
「いや、いい。なんかイヤな予感がするけえ」
しっしっと手で振り払うようにして、「そろそろ戻るか」と仁王が廊下を振り返る。
「会場に戻ったら真田くんに会ってしまいますよ?」
いいのですか? と問えば仁王はニッと笑った。
「真田にウソついたおまんも同罪ぜよ。一緒に怒られろ。そうすりゃ真田の怒りの矛先も半々じゃ」
「実行犯と犯人を匿っただけの私が同罪になるわけないでしょう。そこまであなたの面倒は見きれません。だいたい、私は〝幸村くん〟に同調しただけですからね」
「ふん、パートナーなのに冷たいヤツぜよ」
「なんとでもおっしゃい。ところで仁王くん、自分のミッションの分のチョコレートはちゃんと集められたのですか?」
「おん、大漁大漁、バッチリぜよ」
「……そうですか」
それはどのような方法で? と尋ねようとして、なんと狭量なことを、と一瞬躊躇う。そんな柳生に気づいていないのか、仁王は両腕を頭の後ろで組んで話を続けた。
「今日は上流階級の御婦人も多いからのう、こういうとき礼儀正しい紳士はにっこり微笑むだけで大人気じゃ」
「―――……え?」
「そんでそんな紳士がちょっとした手品を見せれば、ちびっこも大喜びよ」
「……それでは、私にくれたこのチョコレートは……」
「分け前は半分こじゃ。おまんの姿で俺が集めたものじゃき、妥当だと思うが」
つまり〝柳生比呂士〟がチョコレート目的で会場の人々に惜しみない笑顔を振りまいて接したのは、柳生が仁王から渡されたチョコレートの倍の人数、ということだ。これほど紳士の矜持を気にしていたにもかかわらず。
「―――仁王くん」
「なんじゃ、におーくんの優しさに感激したか?」
「分け前折半だけでは割に合いません。あとで、覚えておいてくださいよ」
「プリッ」
それこそ仁王のおかげだが、ミッションは早々にクリアしたのだ。ならばまだ続いているパーティーの喧騒に紛れて、人目のない空き部屋に連れ込んでやろうか。しばらく二人で姿を消したところで、これだけ雑多に人がいるのだから誰も気にしないだろう。先ほどのキスの熱はまだ身体の芯で燻っていて、完全には鎮火していない。
悪戯したお仕置きはきちんとしないといけませんしね、まあ、もしかしたら仁王くんにとってはご褒美かもしれませんけど。
柳生はこれからの計画をフルスロットルで練り始めた。