俳優パロのマイ武「ひ……いや、だ、こないで、」
じり、じりと口元に薄ら笑みを浮かべた男が歩み寄ってくる。
その手には刃物が握り締められていて、既に赤黒い血がべっとりと塗り付いている。
薄暗く埃っぽい床に手をつき、後退りするさまがひどく滑稽で面白いようだ。
男は益々笑みを深め、嘲るように声を弾ませた。
「なるべく声あげてくれよ。俺、死ぬ間際の命乞いが好きなんだァ!!」
「や、だ、やめて、こないでっ、うわあああああ!!!!」
ズブリ
その場に似つかわしくない間抜けな音が鳴り、腹部の布が赤く染まっていく。
真正面を見据える男の顔は満足気に歪められていて、ああオレの人生なんてこんなもんか、とから笑いしながら昏々と死の眠りについた。
「はいカットー」
パチン、とその場の空気を変える音が耳に響き、目を開けてむくりと起き上がる。
見渡すとメイクさんやスタッフさんが飛び散った血糊を拭いたり、殺人鬼役の髪の毛を整えたりしていた。
オレは末端俳優だからかそういうのは特にない。自分で頭やほっぺたに付着した埃を払ってから監督に駆け寄った。
「すみません、あの、」
「ん?ああ、お疲れー」
「あ、えと、オレこのあとの予定聞いてないんですが、どこで待機してれば……?」
「いやもう帰っていいよ。花垣君の出番終わりだから」
え?聞き間違えた?
確か台本には、少しだけどオレのシーンあったはず。
こちらに目もくれず台本に目を通している監督に挙動不審になりながら食い下がった。
「出番終わり、ですか?まだあの、回想とかあったような気もするんですが……」
「あー、あそこね、都合上カット」
「か、っと、ですか」
「てかキミね、ちょっと演技下手すぎるよ。あの棒読み叫びはないでしょうよ。血糊勿体ないし大したことないシーンだから撮り直しはしないけど、もう少し殺される緊迫感みたいなの持ってよ」
「……すみ、ません」
目があったのは至極真っ当な冷評の時だけで、その後は興味なさそうに目を逸らされた。
悔しいけど監督の言ってることは正しかった。
足掛け3年、俳優になってからというもの目ぼしい活躍はまだ遂げてない。
ぐ、と握り拳に力を込めながら、弱々しく一礼してすぐに踵を返した。
色んな演技を見た。練習もたくさんした。
いっぱいいっぱい努力をして、人の心を突き動かせるような俳優になりたいという一心でここまで頑張ってきたのに。
自分でもほとほと呆れるほど、本番に弱かった。
涙が溢れないように唇を噛み締めていると、防音ドアが重く開いて慌てて横に捌ける。
「佐野くん!お疲れ様〜!今日はよろしくね」
「よろしくお願いします」
監督の弾んだ声を皮切りに、その場の雰囲気が華やいだ。
次々にその人の周りには人が集まっていき、いつのまにかほとんど見えなくなってしまっている。
ひょい、と覗いた先に見えたのは、けぶるような睫毛の隙間からのぞく黒曜石のような瞳と艶のある黒髪、雪のように白い肌。
この人の名前は知っている、今最も活躍している若手俳優、佐野万次郎その人だった。
(あ、あいさつ、しなきゃ)
さすがに無名俳優が認知されているとも思えないから、邪魔にならない程度に挨拶して立ち去ろう。
人の隙間から聞こえるようにお疲れ様です、と声をかけた。
伏せられていた瞼がゆっくり上がり、視線が絡む。
たちまち心臓を握られているように身動きがとれなくなり、心臓が早鐘を打ち始めた。
本人にそんなつもりはないにしても、美しい形の双眸には妙な迫力がある。
オーラがあるってこういうことを言うんだ。
瞬きもせず見つめ続けていると、まるで初めから存在しないかのように目を逸らされた。
(は、え?無視?今無視された?)
