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    yuto_li

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    とある夏の夜のお話。R-15くらいです。
    他のお話とは別の世界線です。

    君を抱き留めた代償/刑唯 スタンドライトに照らし出された最後の一文を目で追う。最近話題のミステリー小説は確かに満足のいく内容で、登場人物の言葉の中に隠された思惑や事件のトリックも、最後にカチリとピースが嵌まる心地の良いものだった。
     だが。無心になりたくて手に取った一冊を読み終えてなお、心のざわつきが収まる気配はない。もういっそのこと外でも走ってこようか。その程度の疲労で意識を手放せるとはとても思えないが。
     一時五分。とっくに日付は変わってしまった。明日は朝からオケの全体練習がある。パフォーマンスを落とさないためにも睡眠はしっかりと取っておきたい。何か体を温めるものでも飲んで、さっさと横になってしまおう。これ以上起きていても良いことなどない。
     何度目か分からないため息をついて、俺は部屋を出た。
     
     ぼんやりとした月明かりに照らされた菩提樹寮の廊下の先。
     キッチンに足を踏み入れた瞬間、飛び込んできた光景に驚く。朝日奈さんが壁にもたれ掛かるように座り込んでいる。ペットボトルを頬に当てながら片手で自身を扇ぐ姿に、体調不良という言葉が過るが、それはすぐに否定された。
     深夜のキッチンに「どうしよう、はぁ……」と小さく溢された彼女の声色はあまりにも艷やかで、色事の後を思わせるような甘い響き。震えながらも深い呼吸を繰り返しているのか、レースのあしらわれた白いワンピースが小さく揺れている。見たことのない服だ。寝る時はいつもそんなに薄着なのかだとか、無防備な胸元だとか、そもそもどうしてこんな時間にそんなところにそんな状態で座っているのかだとか、気になることは山のようにある。
     静かな空間に、彼女の悩ましげな呼吸が混ざり合う。耳に届く甘い吐息。
     明らかに感じ取れてしまう、朝日奈さんの女性としての部分を。
     ドクンドクンと脈打つ己の体は、ここにいてはならないと告げる。これ以上見ていてはならないと。
     思考とは裏腹に、彼女の側へと足が進んでしまう。無意識に足音を殺しながら、あと一歩踏み込めば触れられる場所まで、彼女に気付かれることなく辿り着いてしまった。薄闇の中でも分かる上気した頬。微かに差し込む月明かりを背にしている自分の影が、彼女に落ちるのが見える。
    「……っ! ……刑部さんっ」
     吐息よりも甘さを増した声が、俺の名を呼ぶ。
     俺を見上げたその顔に胸が締め付けられる。驚きよりも焦がれたような感情を滲ませる彼女を、綺麗だと素直に思った。
     潤む瞳に赤く染まる頬。求められているのだと、錯覚しそうになる。自分の都合のいい幻でも見ているのではないか。あまりに扇情的な光景に言葉が上手く出てこない。
    「………」
    「んッ………」
     何か発するよりも先に、彼女が壁に手を付き立ち上がろうとして体勢を崩した。
    「ひゃ!? やぁっ♡」
     腰をびくんと跳ねさせ甘い声をあげた彼女を、咄嗟に抱き留める。
     初めて聞く朝日奈さんの小さな嬌声に、頭の中が真っ白になる。
     
