Recent Search
    Create an account to secretly follow the author.
    Sign Up, Sign In

    kipponLH

    @kipponLH

    ☆quiet follow Send AirSkeb request Yell with Emoji 💖 👍 🎉 😍
    POIPOI 30

    kipponLH

    ☆quiet follow

    ドラムハンとNANAのクロスオーバーです。リヴァハンじゃないです。百合です。
    このレイラはちょいちょいタクミを思い浮かべながら話をしていますが、私の力不足ゆえ上手く織り込めませんでした。

    チョコレート・シガレット 煙草を燻らせる、ってどうやるんだろう。
     その日、冬休みのバイト代全部叩いて先輩からギターを譲り受けた。背に初めての重みを感じながらライブハウスの前に立っていたら、ガキは帰れと見知らぬ男に声をかけられた。男の視線がセーラー服を身に纏った私の頭頂部からつま先までぐるりと一周したのがわかった。男の肩にはMARTIN D-18。楽器店以外の場所で間近に見るのは初めてだった。店には毎日のように通っていたのに、手を触れる勇気もなかった。「ガキじゃない」と反論すると男は笑い、咥えていた煙草を弾いて地面に落とした。ぐりぐりと踵を押しつけて火を消すと、ジャケットから箱を取り出し一本口に咥える。次いで懐を漁ってライターを探しているようだったが、ふと手を止めてこちらを見ると、思いついたように箱を向けた。「ん」私が一本引き抜くと、男は言った。「それ吸えるようになったら来い」
     灰色の雲がどんよりと空を覆う、1月の夕方のことだった。しんしんと蓄積される冷たさから身を守るように私はスカートのポケットに手を突っ込み、煙草を押し込んだ。それからギターを背負いなおすと、踵を返してライブハウスを後にした。

    「連れて行ってやるよ、ライブ。行きたいんだろ?」
     ギターを譲ってくれた先輩は、私が入学するのと入れ替わりに高校を卒業していた。その先輩も大学生がすっかり板についた頃。彼から突然誘われたのは、新学期が始まってしばらく経った頃だった。2月に入って寒さは一段と厳しさを増していた。
     夜の外出には理由が要る。親には学校が終わったら直接塾に行くと告げ、分厚いロングコートの下にセーラー服を隠してライブハウスへの道を急いだ。心は急いていた。それが初めて見る生ライブへの期待から来るものなのか、親への隠し事がまた一つ増えたことに対する後ろめたさから来るものなのかはわからなかった。
     地下へと続く階段を降り、いつも眺めてばかりだった扉を開くと、光と音が一斉に押し寄せてきた。
     ギターがうなる。ベースが弾む。ドラムが躍る。声が楽器のように飛んで、跳ねて、反響する。それらがことごとく波となって会場と観客を呑み込み、場を支配していた。
     ステージの中心に立っていたのは、全てが白く透き通った人だった。白い肌に、黄色というよりは白に近い金色の髪をなびかせて、その人は歌っていた。高く高く、どこまでも高く。のびやかに歌うその人は、今日のライブで最も注目を集めるバンドの歌姫だった。
     高揚していた。私は思った。今、私は高揚している。味わったことのない感覚だった。脳天が痺れて、頭のてっぺんから足の先まで突っ張ったように引き上げられる。体がふわふわとして凍えるようでありながら、芯から燃え滾って熱い。とにかく一切のコントロールが効かない。自分の体であるはずなのに、会場が生き物となって、まるで自分はその一部のような、むしろその内臓であるかのように沸き立つ。あたかもそれが自然であるかのように、自分の中のあらゆるものが呼応し蠢いていた。ああ嬉しいのだ、と思った。自分は嬉しいのだ。生きていて嬉しい。音楽が私にそれを自覚させてくれる。
     強烈な光と音に包まれて、身じろぎ一つできないまま、私はそこに佇んでいた。