愛想のかけらもないけどめざましい活躍で人に囲まれてる佐野万次郎、かたや存在を認識されているのかも怪しい無名俳優。
どちらが正義かと言えば、圧倒的に前者だった。
無視されたことに文句の一つも言えないまま、屈辱感に心を削られて逃げるようにその場を立ち去った。
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「今一番売れてるとかなんとか知らねー!!挨拶できないとか人として終わってるってマジで!!!!」
ガン、と音を立てて安い発泡酒の缶をテーブルに叩きつけると、眼前の男は呆れたように笑った。
「まあなー……、確かに挨拶できないのはいくら有名でもそれだけで価値下がるっつーか」
「千冬もそう思うだろ!?もう無理だ〜次会った時睨んじゃいそうで怖い。俳優生命終わる……」
「オマエ結構血の気多いよな」
今日は実に数ヶ月ぶりの宅飲みだった。
バリバリの武闘派ヤンキーだった千冬はペットショップに勤めながら、しっかり税金を納める大人の男に変貌していた。
お互いなかなか時間がとれず日々をがむしゃらに過ごしていたが、どうしても許せないことがあると愚痴を肴にして飲んだくれる。
今回の許せないことは、無論佐野万次郎だ。
「目があったのに!目すら合わなかったら諦めつくよ、芸能界ってそういうとこだもん。でも!目が!あったの!!に!!!」
「わかった、わかったからちょっとボリューム下げろよ、うるせーなあ」
「待って、今すごい傷付きやすくて繊細だからあんまり邪険に扱われるとやばい」
「うわ、めんどくさ」
「やめてほんと」
軽い応酬に涙を滲ませて、また発泡酒を呷る。
既に潰れた空き缶が乱雑に転がっており、酒の高揚感に浸りながらテーブルに突っ伏した。
「さのまんじろー、顔はいいんだよ顔は。むかつく」
「それただの嫉妬じゃん」
「うるせー!顔が良くて性格もよかったら何かちょっと……やだけど、顔がいいと性格の悪さが際立つんだよ!」
「ふーん」
千冬は生返事をして、携帯をスライドさせている。
真面目に取り合ってくれなくなった友人にも若干イライラしながら、唇を尖らせ空き缶を手で転がした。
「あ、でも佐野万次郎演技の評価めっちゃ高い」
「!そう、そうなんだよ。演技はほんとに上手いんだよ。なんでもこなすし、なんでも人並み外れてる」
まさしく鬼才というにふさわしかった。
俳優の端くれなら誰しも佐野万次郎の出演作品はチェックしている。
それくらい演技の幅が広く、空気感を作ることに長けていた。
技を盗みたい、そのカリスマ性をなんとかものしたい。
そう思いながら研究を続けているが一向に掴めないので多分天性のものなんだろうなあ、と諦めが過ぎってしまっている。
「佐野万次郎、演技うまいけど態度悪い、とかそんなん全然出てこねーよ。無視すんのオマエだけなんじゃね?」
「んなわけ!もしそうだとしたら、どんだけオレの顔が気に入らなかったんだよ」
ありえない話ではないのが怖い。
何故なら千冬の言う通り、佐野万次郎の評価は悪くないのだ。
愛想があるわけではないが、挨拶を無視するような人格であれば一瞬で干される。
芸能界はいくら才能があったとしてもコミュニケーション能力に乏しければ消えていく、そういう世界だった。
「うーん……ま、もし佐野万次郎に嫌われたんなら芸能生活お先真っ暗だな!」
「オマエ……面白がってない……?」
ケラケラと笑いながら酒を呷る千冬の頭にチョップをかます。
いてえ、と言いながらなお楽しそうな顔をする千冬に、ため息しか出なかった。
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東京某所、飲み屋街。
その一角で比較的小綺麗な服を身に纏い、例のドラマの打ち上げに参加していた。
「みんな、お疲れ様〜」
乾杯の声のあと、ジョッキに並々と注がれたビールを一気に呷る。
こんな時でも美味いものは美味い。
あの日叱咤されて出番もそこそこにすぐ家に帰らされたので、まさか打ち上げに呼ばれるとは思っていなかった。
この大人数だから、多分全員呼んでるんだろう。
先出しの揚げ出し豆腐をちびちび食べながら、ビールをひたすら飲んでるとあり得ないくらい囲まれてる人が目について、ついそちらに視線をやってしまった。
やっぱり、佐野万次郎だ。
眉を顰めつつバレないようにこっそり観察すると、信じられない光景を目の当たりにした。
あの無愛想大魔王が綺麗なかんばせを緩ませて談笑しているのだ。
(はあ〜〜〜?まじでオレだけに態度悪い!?媚び売る必要ない無名は無視ってか〜〜〜!?)