     
     数時間前。
     まだお風呂上がりで暑いからと、ルームシューズではなくスリッパを履いていた彼女は、ラウンジに向かう下り階段を見事に踏み外した。今日の路上ライブはここがよかった、あそこのハーモニーはもう少しこうした方がいいと思う、ころころと変わる声色に焦りの色が混ざった瞬間の俺の気持ちなど、君には分からないのだろうね。視界で捉えるよりも先に、その音で危険を察知出来たのは幸いか。
     足を踏み外し前のめりになる彼女に手を伸ばし、階段の踊り場へと引き寄せ、くるりと腕の中に抱き留めた。宙へと投げ出されたスリッパだけが弾みながら階下へと落ちていく。
     俺が側にいる時でよかった。咄嗟に動く体でよかった。そして何より無事でよかった。
     大切な彼女が怪我をする事態にならず、安堵のため息が漏れる。
     朝日奈さんは震えた声でびっくりしたぁと呟いたが、どうやら力が抜けてしまったらしい。無理もない。落ち着くまで少し待とうか。
     そんなことを考えていた俺の耳に、朝日奈さんの息を吸う音が響く。彼女はあろうことか、弱々しく俺にしがみついたままこう言い放った。
    「はぁ、刑部さん…かっこいい……」
     俺の胸に、美しい音楽を奏でる手で触れながら。
     照れたような声色で小さく呟かれた言葉に、ガツンと頭を殴られた。落ちそうになった時は怖かっただろうに、もうすっかり安心しきった表情で、ふわりと微笑みながら。
     単純な言葉にここまでの威力を持たせられるのだから、君には敵わない。こちらはひやりとさせられたばかりだというのに。
     速まる鼓動が伝わりはしないだろうか。未だ俺が口を開けないことを気にも留めずに、彼女は続ける。
    「また助けてもらっちゃいましたね…。えへへ、ありがとうございます」
     俺の胸板に体を預けて。嬉しくてたまらないという顔で。
     また、というのはデートと称したあの時のことだろうか。はたまた別の時か。驚くような強さを見せたかと思えば、途端に危うくもなる君に振り回されるのは、今に始まったことではない。
    「刑部さんはいつも優しい…」
     朝日奈さんからぽつりぽつりとぶつけられる言葉に追い打ちをかけられている気分になる。
     俺は優しくなんてないよ。体格の違いなど、触れずとも分かるだろう。君ひとり抱き留めるくらい大したことではない。それに、俺でなくとも君を助ける人間はいくらでもいるだろう。あまり煽るようなことを言うものではないよ。俺が君にとっていい匂いだなんて知らなかった。君だって今シャンプーの香りをこんなにも撒き散らしているじゃないか。いや、シャンプーだけではないね。普段からすれ違うだけでどれだけの人間を魅了しているのか、全く自覚がないらしい。
     俺は今、一体何を聞かされているというのか。よく次から次へと出てくるものだ。己の強みであるはずの言葉と思考をあっさりと奪われている。
     危ないから階段では気を付けるようにといつもの調子で言ってやりたいのに。浴びせられる言葉のひとつひとつを否定してしまいたいのに。甘えるような仕草にすっかり絆されてしまった。
     彼女が怪我をしてしまったらと不安に染まった気持ちが、徐々に熱いものに塗り替えられていく。
    「全く、君は…」
     菩提樹寮の階段の、小さな踊り場で。腕の中に大人しく収まる朝日奈さんの体を、俺は暫く離してやることができなかった。
     
     
     掴んだ腕からはしっとりと優しい感触。倒れないよう彼女の腰を支えた左手には、布越しでもはっきりと熱が伝わって──。
     勘弁してくれ。
     数時間かけても収まらなかった心のざわつきが一層に強くなってしまう。
    「…大丈夫かい? 朝日奈さん」
    「っ! ……ありがとうございます、おさかべ、さん」
     なんとか冷静を装って声を掛けたが、ぴくぴくと震える朝日奈さんの体には、どう見ても快楽の余韻が残っている。上擦る声には甘さが混ざり、とろけた瞳は恥ずかしさに揺れ、雄弁に語ってくる。先ほどまで、朝日奈さんが何をしていたのかを。
     ならばこの手で啼かせてやりたい。
    「ふぁ…ッ♡」
     掴んだ腕の表面をそっと指でなぞるだけで、ビクリと跳ねる体。
    「いけない子だね」
    「ぁ…んっ、ごめんなさ……」
     口では謝りながらも、真っ赤な顔で期待するように俺の服の端を握ってくる。俺に撫でられたままの彼女が途切れ途切れに口にした、「部屋に戻る勇気が出なくて」という言葉。その奥に隠れた真意を思い描いてしまうことを、どうか許してもらいたい。そこに転がるペットボトルなどでは冷ましきれないほどの熱が、そこにはあったのだろう?
     
     眠れぬ夜に、彼女がひとり“自分を慰めて”いた。
     俺を思い出しながら。
     ……こんな時間になるまで、あの部屋で。
     
     聞けば、冷めることのない熱に怯えて部屋から逃げ出し、キッチンの隅で縮こまっていたらしい。
     本能と欲望に責め立てられ中途半端に高めるだけで、熱を放出するには至らない。
     その事実に、ズンと自身が重たくなるのを感じた。目眩がするのに笑いが溢れてしまう。あれだけ俺は抱き締めた感触を、香りを、熱を、思い出さないよう努めていたというのに……君は。
     ワンピースの上からゆっくりと腰を撫でてやるだけで可愛らしい声を漏らす朝日奈さん。ひとりでこれだけの熱を持て余していたなんて、さぞ辛かっただろう。
    「あッ、んぁ……おさかべさん、たすけ、て…♡」
    「どうなっても知らないよ」
    「おねが、いっ♡……します、…おさかべさん」
     ここまで感度がいいのだから、自分を慰めた経験が一度や二度ではないことは明らかだ。俺に抱き留められたことを思い出して長い時間耽っていた彼女の体は、どうやらその快楽を思い起こしてしまったらしい。
     これは随分と教え甲斐がありそうだ。
    「朝日奈さん。“俺”には、どこを、どう触れられたんだ? ほら…言ってごらん?」
    「ひゃぁ♡……んん、はずかし…♡」
     階段でその身に触れたよりも、君の想像よりも、もっと甘く、深く。
     もう帰してやることはできないよ。
     期待に震える朝日奈さんの素直な体を抱き上げて、俺は薄闇の中を自室へと引き返した。


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