甘えたな君とピザトースト鳥の囀りが聞こえる。瞼越しに見る世界も柔らかに明るい。
眠っていた意識がゆっくりと覚醒していくのに合わせて、世界の輪郭が彩られていく。
遠くから人の声や物音も聞こえる。朝餉の準備に励むもの、鍛錬に赴くもの、畑へ向かうもの。そんな刀剣男士たちが奏でる生活音だ。今日も忙しない一日が始まろうとしていると、まだ寝ぼけ気味の頭で思う。
まだアラームは鳴っていないから起床時間ではないはず。このままもう少し微睡んでしまおうかと布団を引っ張り身体を埋め直した。身体を優しく包み込む暖かさが心地良くて、その温もりの中に身を寄せる。
(…うん?)
心地良い温もりに身を寄せて、ふと違和感に気づく。布団のそれとは違う温もり。明らかに体温を持ったものがそこにいる。その暖かさを私はとても良く知っている。
まさか…と思い、ゆっくりと瞼を開く。目の前に見えたのは黒いシャツ。そのまま視線を上へ向ければ、端正な顔立ちの男がすやすやと穏やかな寝息を立てていた。
「…豊前?」
確か昨夜は遠征先からの帰りが遅くなりそうだと連絡をもらい、先に寝た方がいいと寝ずの番であった燭台切に言われて眠りについたはずだった。しかし豊前江がここにいるということは、私が眠ったあとに帰ってきたということになる。そこまではいい。なぜ彼は私のベッドで眠っているのだろう。
そのまま見上げていると、こちらの呼ぶ声で目を覚ましたのか、豊前江の瞼がピクリと動く。そしてゆっくりと開いて、赤い澄んだ瞳がこちらへ向けられる。
「…ん、主?…んでここに?」
「ここ私のベッドなんだけど」
「んぅ?…うーん」
まだ寝ぼけているのか、瞳はこちらを捉えているがぼんやりとしている。このまま起きるのかと思い見ていたら、身体を包んでいた腕に力が入り、そのまま豊前江の腕の中へ抱き寄せられた。
「まぁ、いっか…あったけぇし」
「わっ」
「もうちっと寝る…」
「ちょっ、豊前起きてっ」
私の身体を抱きこんで、そのまままた眠りにつこうとする豊前江を叩いて起こそうとする。その反発に最初はちょっと嫌そうな顔をしていたけど、二度寝を諦めたかのようにしぶしぶと再び瞼を開いた。
「なんだよ…」
「なんで豊前がここにいるの?」
「あぁ…昨夜帰ってきて夜食食って…ふぁ…そのあとここにきたんだよ」
ふわふわとした豊前江の話を整理すると、遠征を終えて身支度を解いたのち部屋へきたということらしい。黒シャツとスラックス姿であることから湯上がりのあと、部屋に戻らずにきたということまでは理解できた。現時点でここにいるのだからそうだろうとは思っていた。問題はその先である。
「そしたら主寝てったから、しばらくそのまま見てて…寝た」
「ここで?」
「ここで」
「なんで」
「主が気持ちよさそうに寝てっから…一緒に寝たら気持ちよさそうだなって思って」
そう語る豊前江の目がまだ眠たそうにとろんとしてる。豊前江は朝に強い方だと思っていたけど、これはよほど帰りが遅かったと見える。
「そっか…お疲れさま」
「……んっ」
そう労うようにふわりと揺れる黒髪を優しく撫でてると、ふにゃっと笑って豊前江も心地よさそうに目を細めた。いっそこのまま豊前江だけで寝かせた方がいいのか、それなら自分の部屋へ行くよう伝えた方がいいような、そんなことをぼんやり考える。
「主」
「なにっ……うわっ」
私の思考が逸れていることに気づいたのか、不意に呼ばれて目線を合わせると、くるっと身体が回転し背中がベッドに沈みこんだ。横炊きの体制から豊前江が覆いかぶさる体制に変わり、突然のことにきょとんとしてる私を置いて、当の豊前江はこちらの胸に甘える猫のように擦り寄って、そのまま顔を埋めた。