     先輩にここで待っていろと言われた私は、素直に頷いた。いわゆるバックステージ、細い廊下に所狭しと立ち並ぶ部屋の一室に、私は通された。あんなにも焦がれたライブハウスの裏側を見ているにもかかわらず、まだ夢を見ているような心地だった。体の浮遊感は抜けきらず、視覚、聴覚、触覚全てにおいて体は現実に戻ろうと試みるが、いまだ意識は客席の一角にあった。
     戻らない耳と目と肌感覚に、ならば味覚はと思い立ち、スカートのポケットをまさぐった。指にかさりと長いものが触れ、その感覚に一種の安堵を感じつつ引っ張り出す。「それ吸えるようになったら来い」あの日以来、お守りのように持っていた。誰にも見つかってはいけない。見つかったら取り上げられてしまう。それは周囲の大人たちを困惑させ、逆上させ、私をがんじがらめにするだろう。だけど甘美なもの。私の夢と同じ。
     音楽で食べていくつもりだと言ったなら、父はきっと怒るだろう。母は困り果てて眉を寄せ、ひょっとしたら目尻に涙をにじませるかもしれない。そういう姿はあまり見たくないと思う。
     煙草を口に咥え、家から拝借してきたライターで火を点けた。うまく点くか不安だったが、シュボっという発火音を合図に先端が赤く色づいた。ジジジ……と微かに音を立てながら焦げついていく。この煙草は何という銘柄なのだろう。男が持っていた箱には、紺地に鳥のような絵が描かれていた。何かを口にして下を向いている鳥。あの鳥は落下していたのだろうか。両親は煙草を吸わないので気にしたこともなかったが、今度調べてみようと思った。
     そういえば、煙草ってどうやって燻らせるんだろう。ずいぶん昔の映画で見たことがある。古びたフィルムの中で彼らは人差し指と中指を使って煙草を挟み、息を吸い込んでは煙を吐き出し、それを何度も繰り返していた。
     白い巻紙を弄びながら考えるでもなく考えていた。苛立っていた。腹の底で怒りとも焦りとも似つかないものが煮えたぎっている。門前払いでこの煙草を渡してきた男にも、音楽への執心を一時の気の迷いと断じる両親にも。去年中学を卒業した時、父に言った。自分は音楽をやってみたい、そのためにバイトをしてギターを買いたいし、これから音楽に充てる時間を増やすつもりだ、と。父は笑った。母は当惑した。お前が音楽を好きなことはわかってるが、そんなことやってる暇があれば勉強しろよ、高校生活なんてあっという間だぞ。楽しいことを追うのもいいけど、将来のこともちゃんと見据えなきゃ。
     将来って何だろう、と思った。私は音楽をやりたい。音楽しかないなんてことはないだろうけど、今真剣にやらなければ自分が思い描く未来を、掴みたいものを、永遠に逃してしまうような気がする。父はこの話は仕舞いだとばかりに切り上げ、母は沈黙した。それ以来、我が家でその話が出ることはない。バイト代を必死で数えて手に入れたギターも、結局自室のクローゼットの中で、ブランケットに包まれて眠っている。誰かに見つけてほしいのに、誰にも見つからない。それを引っ張り出せるのは自分しかいないというのに。
     咥え始めにはざらりと乾いていた吸い口が、唾液を含んで濡れていく。軽く吸い込んでみると、煙がのどに直撃してゲホゲホと勢いよく咳が出た。鼻の中が強い臭気で満ちる。激しい咳にのどが詰まり、首から上だけが分離したような感覚に陥っていると、不意に部屋の扉が開いた。涙で霞んだ視界に、淡い影が映った。
     一瞬、自分はまだステージを見ているのかと錯覚した。白い肌に、白に近い金の髪。先ほどまで観客を熱狂させ、このライブハウスを支配していた歌姫だった。
     彼女はピンと伸びた背筋の後ろに、扉を隠して立っていた。反応に窮していると、ツカツカと寄ってきて勢いよく煙草を取り上げられた。そのまま卓上の灰皿に押し付けられる。火種はあっという間に消えた。
    「中学生はダーメ。目の前で吸われちゃうとさすがに注意しないわけにはいかないんだよねー」
    「……高校生です」
     突然のことに呆気にとられていると、こちらの様子は意も介さずといった調子で彼女が続ける。
    「全く、誰が教えたんだか。ダメだよー未成年が」
     そう言って再び煙草を押し潰す。ガラス製の灰皿の表面がみるみるうちにくすんでいく。間近で見る彼女は、ステージの上とはまた少し印象が違った。マイクを握る姿は圧巻で、誰も立ち入らせないオーラを纏っていたが、今目の前にいる彼女はそれよりずっと親しみやすい。ただその気安さはコロコロと変わる表情と軽い口調のためで、造形自体は安易に人を寄せつけるものではない。惹きつけるのに、圧倒する。陶器のように滑らかな肌に、スッと通った鼻筋。大きな瞳に煌めきが満ちているのは言うまでもない。全てが作り物めいていて、しかし彼女の放つ凛とした明るさがその美貌に血を通わせている。
    「それで君、どうしてここにいるの?」
    「あ……連れてきてくれた先輩が、ここで待ってろって」
    「ふーん」
     彼女は興味を失ったかのように備え付けの冷蔵庫へ向かうと、中からミネラルウォーターを取り出した。キャップを捻って水を飲む。年の頃は如何ほどだろうか。私より少し年上に見える。
     俄かに気まずさが襲ってきた。自分の格好が急にみずぼらしく感じられた。眼前の女性は先ほどと何ら変わらず、のどを上下させて水を飲んでいる。整った髪に、自然に弧を描く眉。服装はスカートのドレープに至るまで繊細で、それを選んだバランス感覚、着こなすセンス、その全てが計算され尽くしているように思えた。のどの動きまで美しい人に、私は今まで出会ったことがない。