はらわたが煮えくりかえるように熱くなったので、急いでビールを胃に入れて気持ちを落ち着かせる。
なるほどそういうやつだったんだな、よくわかった。
俳優人生の中で密かに憧れていた男は、人を選んで媚びへつらうようなクソだせえやつでした!
一気にバカらしくなって、ジョッキでおかわりを繰り返してたら段々頭がぼうっとしてきた。
周りの人たちは監督に取り入ろうとしたり、はたまた大御所相手に名前を覚えてもらおうと躍起になっている。
オレは死体役だし、どうせそんなんしてもまたすぐ忘れられる。
名前を覚えてもらうのもいいが、実力が伴ってないと何も意味がないのだ。
いつのまにか両隣から人がいなくなり、歩きやすくなった空の座布団を千鳥足で踏みしめながらトイレに向かった。
用を足したらまた飲んで、一次会でこっそり抜けよう。
まあどうせオレなんか二次会の声かかんないだろーけど。
自虐に失笑し、ふらつきながら男性用トイレのドアを開けると、佐野万次郎が鏡の前で腕をついたまま項垂れていた。
一瞬面食らったが、頭で何か考えるより先に声をかけていた。
「さのしゃん、大丈夫れしゅか??」
あ、やべ。思った以上に呂律まわんねー。
なんだか可笑しくなってしまって笑いが込み上げてくる。
くふくふ笑っていると殺気のこもった視線を感じた。
「見てわかんねーの?消えろ」
地を這うような声だった。
人を殺せそうなほどの眼力で睨まれて、普段の自分であれば泣きそうになりながらすぐ逃げていた。
ただ、今はお酒が入ってる。無敵状態だ。なんなら佐野万次郎に死ぬほどムカついている。
気が付いたらここがトイレということを忘れて、あらん限りの怒号を飛ばしていた。
「なにさまのつもりなんれすか!?!?」
「……あ?」
佐野万次郎の瞳孔がめちゃめちゃに開いて猫みたいな目になってる。
やばい怒ってる。殺される。
頭の片隅でそれを理解していても、酒ブーストのかかった無敵タケミチは止まらなかった。
普段より緩い涙腺は簡単に刺激され、涙がボロボロとこぼれ落ちていく。
「あいさつ、むししたじゃないれすか!おれ、おれちゃんとあいさつしたのに、なんれれすか!!」
「は?知らねーよ。てかオマエいた?」
「いた!いました〜!!むか、ヒっ、むかつくう〜〜〜〜」
床に水溜まりができそうなほど落涙して、鼻水なんかは顎にまで到達している。
誰がどう見てもぐしゃぐしゃで汚い顔をしていたが、そのおかげか佐野万次郎の毒気は完全に抜かれていた。
「……オマエの目、何色?綺麗だね」
「は!?なに、ほめてもむししたことはぜったいにわすれないれすから!」
「あーはいはい。ごめんね」
「テキトーにあやまってんじゃねー!」
文句を言いつつも、褒められたことで怒りが少しずつ萎びていく。
オマエは単純バカだなぁ、なんて嬉しそうに笑う千冬の顔が脳裏によぎって頭の上を勢いよく払った。
「ふふ、やだった?」
「うん、やだ。おれ、さのまんじろーのかおはしゅきらけど、せーかくはきらいれす」
「あっそ、言うねオマエ」
「さっきからオマエオマエうっさい!オレにははながきたけみちっていう名前があるんらよ!あと、あいさつむしとかありえない。しゃかいじんとしてのまなーがなってないれす」
「興味ねーやつと言葉交わすのが面倒だもん」
「じゃあ、おれのこときょうみないってこと?むかつく!ちゃんとあいさつしろばか!」
「……じゃあこれからはちゃんと挨拶するね、タケミっち」
「えへへ、ぜったいれすよ〜」
あれ?なんでこんな話してんだろ?
まあいっか。もう眠い。
立ってるのもめんどくさくて、ふわふわ微睡みながら佐野万次郎にもたれかかる。
すぐ近くから聞こえる呼吸音が妙に落ち着いて、意識を手放すまでさほど時間はかからなかった。