「んー、やわらけぇ」
「ちょっ、くすぐった」
ぺちぺちと叩くこちらにはお構いなしで、豊前江はふへぇ…と笑って甘えたまますでに寝る体制に入り始めている。
「寝るなら一人で寝てよ」
「やだぁ」
「もう」
手に入れた心地よい抱き枕を手放すものかと言わんばかりに、抱きしめている腕に力が入る。あーこれは暫く離してもらえないなーと朝日でぼんやり明るくなった天井を見上げていた。
普段の豊前江といえば、どちらかといえば「頼りがいがあり」「兄貴肌」「率先して周りを引っ張る」といったリーダータイプで、実際そんなところが私も好きになった部分でもある。ただ稀に二人きりのときは子供のように甘えてくるときがある。おそらくほかの男士の前では見せない部分でもあり、恋仲である私に心を許してるからこそ見せてくれる一面だとは思っている。いつでも誰にでも頼られる豊前江に甘えられるのは正直うれしいのでつい受け止めてしまうのだけど、稀にそれで済まなくなるから手を焼いている。
とはいえ気持ちよさそうにしてる豊前江をどうこうするのが忍びなくなって、仕方ないとため息をついてその黒髪を優しく撫でながら二度寝することにした。今日は休みだから、多少寝坊しても何も言われないだろう。
自分でも甘いと思うのだが、私はどうしようもなくこの”豊前江”という刀剣男士が好きだからこうして負けてしまうのだ。
「重くねぇの?」
「退く気ないくせに」
「まぁな」
「もう」
ゴロゴロしていたら一度は去っていた眠気が戻ってきて、私の思考もうとうとし始める。人肌の温度が心地よくて、このまま眠ってしまおうと瞼を閉じた。
しかしそれは首筋に訪れた柔らかく濡れた感触によって再び開くことになる。突然のことに身体がビクッと震える。
「んぁっ」
なに?と言おうとした声が言葉にならず、思わず変な声が口から漏れる。それは肌を吸われる感覚と同時にパジャマの中へ入りこんだ手のせいだった。
不意に脇腹を撫でられて、言葉にならない吐息が漏れる。
「かわいい」
そういってこちらを見下ろす豊前江の赤い目が、先ほどのとろんとした目から獲物を得てうれしそうにギラついている。
あぁ油断してた!大丈夫だと思っていたけど、今日は甘えさせるだけでは済まなくなる日だったらしい。
「ぶぜっ…んっ」
止めようと名前を呼ぶけれど、言い終わる前に唇を塞がれて、抵抗としようと肩を叩いた手はあっさり掴まり、指を絡められたままベッドに縫い付けられた。
それでも対抗しようと下着の上からやわやわと撫でる手をパジャマ越しに止めようと掴む。
「んっ…寝るんじゃ、なかったの!?」
「イチャイチャしてぇ気分なんよ」
「イチャイチャって…パジャマ脱がそうとしないの!」
「主の肌、気持ちいいんだよなぁ」
「ちょっ、脱がないで!」
こちらの抵抗なんて気にも留めず気づけばパジャマの上着をほぼ脱がされていて、慌てるこちらを他所にに、豊前江自身も一度身体を離すと上の黒いシャツをおもむろに脱ぎだした。
突然目の前に現れた鍛え上げられた凛々しい身体に思わず喉から悲鳴が零れて、逃げようと身体を引くが当然すぐに掴まって、逞しい腕の中へ逆戻りするはめになる。
「どこいくん?一緒に寝ようぜ」
「ちょっ…」
肌を擽るように触れながらいつの間にか胸元を隠す下着も取り去られて、上半身を隠すものがない状態のまま、互いの肌を擦り合わせるように抱きしめられる。
「肌が触れ合うのって気持ちいいよな…柔らかくてあったけぇ」
「ひゃっ!」
「ははっ、かわいいな」
「撫で方!」
「わざとっちゃ」
