三度、知らないと言って 天地がひっくり返ったのだとあの時思った。実際にアイアンメイデンが回転し、文字通りひっくり返ったといえなくもないことをアレッサンドロはよく知らない。ただ、自分の命など歯牙にもかけないと思っていたパウラから向けられる眼差しが、これまでとは少し違っている気がした。
冷厳なシスターの視線に込められたものをどう表せばいいのかアレッサンドロはわからない。かつて、幼い頃父に侍っていた女達が見せたような媚びとも、即位してから多くの者に向けられてきたような軽侮の念や失望などとも違う。むしろ、今までのパウラから向けられていたものはそれが近い。失望や軽侮ではなくもっと乾いたそれ、無関心という方が近かった。しかし、今のパウラがアレッサンドロへ向ける声や眼差しには立場上だけでないいたわりも感じられる。それは、亡き人を思い出させた。色も、性別も違うのに。
「貴方には志がある」
人は声から死者を忘れるというが、アレッサンドロはまだ彼の言葉を、声を思い出せる。何もできないと思われていたアレッサンドロを認めてくれたただ一人のひと。その名を呼ぶことはできない。彼は新教皇庁として、教皇庁に敵対した咎人だからだ。ナイトロード神父も、かろうじてブルノへの埋葬を許されただけだとこっそり教えてくれたのが精一杯だった。
「聖下。打ち身は後から痛むこともございます」
穏やかな声でパウラがアレッサンドロの安否をまた確かめようとする。
「ぼ、僕は大丈夫。そ、そうだペテロ!」
「大丈夫ですわ、聖下」
「シスター・ケイト。乗客の安全は確認できましたか」
「もちろんです。ブラザー・ペテロも先ほどの揺れの影響はございません。でもそうですね。お二人とも医務室へいらしてくださいますか?」
念のため治療をしたいという申し出にパウラは首を振りかけてやめた。
「私は問題ありません。ですが、聖下のお体が心配です」
「かしこまりました。聖下、医務室へおいでいただけますか?」
「う、うん……はい」
頷いた少年が振り返るとパウラが優しく微笑んでいるように見えた。ずっと侮られてきたからこそわかる、悪意のない穏やかな表情に少年もようやく肩の力を抜いた。
幸い骨や脳波に異常はないが、先ほど拘束されていた際や転倒時に何カ所か打ち身ができていた。落ち着いてくると痛みだしたので鎮痛剤をもらい、それからペテロを見舞った。
「よ、よかった」
まだ意識も戻っていないが顔色は前より良く、規則正しいリズムで胸が上下している。
「あ、ありがとう。も、もう会えないかもしれないから、今のうちに言いますね」
戦闘でうやむやになっていたが、パウラの言葉通りなら聖天使城への移送もあり得る。名前こそ美しいが事実上の幽閉に等しい。
「ペテロは僕の言うことを聞いただけだから悪くない」
決意が吃音を抑える。
「だから、僕のことは知らないと言ってほしい。三度、ううん。何度でも」
御子と自分は違う。だが、聖書において使徒ペテロは御子を三度知らないと言うと御子自身に予言され、そしてその通りになった。
「知らないと言わなきゃいけないんだ。僕が、ヴァーツラフと会ってないことになったように」
エステルにも彼の名を伝えることはなかったが、すっと口から滑り出た。
「ありがとう、ペテロ。Requiem aeternam dona eis, Domine, et lux perpetua luceat eis. 主よ、妨げられることなき安らぎを彼らに与えたまえ、絶え間なき光で彼らを輝かせたまえ」
信念のため咎人となることを選んだかの人の面影をそっと胸の奥にしまい込むと少年は忠実な騎士のために祈った。