旅のやくそくごと-2- 導入部分 船はセルフォード港へ無事着いた。
三日の船旅を経て海を渡り、リリナとクルツは地に降り立ち近くの港町であるセルフォードにて宿泊をし、波に揺られることのない熟睡を経て再び北へと向かう為に宿屋を発った。
晴れた、爽やかな風が髪を揺らす朝であった。
「では、お気を付けて!」
声に猫の三角耳を跳ね上げ、宿屋の扉の前で手を振る山猫獣人の宿屋『ネコネコ亭』マスターであるレフィシーを振り返るリリナ。
亜麻色の三つ編みが軽く揺れて、明るい笑顔で口を開き。
「はい!いってきまーす!」
「ええ、そちらもお元気で」
横に居る暗紺色の髪に目が隠れた垂れ耳の犬獣人、クルツが続けて返すように言葉を向ける。
「帰りにも立ち寄ってくれたまえよ、若人!新鮮な旅の物語はいつでも歓迎であるからね!」
レフィシーの横に居るウミネコの鳥人の吟遊詩人であるロルンツが軽やかに笑いながら言う。クルツは頷いて、荷物を背負い直す。
尾をゆるりと翻したクルツと、そしてリリナは足取りを弾ませて町の外へ、北の村はずれの方へと向かう。
「予定を軽くおさらいしよう。今居るセルフォードからベリック商会の馬車が隣町のベルグレイム行きで出るから、それに同乗。話はロルンツ氏がつけてくれたから、恐らく問題は無いと思う。ベルグレイムに着いたらそこで換金場と宿屋を探そう。セルフォードよりあっちの方が良い値で買い取ってくれるものが幾らかあるし、馬車での移動もそう時間は掛からないから余裕もありそうだ」
馬車での移動。
その言葉にリリナの耳がピクリと反応し耳が僅か低くなる。クルツはすかさず長い時間が掛からない事を自然に付け足し加える。
リリナは船に乗る前に、大きい方を失敗してしまった。言い出せず、そして出航の時間が切迫していたが為にどうにかできた可能性を潰してしまい、馬車の上で限界を迎えてしまった。
本来、安く速い船に乗る予定であった。資金にそう多くの余裕があるわけではない。結局乗ったのは船旅三日の十分に休息の取れる個室付きな船であり、意図せぬ大奮発になってしまったのは言うまでもない。今リリナの着ている服のハーフパンツに関しても、出費は掛かっている。
クルツは、リリナが深く傷付いており負い目に感じている事を感じ取っているが為に、出来る限りクルツは自身がした影でのフォローは隠していた。激高し罵ってきた、汚損した馬車の主への必死な謝罪も。清掃も、洗濯も、様々な支払いも、全てリリナの見えないところで行っていた。一方でリリナにも気を配るクルツの事は意識されており、この事故に関しては繊細な扱いがあった。
「そ、っか。うん……!」
短い言葉で頷くリリナ。
あの一件は互いの隠し事が要因となっていた。それを互いが分かっていたからこそ、この旅を繋ぎ留める言葉として約束を紡いだ。隠し事はしない、と。それは枷にしないように、互いが困らないように、絶対に言いたくない事は言わなくていいと。それでも、相談するという敷居を約束があるからという口実で納得できるように落とし込んだ。クルツはずるいひとだ、とリリナは思う。
その約束の際に、リリナは二か月の旅の中で育ち秘めていた想いを伝えた。その結果としてより互いの深く仲を育むことになったのではあるが、三日間の船旅がいささか過剰に進展し過ぎたものはあったのではないかという思いは、リリナとクルツ両者に存在してもいる。ぎこちない距離感はありつつも、突き放される心配はない、という距離感を知る機会となった。
町のはずれ。
後ろには港町が、そして前には緩やかな高低差のある丘。広い草原と池の二色が見える拓けた視界。
風の流れが草原の靡きにより見える、明るい朝の日差しが鮮やかに照らす。
「そう時間は掛からない筈だ。少し待とう。風も気持ちいいし、悪くない気候だ」
「うん、そうだね」
リリナは小さく息を吐いて微笑んで。
何も心配はなかった。クルツがしっかりと先導してくれている。その安心感が強くある。
リリナとクルツは同じ街に向かう目的があった。それぞれ別々の目的ではあったが時期を同じくし、出発の場所を同じものとした。