「もう!」
不意に背中を擽るように撫でられて、思わず零れた声に豊前江がうれしそうに笑うのが悔しくて、ぺちぺちと抵抗にならないとわかりつつその胸を叩いた。
それを豊前江は擽ったそうにやんわり受け止めて、私の手を掴むと自身の指を絡ませて、再びベッドと自分の間に私を閉じ込めた。見上げた先にはにんまりと笑う豊前江がいて、唇で音を立てながら頬や首筋に触れてくる。それが擽ったくて必死に身を捩るけれど、弱い部分を知られてる身体はじんわりと熱を持ち始めていく。
「んっ…くすぐった…」
「気持ちいいんだろ?」
「…ちがっ」
「素直じゃねぇな…まぁいいけど」
ちゅっと音を立てて肌に触れられる度、触れた部分からじわっと熱が灯るのに比例して段々と息が上がるのがわかる。休みだからって、朝からこんなことするのはいけないと脳裏ではわかっているのに、豊前江の熱に触れられる喜びを知っている身体が意識より先に反応してしまい、それ以上の抵抗がうまく示せすことができなくなっていた。柔らか唇や大きく筋張った手で肌を撫でられる感覚に身体が震えて、肌同士が触れ合う部分から互いの熱が溶け合っていく感覚が気持ち良くて、段々と意識が蕩けていくのを感じる。
「ふぁ…」
「蕩けてる主、かわいいっちゃ」
「やぁ…見ないで」
「恥じらうのもいいな。そそられる」
「ううっ…」
抵抗しても素直になっても豊前江の熱を煽ってしまうだけなのようで、捕らわれてしまった私にはその熱を受け止める以外の選択肢はなくなっていた。
遠くに聞こえいたはずの生活音が、二人分の吐息に掻き消されていく。このまま進んだら朝寝坊は免れなくて、からかわれる未来が待っている。
どう言い分けようかと考える思考も、重ねられた豊前江の唇に吸われてどこか消えていく。こうなったら全部豊前江のせいにしよう、そう決めて白旗を上げるように自ら豊前江の首に腕を絡めた。
こちらが受け入れたのを確認したように、触れ合う唇越しに彼が笑ったのがわかる。遠慮はしないと言わんばかりにパジャマのズボンに手が伸びた。
ぐうううううううううッ
突然、あまりにも間の抜けた音が部屋に響いた。突然のことにポカンとしていると、更に先へ進もうとしていた豊前江の手がぴたりと止まる。
もしや、今の音って
「…今の音、豊前の…」
そっと豊前江の方を見ると、こちらから顔を背けている。何も言わないでいるが、その耳が次第に赤くなっていくのが見えた。
「…お腹の音、だよね?」
聞き間違えじゃなければ、さっきのはおそらく空腹を知らせる音だ。それもあまりに元気のいい空腹の叫びだったから、熱に浮かれてた思考がすっかり正気に戻ってしまった。
鳴らした豊前江本人も恥ずかしいのか、こちらの問いには答えずずっと顔を背けている。あ、首まで赤くなってる。
「…ふ、ふふふっ…」
互いの熱で溶けあうような、甘い蜜のような空気が次第に朝の穏やかな空気へと戻っていく。
さぁこれからという場面でキメきれなかったことが恥ずかしいのか、豊前江が一切こちらを見ないこともおかしくて、笑いが込み上げてしまう。
「ふふっ、ふふふっ…」
「わ、笑うなー!!」
笑う声にようやく豊前江がこちらを見る。顔は真っ赤になっていて、恥ずかしいやら悔しいやら色々混じり合った複雑な表情をしていた。
「だって、あまりに元気よく、お腹がなるんだもん…ふふふっ」
「お、おれだって、好きで鳴らしたわけじゃ!」
そう顔を赤くしたまま唇を尖らせて拗ねたようにつぶやく豊前江からは、さっきまでの余裕がすっかり消えている。
「はー、かっこ悪ぃ」
これ以上先には進めないと判断したのか、そうため息交じりにいうと豊前江は私の隣に背を向けるように転がった。
