傘が必要なくらいの小雨がぽつぽつと降る夜叉ノ國。空はすっかり雨模様で、一面鼠色の雲に覆われている。
彼方はそんな雨の中、雨に降られてぱらぱらと音を立てるビニール傘を持って、里の中を歩いていた。
「(なんか、人間界にいるみたいで落ち着くな)」
元々、幻妖界にはビニールが存在しないのだが、「わらわたちより快適な環境に慣れた彼方殿に、蓑は着心地が悪かろう」という滝夜叉姫の気遣いによって、人間界から取り寄せてもらったのだ。
「(こうして出かけたは良いけど……、やっぱり人少ないなぁ)」
雨が降って人がいないため、いつもに比べて静かに感じる。聞こえるのは、雨粒が傘に当たって跳ねる音だけだ。
「(このまま歩いてたって、人はいないだろうし……、買い物だけ済ませてさっさと帰ろうかな)」
そして彼方は少し足早に、目的の店へと歩を進めた。
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「(……ん? あれって……)」
目当ての商品を買い終え、滝夜叉姫の屋敷へ帰ろうとしていた彼方は、見覚えのある人影を見つけた。雨に濡れてつらつらと光る銀髪と、物憂げな顔をして空を見上げるその横顔にはどこか儚さがあり、思わず立ち尽くして見つめてしまっていた。
「……あ?」
青年――もとい牛鬼も彼方の存在に気づいたようで、赤褐色の瞳をこちらに向ける。
「ど、ども……」
「……テメェか人間、今日は取り巻きのガキ共はいねェんだな」
「ちょっと買い物に来ただけだから。……ていうか……」
彼方は改めて牛鬼の方を見据えて、口を開いた。
「そんなに雨に濡れてたら、風邪引いちゃうよ」
「俺は風邪なんか引かねェ」
まるで子供のような意地を張る牛鬼に、救い主は呆れた顔で返した。
「もう、子供じゃないんだから……」
「じゃあなんだってんだ。俺のこともそのチンケな傘モドキに入れてくれるってのかよ、救い主サマ?」
傘モドキ、というのにちょっと引っかかったが、彼はビニール傘のことを知らないのだから仕方あるまい。彼方は自分の持っている傘をそっと差し出した。
「……うん、入んなよ」
「……ハッ、お優しいこったな」
皮肉めいたことを言いつつも、牛鬼は素直に彼方の隣に入り込む。
「わ、ほんとにびしょ濡れ……、一体どれだけここに居たのさ」
「知るか」
ぶっきらぼうにそう言って、牛鬼は黙り込んだ。そのまま屋敷に向かって歩き始める。
「どこかに行く予定だった?」
「別に、なんとなくぶらついてただけだ」
「ふーん、そっか……」
そこで会話が途切れてしまう。
何か話した方が良いだろうか、と彼方が考えているうちに、牛鬼が先に口を開いた。
「……テメェはそんなお人好しで、よく今まで生きてこれたな」
「……褒めてる?」
「ンな訳ねェだろ」
相変わらず言葉が刺々しい。そんな牛鬼に口を尖らせながらも、彼方は黙って牛鬼の言葉を聞く。
「雨の日はいつもに比べて陰の気が多い、みーんな気分が下がってやがるからな。だから……」
牛鬼はそこまで言うと、足を止めて彼方の顎を手で乱暴にぐいっと持ち上げた。
「今、喰おうと思えばお前のこと喰っちまえるんだぞ」
そう言いながら、牛鬼は彼方を睨むように見つめる。
「……そんなこと言うけど、結局やらないじゃん。君も、少しは俺のこと気に入ってくれてるんでしょ?」
「……チッ」
図星だったのか、舌打ちをして顔を背けると、牛鬼は再び歩き出した。
「勘違いすんじゃねぇ、俺はただの暇潰しとしてテメェを生かしてやってるだけだ。それを忘れんなよ」
「はいはい」
彼方はふふっと笑って、その後を追った。
「ところで、行くとこ無いんでしょ? だったら一旦屋敷まで来なよ。表立っては無理かもしれないけど、中庭からなら俺の部屋とも近いし……、そのままだと本当に風邪引いちゃうよ」
「……好きにしろ」
「うん、そうする」
雨は、先程よりも少し強くなっていた。
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「……はい、タオル」
「ん」
濡れた服を脱いで体を拭いた牛鬼は、畳の上にどっかりと座り込んで胡座をかいていた。
その目の前には、温かいお茶が入った湯呑みが置かれている。
「(なんか、こうしてると普通に友達みたい)」
無言のまま茶をすすり、雨音だけが響く静かな時間が流れる。
「……ねえ」
「あ?」
「今までも雨の日って、いつもああして過ごしてたの?」
「いっつもって訳じゃねェ、今日たまたまあそこにいただけだ」
気になるところは多々あるが、まあいつもああやってボーッとしてる訳じゃないのであればそれは良かった。雨が降る度にあんなことをしてたんじゃ、何回風邪を引いてもキリがない。
「……まぁさ、また雨が降ったらここに来なよ。俺、待ってるから」
「……」
牛鬼は何も言わず、じぃっと彼方を見つめている。
「え、えーっと……嫌……?」
「……ハッ、ほんっと、おもしれーヤツ」
牛鬼は満更でもないような笑みを浮かべる。
「気が向いたら来てやるよ」
そう言って、彼方の頭をわしゃわしゃっと撫で回した。
「ぅ、な、なんだよ……」
いつもとは違ったその行動に驚いて、彼方は照れくさそうに目を背けた。
「なんだ、テメェも案外可愛いとこあるじゃねえか」
「うっ、うるさいなあ! 子供扱いするなよ!」
「充分ガキだろ」
「はあ」
ふたつの声が響く部屋の中では、もうすっかり雨の音は聞こえなくなっていた。