     思わずコートの前合わせを掴んで手繰り寄せた。中に着ているセーラー服を隠したかった。赤いスカーフも、白い襟も、濃紺のスカートも、全てが子どもの象徴のように、未熟さの証のように思われた。
     俯いた視線の先に、コトンとペットボトルが置かれた。澄んだミネラルウォーターの表面に自分が映っているような気がして、コートを掴む指に一層力を入れた。女性が向かい側の席に腰を下ろす。髪をかき上げる仕草すら自分とは遠く離れた世界のものだった。自分がこの人の年に追いついた時、同じようになっているとは到底思えなかった。子どもである私は、しかし自分の将来を目先の人に無邪気に投影できるほど子どもでもなかった。
    「あなた、彼が連れて来たのよね?」
     彼とは私をライブハウスに誘った先輩だろう。
    「はい」
     口内には煙草の苦みがまだ残っていた。でも何となく水を飲む気にもなれなくて、じっとテーブルの上の容器を見つめた。透明なのに、無様に歪んでいる。中に水を詰めているから。空っぽの入れ物にただ中身を注いでも、歪んでしまうだけなのだろうか。それは逃れられない宿命なのだろうか。
    「なんでみんな煙草吸いたがるんだろうねー」
    「はい」
    「そんないいもんじゃないでしょ」
    「はい」
    「ま、一度はやってみたいってやつか」
     そう言ったきり女性は口を噤んだ。沈黙が呼び水となり、火種とともに消えたはずの苛立ちがよみがえってくる。火種は消えたとしても、は煙となって部屋中に充満していた。この部屋は今、私の怒りともどかしさで満ちている。
     ぐるぐる巻きにしてクローゼットに閉じ込めたギターが頭をよぎった。父も母も、冬休み中私が何をしていたか知らなかったわけがないだろう。私が腐心してお金を貯めて、何を買ったか薄々勘づいているはずだ。母はクローゼットの中を覗いているだろう。
     苦々しさに唇を噛んだところで、それがカサカサに乾いていることに気づいた。やっぱり水を飲もうかと視線を移すと、ふいに女性の唇が目に入った。形の良いリップにチェリーピンクの口紅が引かれ、艶やかに撓んでいる。まるで果汁のように触れたそばから滴り落ちそうな艶めきに、しばし目を奪われる。この人はこの煌めきを、洗練を、余裕を、どこで手に入れたのだろう。そして私はいつかそれを手にできるだろうか。
    「ギターもさ」
    「はい」
     頭の中を見透かされたような言葉に驚いて顔を上げた。女性とまともに視線がぶつかる。こちらのたじろぎに反して、向こうに特に気にしている素振りはない。
    「あなたでしょ? 彼がギター譲ったのって。買ったばかりでさ、でも筋のいい後輩が欲しがってるからあげるんだって言ってたよ。彼もそうやってあなたのこと大事に思ってるんだからその辺多少わかってあげて――」
    「なんですか?」
    「えっ?」
    「ギター。ギターを先輩が買ったばかりだったって、今」
    「ああ、ギター……買ったばかりだったけど、筋のいい後輩がいて、その後輩が欲しがってるからあげたんだって。そう言ってたわよ、彼」
     バイト代の振込日、転がり込むように銀行へ走った。そのまま封筒を抱えて先輩の家に駆け込むと、彼は「焦るなよ」と言って笑った。そのまま封筒と引き換えにギターを受け取った。クローゼットの暗がりに押し込めたギター。今この瞬間も、私の帰りを待っている。
     先輩は、新しいギターを買うからこれをお前にやるよ、と言った。ただしちゃんと自分で貯めて払えよ、と。女性が言っていることが本当であれば、新品同様のギターがあの値段で買えるわけがない。つまり、私は、ここでも甘やかされていた。
     突如、体中から力が抜けた。それでも辛うじて腕を突っ張って、世界が反転しそうになるのを堪えた。込み上げてくるものを抑えるようにもう一方の手で口を覆う。私は結局、守られていた。
    「大丈夫?」
     テーブルを挟んで反対側にいたはずの女性が、いつの間にか回り込んでいた。肩に手を置き、こちらを覗き込んでいる。その目に映った心配と狼狽の色は、どうやら本物のようだ。
    「先輩、言ってたんです。新しいのを買うから、これはお前が使えよって」
    「そう……」
     女性が水に手を伸ばしてキャップを捻り、こちらに差し出す。
    「ごめんね。あなたもてっきり知ってるものとばっかり……」
    「私、ギターがどうしても欲しくて、冬休み中バイトして、自分の力で手に入れたと思ったんです。けど違った」
     私は差し出されたペットボトルを受け取らなかった。受け取ることができなかった。顎を上げると、そこには色素の薄い、まつ毛の先から顔のラインまで整った女の顔があった。
    「どうして大人は勝手なことするんです? お膳立てしなきゃ何もできないくせにって?」
     破裂したように飛び出した言葉に、女性はまじろぎ一つしない。そうしていると作り物のような顔が、ますます作り物めいていく。
    「あなただってそうでしょう? 煙草をやめろっていうくせに、自分が見てないところでならいいって言う。結局面倒ごとが嫌なだけでしょう? 見えないものはないのと同じだから。高みの見物してるだけのくせに、わかったような口利かないでよ! 同じところに降りてくる勇気もないのに偉そうなこと言わないで!」
     自分でも驚くほど大きな声が出た。突きつけた言葉の収めどころもわからずに荒い息を吐き出していると、白い手が降りてきて両肩に乗った。女性が跪く。チェリーピンクの唇が開いた。
    「さっきの私の態度は良くなかったと思う。あなたの言う通りだわ。でも、彼は違うと思う。少なくともあなたを馬鹿にして、軽んじてギターを譲ったんじゃない」
    「一段高い場所にいる人間の言うことは信用しない」