そんな豊前江の拗ねる背中がかわいく思えて、今度はこちらから抱き着く。
「私はかっこ悪い豊前江も好きだよ」
「間抜けすぎんだろ…」
「まぁまぁ、そういうときもあるから」
「むぅ…」
直前までの出来事が出来事だっただけに、相当情けなさを感じているようでかなり落ち込んでいる様子。そういうかっこつけきれない豊前江が好きなのも本音なのだけど、豊前江自身はかっこいいと思われていたいようで男士心を複雑だなぁと拗ねた背中を見て思う。これは空気自体を切り替えないとダメそうだと判断し、外された下着を付け直し、パジャマの上着を引き寄せる。
「豊前、朝ご飯にしよ。お腹空いてるんでしょ」
ベッドから起き上がりながらパジャマのボタンを付け直し、丸まって拗ねる背中を優しく撫でた。
「簡単なものしか作れないけど用意するから、顔洗ってきてよ。ご飯にしよ?ね?」
そう背中越しに顔を覗き込むと、ようやく気持ちが落ち着いたのかゆっくりと頷いて、豊前江が起き上がる。
まだ表情は拗ねたままだけど、とりあえずTシャツを渡して着るよう促した。豊前江はそれを受け取るとゆっくりとした動きで着始める。
すっかり肩を落としてる豊前江がちょっとかわいそうに思えて、どうしたものかと思案する。
「豊前元気出して。どうしたら元気出る?」
「…ちゅーして」
「へっ…うん、わかった」
拗ねた結果すっかり元の甘えたいモードに戻ってしまったようで、仕方ないなと笑いながら豊前江の願いを聞くためにその頬をそっと手を添えた。
じっとこちらを見つめる赤い目が少し恥ずかしくもあったけど、ぐっと恥じらいを堪えて自ら唇を重ね合わせた。ゆっくりと唇を離しながら豊前江を見上げれば、ちょっと擽ったそうにほんのりと笑みを浮かべていた。込み上げてくる嬉しさがこらえきれないといった表情だ。普段はかっこいいのに、こういうときはちょっと幼さが残る表情がかわいいって思ってしまうから本当に豊前江は罪深いと思う。これも先に惚れた弱みと思っておこう。
「ごはん用意するから待っててね」
そう告げて、豊前江をベッドに残したまま、私は寝室をあとにした。
審神者用に用意された離れには寝室も兼ねた自室と隣に簡易的なキッチン、それをお風呂とトイレが設置されてた少し広めの1Kのような作りになっている。
普段は本丸にある食堂で食事を取っているが、軽食程度は自室でも賄えるようにしていた。それは夜食用であったり、遅めの朝食用であったり、用途は様々だ。
(今日はどうしようかな)
あいにく買い出しをしていないので大したものは冷蔵庫に入っていない。目に付いたのは使いかけのチーズとケチャップ、あと食パン。ピザトーストにでもしようとそれらを取り出して、適当なお皿を出して準備を始めた。
食パンにケチャップを塗って、チーズを載せて焼くだけ。簡単。腹ペコ男士の小腹くらいは満たせるだろうと二枚分用意して、トースターへ入れた。
焼けるのを待つ間に飲み物を準備する。コーヒー?ココア?お茶?うーんと考えていると、壁越しにあるバスルームから水の音が聞こえてくる。豊前江が顔を洗ってるらしい。
今日は甘党な豊前江に合わせてココアにしようと残り少ない牛乳を温める。緩く温まった牛乳にココアを入れて少し甘めに味付けして、いつの間にか増えた二つのカップに注いた。
あとはトーストが焼きあがるのを待つのみとトースターを覗き込んでいると、不意に背中が重くなった。肩越しに振り返れば豊前江がいる。
「腹減った」
「もうちょっとだから待ってて」
