聖ロック座女学園「電車が遅れちゃうなんて〜」
私は普段よりも30分遅く「聖ロック座女学園」の校門を足早に通り過ぎた。1時間目の授業はとっくに始まっていて、教室へ向かうため慌てて中庭を通り過ぎると、視界の隅にふと違和感を覚えた。
桜並木の下のベンチに誰かが座っている。生徒は授業中だろうし、こんな時間に誰だろう? そう思い近づいてみる。遠目からも分かる細身の体躯、少し明るい色のサラサラの髪。その下にある瞳は柔らかく閉じられている。ただ座っているように見えたその人は、眠っているようだ。いや、そんなことよりも。
「うそ…武藤先輩……?」
そこにいたのは、学園のアイドル「武藤つぐみ先輩」だった。この学校で彼女の名前を知らない人はいない。廊下を歩く際もファンクラブの生徒が双璧をなして、武藤先輩はその影からちらっと見えるだけだが、その噂は教室の片隅まで轟いている。そういえば、後輩が1枚500円のブロマイド、買ってたな。
後輩の情報によると、武藤先輩は1年生の頃はツインテールの似合う美少女だったそうで、その頃の写真も見せて貰ったことはあるが、とても同一人物とは思えなかった。
3年生の今、何がどうして王子様とも呼ばれる中性的なルックスとなったのかは知る由もない。プロ級といわれるダンスで動きやすくするため髪を切り、体を鍛えたのだろうか?
武藤先輩はダンスをはじめスポーツ万能、芸術にも秀でた才能があると聞く。噂ではピアノも弾けて、動物にも好かれるらしい。神様に選ばれたような人がいるんだなぁと、私のような平々凡々な人間からすれば、雲の上のような存在だと思っていた。
そんなことをアレコレ思い出していると、すー、という小さな寝息が聞こえて、武藤先輩が触れる距離にいる、という事実に改めて思い至った。座り込んだ武藤先輩は軽く手を組んで、すこし脱力したように深呼吸をしていた。
(わ、睫毛長い……)
間近で見る先輩の瞳は長い睫毛に彩られていて、スッと通った鼻筋への道標のようだった。眉毛はキリッと凛々しいけれど、口元は火照ったように赤く、どこか幼い印象もあった。かわいい人だな、とふと思う。
思わず見惚れていると、少し強い風があたりに吹き、桜吹雪が視界に降ってきた。花より団子、花より武藤先輩。そんな気持ちでいたけれど、この光景の美しさは、二つが合わさって初めて生まれたものだ。
「綺麗……」
思わず呟いたが、武藤先輩を起こしてしまわないか心配になって目線を下に落とす。軽く組まれた手の中に桜の花びらがいくつも重なり、その花弁は少し動いているように見えた。
(ん……?)
よくよく目を凝らしてみると、なんと花弁の隙間から毛虫が姿をのぞかせている。
「はぁっ!」
私は思わず声を上げて、後退りしてしまう。武藤先輩はピクッと動くと「ん〜〜?」と小さくむにゃむにゃと首を振り、瞼が開きかけた。
「……ん?君は…」
「あっ!あの!あの……」
私はどうして良いか分からず、先ほどまでの慎重さをかなぐり捨てて、武藤先輩の手のひらを指差す。
「えっ」
「む、む…」
「む?」
「む!む…!!」
「えっ、うん? 武藤つぐみだけど」
武藤さんは寝ぼけたままなのか、キョトンとした表情でこちらを見つめる。睫毛に縁取られた瞳はとても澄んでいて、宝石のようだと思った。けれど。
「虫がいます!」
「……う、うわぁァッ」
武藤先輩は大慌てで手を振り払うと、肩で息をしながら立ち上がった。先ほどまで眠っていたせいか、その足元が一瞬ふらつく。最悪の目覚めにしてしまった罪悪感で、私はどうして良いか分からず立ち尽くしていた。
「あ、あのー…」
「はいっ⁉︎」
「教えてくれて、ありがとね? ところで君、名前はーー」
武藤先輩は想像よりも優しく、フランクに話してかけてくれた。先ほどまで無遠慮に見惚れていた瞳が、真っ直ぐこちらを見つめてくる。聞かれた質問に答えなければ、と思うのに、声が喉に張り付いて、うまく出てこない。
「あっ…えっと……」
言葉に詰まっている内に、キーン、コーン、カーン、コーン……とチャイムが響いた。結局1時間目は出席できなかったが、武藤先輩と二人っきりで喋れるなんて、夢のような時間だった。
「あっ!ヤバいっ、みおりに教科書返さないと!」
武藤先輩はチャイムの音で何かを思い出したのか、質問の答えを遮るように背中を向けてしまう。少し寂しい気もしたが、元々接点なんて何も無かったのだから、仕方ない。そう自分に言い聞かせていると、武藤先輩はくるりと振り返って「うん、顔は覚えたよ」と言った。
「えっ?」
「また会おうね。君も早く教室に戻りなよ」
「は、はい……」
「じゃあ、またね」
武藤先輩はそう言い残すと、颯爽と中庭を駆けていった。私は桜の舞う中、その背中が見えなくなるまで、いつまでもいつまでも、見つめていた。