    「どうすればいい?」
     両手に挟まれた姿勢になった私は、彼女の肩越しにチラリとテーブルを見やった。ほとんど吸われていない煙草からは、もう煙の一筋すら出ていない。
    「煙草は、ダメなんですよね?」
    「うん」
    「じゃあ、もっといいこと教えてください」
     視線を戻して女性を真正面から見つめた。射抜くつもりだった。射抜いて、刺してやりたかった。
    「降りてきて」
     その瞬間、ぐいっと肩を引き寄せられた。えっと口を開きかけたところへチェリーピンクの唇が降ってくる。ささくれだった唇に柔らかな感触が落ちる。
     キスとはどんなものだろうと、幾度も夢想した。鏡の前で自分の唇をなぞったこともある。今、本物のキスは無味無臭で、触れた部分から微かに体温だけが伝わってくる。想像していたよりずっとしなやかで、人体にこんなにも柔らかい部分があったのかと驚く。弾力があり、あたたかいにもかかわらず、どこか現実味がなかった。
     女性の手が私の右耳を撫でたのを合図に、緩んだ唇の隙間から舌が侵入してきた。それは体温のかたまりで、先ほどまで欠けていた生々しさを一気に引き連れてきた。自分の意志とは切り離されたものが口内に存在し、無遠慮に動き回る。舌が歯列をなぞり、行き場を失くした私の舌をとらえた。絡めたかと思うと舌先で弄び、つつき、包み込む。その動きを何度も繰り返す。隙間から入り込んでくる空気が、かえって自分の舌と相手の舌が密着していることを自覚させる。キスは甘いのだと知った。チェリーピンクの唇を見た時に密かに感じた劣情は、今、現実のものとなる。
     角度を変えて繰り返されるキスに、徐々に息が上がってきた時だった。先ほどまでの遠慮のなさが嘘のように、あっさり唇が離れた。
     代わりにコートの内側に指が侵入する。驚いて止めようとすると、軽くいなされた。ボタンが一つ二つと外され、白い襟に赤いスカーフが露わになった。
    「私もセーラー服だったよ」
     シュル、と衣擦れの音を響かせて、スカーフが外される。手の甲にキスをするように、彼女は恭しくそれに口づけた。
    「内緒で来たんだね」
     そっとテーブルの上に置く。私はこんなにも丁寧に自分のスカーフを扱ったことがあっただろうか。
    「まあ私も実際よくわからないんだけどねーうちの親、そういうのうるさくなかったし。ていうか、ほったらかし?」
     白い歯を覗かせて、彼女が笑う。快活な笑みだった。
    「中学生だっけ」
     彼女の細い指が、制服の襟と鎖骨の間を行ったり来たりする。
    「高校生です」
    「そう? どっちにしろこれ以上はやめておこうかな」
     指が離れた。同時に彼女は寄せていた体も離し、翻って壁際に備え付けられた化粧台へと向かった。唇にチェリーピンクの口紅を塗り、指で薄く伸ばしていく。鏡に映る彼女と目が合う。鏡の中の瞳が美しい弧の形を描いた。眉と同じ。だが今度はそれが作り物ではないことがはっきりとわかった。鏡のほうを向いたまま、彼女が言った。
    「大人はあなたのためと言って、子どもを蚊帳の外に押しやると思ってるんだね」
    「……」
     図星だった。でも自分がひどく子どもじみた駄々をこねたことがわかっていて、口を開けなかった。
     カチリと口紅に蓋をする。その音が部屋中に響いた。
    「大人もそうやって身を守ってるんだよ」
     表情はこちらから見えない。ただ来た時と同じように、白に近い金髪が繊細なウェーブを打っているのみだ。
    「あなたに知ってほしいことと知ってほしくないことがあるの。できれば傷つかずに生きてほしいんだよ。だけど時々衝突しちゃう。もちろんあなたがその気持ちに従ういわれもないんだけどね。……それがわかるようになったら大人かもね。うーん、私も大人って何かわかんないや」
     そう言いながら、女性は大きく伸びをして振り返った。白く滑らかな脇が露わになった。
    「それ逆ギレって言うんじゃないの」
    「そうそうそれそれ、君賢いね」
    「……」
    「まあ許してやれとは言わないけどさ。それは君が背負うものでもないし。相手の問題だよ。でもさ。そういうこともあるって覚えておくことは、君の人生にとって悪いことじゃないかもね」
     女性がわずかに首を傾げて、下から覗き込むように言葉を続ける。
    「そうすればこれから先どうしようもないことにぶつかった時、自分のせいじゃないってわかるでしょ」
     今度はおいでおいでと手招きされた。そばに寄ると、口の中に指を差し込まれた。
     甘い。
    「美味しい?」
     口内にひんやりとしたかたまりがねじ込まれ、自分の熱によって徐々に溶かされていく。とろけるような舌触りの後に、甘さが追いかけてきた。
    「チョコレート」
     女性の答えに、そうか、今日はバレンタインかと思い当たった。
    「子どもにはこっちのほうが似合うよ」
    「……子どもにするようなことじゃないことしてたくせに」
     彼女が再び破顔する。チェリーピンクの唇の間で、白い歯が微かに揺れた。
    「大人なんて勝手だよね」
     そっと指が抜きとられる。
    「大人じゃなくても勝手か……」
     その顔にある種の寂寞感と得心を見出したが、問いかける言葉も見つからないままついに指は離れた。
    「またおいで」
    「はい」
     私の返事に唇の両端が上がり、口紅の光沢が増す。その微笑みに、もう反抗心は抱かなかった。腑抜けたか。文字通り魂を抜かれたのかもしれない。

