覆い隠せぬあぐ。
口を開いた。
唇の端がひきつる感じがする。
気をつけないと、舌が口からはみ出してしまう。
「いいよ。おいで」
ドラ公の声は落ち着いている。
短い言葉。
それでも、俺を許してくれる言葉。
表情は見えない。
俺は下を向いてる。
ドラ公の首元だけを見つめている。
いや、本当は顔を見るのが怖いんだ。
俺ばかり緊張して、ドラ公がなんでもない顔をしているのが。
だから俺は俺に許された分のご褒美をもらうことに集中した。
吸対のジャケット。
ダブルのボタンを上からみっつ。
ネクタイは取ってくれた。
シャツのボタンは、上からふたつだけ。
誰も見たことがない、ドラ公の制服の内側。
こうして、仕事中のドラ公は、俺が「いいこと」をしたときだけ、誰にも見えない所でご褒美をくれる。
鎖骨のラインが覗く。
男の首元。
しっかりした骨格に、薄い肉と皮が張り付いている。
肉のつかない彼らしく、細く、折れそうなシルエット。
されど、彫刻刀で削り取ったかのように、無駄のないシルエット。
これが俺へのご褒美だ。
女の柔らかな首筋とは全然違うのに、その首筋が息づく様はなぜか官能を呼び覚ました。
これに噛みつきたい。
ともすればしゃぶりたい。
牙を差し込み、血をすすりたい。
あわよくばここに強く口付けて、そのまま夜に連れていくことだって、俺は。
腹の底で欲が渦巻く。
キュンと胸の中の内蔵が泣き出す。
ひもじさとみだらな気持ちの境目が分からなくなる。
ゆっくり、ゆっくりと牙を近づけた。
ドラ公は逃げない。
目は怖くて見えない。
でも、口元は笑んでいる。
くそ、俺はこんなにもぐちゃぐちゃなのに。
ふーふーと呼吸が鳴り止まない。
俺の声だ。
うるさかった。
でも、息すらも我慢できないほど、興奮していた。
何度だって許されてきたにもかかわらず、俺はいつだって慣れなかった。
唇で触れたドラ公の肌は、しっとりとぬるんでいた。
人にしては低い体温。
破れそうなほど薄い、きめ細やかな肌。
触れた一瞬で、唇から多くの情報が脳裏や脳裏を灼きにくる。
首筋に当たった牙は、彼の薄くあたたかな皮膚を貫きたくて……それでも貫くことはなかった。
「ん、んく。……んちゅ」
「んふふ。甘噛みにしてくれてるの。かわいいねぇ」
「んぐ、ふぅっ……ふーっ、ふーっ」
「鼻息が当たってる。くすぐったいよ」
ドラ公は笑い続けている。
吸対の隊長のくせに。
吸血鬼に首筋を噛まれてもなお、余裕そうにして。
いや、俺は本当に噛みつけているわけではないのだ。
公僕たる警察、吸血鬼対策課(キュータイ)の、さらに備品として登録された吸血鬼ロナルド。
そんな俺のはたらきに、ドラルク隊長が許したご褒美。
それは、「トゥースカバー越しの擬似吸血」だった。
直訳すれば歯の覆い。
人間向けの歯医者ではマウスピースなんて呼ぶこともあるかも。
シリコンやらボリだのピレだの変な名前の樹脂なんやらをまぜ捏ねて作った、プニプニした歯の覆いだ。
主な用途は歯ぎしり対策。
人間向けの医療器具なら、俺の力でン!ってやればすぐ壊せる。
けど、そこに素材としてシンヨコハマニウムとオリハルコンも混ぜこまれたら為す術はない。
絶対に破れないトゥースカバーは、正しく鉄壁の防御として、俺の牙とドラ公の首筋を隔てていたのだ。
『オッサンとの吸血ゴッコなんかで、満足できるかよ!』
初めてこのご褒美を提案された時、確かに俺はそう言った。
なのに、ドラ公の肌は甘くて。