背中からギュッと抱きいて甘えてくる豊前江をそのままに、二人仲良くトーストの焼き上がりを待つ。ふつふつと焼けていくチーズの香ばしい香りが空腹を刺激してくる。
チンッという焼き上がりを知らせるとともに蓋を開けて、用意していたさらに一枚ずつ載せた。
「はい、どうぞ。焼きたてだからヤケドしないようにね」
そっとお皿を出し出すと、豊前江は背中から離れてそれを受け取った。トーストに軽く息を吹きかけてから、がぶりと噛り付く。
「あっふ」
「だから熱いってば。ちょっとずつ食べるの」
はふはふと口に入れたトーストを冷ますように息を吸い込んで、ゆっくりと咀嚼して飲み込んでいく。それを見ながら、私も自分のトーストを息を吹きかけ、小さく噛り付いた。
とろけたチーズの塩気とケチャップの酸味が噛むごとに合わって、そこに焼かれた食パンの香ばしさがじんわりと口の中に広がっている。
「すげぇうまい」
「おおげさな」
そんな洒落た朝ごはんでもないのに、豊前江が嬉しそうにピザトーストに噛り付いている。よほどお腹が空いていたと見えて、もう二口もしたら食べ終わりそうだ。
「おかわりいる?」
「いふ」
最後のひと口を口に含んだまま豊前江が頷く。はいはいと笑いながら、自分の朝食をそこそこにおかわりの準備を始めた。
その様子を眺めながら、豊前江は用意していたココアへ手を伸ばし飲み始める。
「はー、甘いなぁ」
「おいしい?」
「ん。これも甘いし、主もな」
「わたし?」
おかわりをトースターへ入れたところで豊前江の方へ振り返る。片手にマグカップを持って、壁に寄り掛かりながら飲んでるだけなのにやたら絵になるからずるい。朝のコーヒーのCMに出てきそうな構図だ。飲んでいるのはココアだけど
「私が甘いってどういうこと?」
「俺に甘すぎっちゃろ」
「そういう豊前だって甘えてくるでしょうが」
「受け止めてくれっから甘えてんだよ。ほかの奴にはすんなよ?」
「しないよ。豊前だってそうでしょう」
二回目の焼き上がりを告げる音に合わせて蓋を開けて、二個目のピザトーストを豊前江に渡す。それを豊前江が熱さを気にすることなく、最初から思い切り嚙り付く。
「甘いといわれてもなぁ」
ココアを手に取って、くるくる回しながらそっと喉に流し込む。温めた牛乳の柔らかさと砂糖を合わせたココアの甘さが、寝起きの身体に優しく染みていくのがわかる。
「豊前に甘えられてるのとこう…自分にしか見せない一面が見れられるのがうれしいというか」
「なんち?」
「それは…豊前江が好きだからだけど」
「ふぅん」
「うれしそう…言わせたかっただけでしょ!」
「まぁな」
「もう!」
おかわりもすっかり食べ終わり、思った通りの反応を返す私を満足げに笑いながら豊前江が再びココアに口をつけた。
「甘えてる俺が言うのもなんだが、甘すぎて時々心配になる」
「豊前江にだけだってば」
「そうか?結構強かなやつも多いぜ?」
「だから」
心を許した相手以外にそう簡単に触れることを許すような人間ではないと、改めて豊前江に伝えようと顔を上げた。するといつの間にか目の前に豊前江が立っていて真剣なまなざしでこちらを見つめていた。その近さに驚いて固まっていると、手に持っていたカップをやんわり取られ、それを流し台に置いた。私はというと、こちらを見つめる豊前江の赤い目から逃げられず、それ以上言葉を繋げられずにゆっくりと近づく彼をただ見つめている。
「主」
吐息のかかりそうな距離で呼ばれて、その声の甘さが少し擽ったくて、頬が少し熱くなるのを感じる。優しく指を絡めとりながらさらに距離は近づいて、私の見える世界は豊前江だけになっていく。
「あんたには俺だけを見ててほしいんだ」