     扉を閉めると同時に、内鍵がかけられる音がした。カチャリと軽い金属音がこだまする。その音を合図に、ああ現実に戻ってきたんだ、と思った。無性にギターを弾きたくなった。今すぐクローゼットの扉を開けたい。あれは私のギターだ。
     ふと静かな廊下に足音が響き、音の出所を探すと、廊下の向こうから先輩がやってくるところだった。
    「ハンジ、待たせたな……って、レイラさん、もしかしてもう来てたか?」
    「うん。着替えるところみたい。今は開けないほうがいいよ」
    「そうか……悪かったな、せっかく待ってたのに」
    「ううん、少し話せたから。行こう」
     先に立って歩き始めると、後ろから先輩が緩やかについて来る。私のせかせかとした足音とは対照的に、彼の足音には余裕が満ちているように感じられた。
     こっそり唇に触れてみる。あのチェリーピンクの艶がこの唇に移ってはいないだろうか。移っていればいいのに。
    「ねぇ……エルヴィン」
     歩みを止めることなく続ける。彼の反応を予想したいとは思わなかった。自分の手が宙をきり、足の裏が一歩一歩床をとらえていくのを感じる。
     スカートのポケットに触れてみた。そこにあった確かな感触は、布地に吸い込まれたかのように今や跡形もない。煙草の箱に描かれたあの深い紺地に金の鳥は、落ちていったのだろうか。それともどこかへと向かう中途なのだろうか。
     真っ直ぐ家へと向かうルートを思い描きながらつぶやいた。
    「大人って何だろう」
    Tap to full screen .Repost is prohibited
    🙏
    Let's send reactions!
    Replies from the creator

    recommended works