何度もご褒美を貰ううちに、この時だけは声が優しくなることがわかって。
吸い付く間だけは抱きしめてても何も言われなくて。
今は。
「ふーっ、ふぅうーっ……!」
「よしよし、たんとお飲み」
「何にもっ、……んちゅ、出てねえじゃんっ……!」
「大丈夫。想像しなよ。こうするだけで、君は確かに満たされていく」
「んく、ん……く」
「まあ、お腹の空いたぶんは、後で好きなご飯作ってあげるからね」
ドラ公はマジだ。
マジでこんなまがい物の吸血で、吸血鬼の衝動が治まると信じてやがる。
実際は逆だ。
現代生まれで、血に困らない環境育ち。
人に牙さえ立てたことがなかった俺は(厳密には今もないけど)生き餌を抱きしめる快楽を知ってしまった。
さらに、どんなに焦がれても牙を立てられず、血を貰えない飢餓感も。
その衝動は、ドラ公へと向かっていく。
なあお前、知らないだろ。
俺、ご褒美がない時だって、お前から目が離せねえんだぞ。
隊長さんしてても、家でゲームしてる時も。
このワケのわかんない覆いをとっぱらって触れたいって気持ちを、ずっと抑えてなきゃいけねぇんだぞ。
そんなことを思いながら、俺の気持ちも知らないでただただ頭を撫でてくるドラ公に噛み付こうとする。
それでも、俺がどんなに力を込めても、一定以上の圧力は伝わらないようだった。
仕方なく、せめて汗だけでも味わいたくて、舌を伸ばした。
「……んっ」
ドラ公が息をつめる。
ぞく、と背筋を走る衝動がある。
好きになってしまった。
ドラ公がこんなんだから。
好きになっちゃったんだ、こっちは。
せめてもの仕返しだ。
俺は首筋の舌をやわやわと動かす。
セックスのはじめ方なんて知らない。
俺童貞だもん。
でも、出来るだけ気持ちよくなるように。
ドラ公に気づかれず、ふにゃふにゃになって欲しくて、れろ、るろと舌先で首筋を優しくなぞり続けた。
「ん…んっ……!」
ぴくぴくっ。
ドラ公が背筋を震わせた。
ギュッと頭を抱きしめられる。
さらに唇の角度を変え、吸いつこうとした瞬間。
「はい、おしまい」
「……」
「私くすぐったくなっちゃったから、もう終わりね。……ん、ふっ。まだちょっとくすぐったいのが残ってる。後で食べたいもの教えてね」
「……」
「さ、仕事仕事。みんなの部屋に戻ろ?」
怒りに任せて睨むことが出来たから、俺はようやくドラ公の顔を見れた。
もうシャツのボタンを留めかけている。
ネクタイにまで手を伸ばして。
でも、今度はドラ公が俺を見ない。
きまり悪そうに目を伏せている。
いつもきちんと撫で付けている前髪がほつれている。
眦に涙がうかび、耳の先が僅かに赤くなっている。
「お望み通り、コレは取らねえ」
牙を剥いて、付けたままのトゥースカバーをトントン叩いて見せた。
文脈が繋がっていない。
だからドラ公は首を傾げた。
「だけど」
だけど。
ドラ公がはたと身体に力を入れた。
さっきまで俺に吸い付かせていた首筋の程近く。
シャツの胸ポケットの血液錠剤を取ろうと細い腕が素早く動いていた。
でも、俺からしたら手首を掴んで留めるなんて簡単だった。
しっかり男らしいのに、俺からしたらどこも華奢で不安になる。
そんな体も、抱き寄せたら大人しくなった。
案の定、すっぽりと腕の中に収まった。
ドラ公は震えていた。
最初に言っとかねえとな。
俺ははだけた隊服とシャツの隙間に手を忍ばせながら囁く。
「好きだ。だから」
ドラ公の返事を飲み込む。
初めて味わった彼の唾液は、想像通り甘くて脳が溶けるかと思った。