そういって笑う豊前江に何か応えるより先に、唇の熱を重ねられて思わず目を閉じた。その熱はすぐに離れて、目を開くてまた豊前江の赤い目と目があって、唇を重ねられてはまた閉じる。感触を確かめるかのように触れ合うだけのキスを交わして、離れる度に見つめ合って、またキスをする。豊前江から触れられるだけだったものが自らも触れ合うように重ねては、豊前江からも返されるの繰り返し。そんな擽ったくて、甘い蕩けるような時間だけがゆっくりと過ぎていく。
やがてゆっくりと離れていく唇を見つめていたら、豊前江が少し困ったように笑って、また唇を重ね合わせてくれた。絡めた指を解いて、ぎゅっと抱きしめてくる。
「はー、さっきの続きしてぇ」
「しないよ」
「そこは流されてくれよぉ」
「残念でした」
「ちぇっ」
そう言って唇を尖らせる豊前江を宥めるように背中を撫でて、代わりにとばかりにぎゅっと抱きついた。
私にも豊前江に私だけを見つめていてほしいと思う気持ちがある。そういったら何も迷わずに私だけしか見てないと彼は答えるだろう。私も尋ねられる度に同じ言葉を繰り返し、そう幾度とそう言葉を交わし合いながら、互いの奥底にある貪欲なまでに相手を求める感情を飼いならしていく。多分それが、互いを尊重しあい、愛し合うということ…なんだと思うから。
「じゃあ、夜ならいいのか?」
「は?」
突然のあまりに色気のない誘いに思わず素っ頓狂な声が出る。問いかけている豊前江はいたって真剣な顔をしている。でももう少しこう…包み隠そうという気は彼にはないのだろうか。そういう真っ直ぐさも豊前江らしさではあるけれど。
「…えっと」
「なぁ?」
「…考えとく」
「んじゃいいんだな。よっしゃ!」
「いいとは言ってないでしょ!」
「ダメとも言われてねぇからな。トロトロにしてやっからな」
「あぁもう!!」
嬉しそうに頬を摺り寄せてくる豊前江をなんだかんだ拒否できない自分もいて、こんなだから再三甘いと言われるんだと改めて自覚する。もうちょっとそれっぽい雰囲気を作るとか色々思うけれど、回りくどいよりは真っ直ぐに求められる方がうれしいという本音もなくはない。いや、もう少し隠して欲しいという恥じらう乙女心の理解を…と色々考えたところで通じる相手ではないと気づいて、思わずため息をついた。でもそんな豊前江が好きなんだ。惚れてしまっている時点で白旗。諦めよう。
「じゃあ、これからはどうすんだ?」
「え?」
「どっか行きてぇとこあっか?連れてってやんよ」
特に約束をしているわけではけれど、まるで一緒にいるのが当たり前のように豊前江はこうやって言葉をくれる。遠征明けの休みならゆっくり過ごしてもいいと思うのに、私と過ごすことを優先してくれることが素直にうれしくてじわっと暖かい気持ちが込み上げてくる。豊前江のこういった迷いのなさに今まで幾度と救われて、その都度にまた好きになってしまう。本当に罪作りだ。
「じゃあ、お買い物行きたいな」
「でぇとか!いいな!じゃあ、着替えて表門で待ち合わせて…ついでに昼飯も食って…あ、そういや新しいすいーつの店ができたとか松がいってたな…」
豊前江の中では今日の予定が着々と組あがっていくようで、一人でうんうんと頷いている。今日も賑やかな一日になりそうだとその様子に笑みを浮かべた。もちろんそれは夜のことも含まれている。
「豊前江」
「ん?」
「今日も一日、よろしくね」
「おう!」
そう言って互いに笑い合って、朝も、昼も、夜も、お互いの好きをひとつひとつ重ねわせながら私たちなりの速度で愛し合っていく。
そんな一日が今から始まろうとしていた。