例の事件の際にはリリナは別々で向かう、もう迷惑を掛けたくないとクルツに伝えたが、それがそのまま通ってしまっていたのなら、辿り着かない旅となっていただろうことは明確だった。勿論、それをクルツがただ可哀想だから、などという気持ちで留めたのでもなく。
心配事のもう一つも、ない。トイレには出発前に行っておいた。暫くは大丈夫だろうと見ている。
昨日の事を思い起こす。美味しい魚料理とお酒と。その量を思うが特に出発前にクルツを待たせるような事もなく。
体調に悪いところもない。クルツもよく眠れたようだった。風に靡く髪、垂れ耳を思わず見とれるように眺めていたことに気付いてリリナは視線を背けてから顔を草原の方、遠くを眺めた。
軽い言葉の応酬と、くすりと笑うような思い出話。
クルツの昔のことや、リリナの考えていること。
二人の故郷の村の事など、弾む会話の中に緩やかな風が流れる。
ふと、リリナの尾と耳がぴくりとが跳ねた。
言葉を紡いで、その合間に。
尾の根元。その窄めた穴に浅い圧迫感。この感覚はよく知っていた。
ガスの小さな圧迫感。旅の間でも気付かれないように解消する機会は何度もあった感覚だった。
勿論、クルツの近くでする事は避け続けていた。特にすぐ近くに居る状況や、すぐ戻ってくるような状況では密かに耐え忍ぶ機会は多くあったのだ。
とはいえ、我慢出来ずに出してしまったことは二度、あった。
一度目ははある街に着いたばかりの時クルツがリリナに待つように言い、少しばかり街の案内を聞いてくるとその場から離れた時であった。
すぐに帰ってくるとは思わず、その場でガス抜きをした際に漂ってきた匂いに思わず少し待機場所を移そうか、とも考えた時にクルツが戻ってきたのである。明らかに、匂いに気付いた様子はあった。クルツは何も言わなかったが、それよりもリリナの動揺と、早く行くように促す様子が半ばクルツの気付きに確信を与えるものになった事は言うまでもなく。リリナは匂いを嗅がれてしまった事に酷く羞恥し、様々気を紛らわせようとしていた様子があった。
二度目は食事の席にて、音を立てて、してしまったことにある。
店内の席に座りメニューを眺め、店員に注文を行っての待ち時間。お腹の圧迫感、そしてその尻尾の根元の終着点の圧迫感に一度席を立ちトイレに向かおうとしたものの、丁度使用中。そしてなかなか出ない客の様子にしびれを切らし、クルツとの会話の合間、早く開放感を得ようとして身を捩じるように少しばかり体幹を左に傾けて尻の片側を浮かせて。少しの力を抜いて、ゆっくりと息を吸ってから吐き出す中で。
長く、緩い疑問符の付いたような音色。それは店内に十分にも聴こえたものだろう。慌てて尾を低く張り付けるように下ろし椅子に押し付けその空気の抜けた窄みを強く締めて。それでも、リリナはその音がなかったことにはできなかった。出来そうになかった。
あの音を立てるものが、他にあるだろうか。椅子を引いた際の音か、何か。何かという代替をリリナのみならず、店内の誰も、クルツでさえも浮かぶものはなく。
みるみる真っ赤になっていくリリナの耳の内側と薄い鼻先。再びメニューに手を伸ばして読み始める様子に、クルツも何も言えず。声を掛けるにしても店員や客に聴こえている上で何を取り繕って言えるものがあるのか、クルツにもどうにもできなかった場面があり。
クルツは料理が来て緩慢に会話の始点を作り、どうにか普通を装う事で精一杯で、それ以上触れる事はなかった。だが、嫌だった、信じられない、軽蔑した、と思われた訳ではないという様子を店を出た後に表そうとしていたことは、リリナにも伝わるものがあった。機嫌を直そうと、先程の事を忘れるように色々な思い出で塗り替えようとあれこれと考えてくれた。間違いなく、リリナにとってクルツに特別な思いを向けるに値する忘れられない事として、消えてしまいたいほど恥ずかしい思い出でありつつも表裏一体なものとして心に残っていたのだ。
二つの思い出が過る。
二か月の旅の中で危ない機会は何度かあったが、明確な失敗はその二回。
他の機会にもしかしたらバレていたかもしれないが、リリナには知る由もなく。
ただ、重要なのは今、してしまってもいいものかどうかという事で。
風向きは、問題無い。圧は、微妙だ。何となく少ししたいかな、という程度であるとリリナは考えた。堪えてもいいだろうと。
しかし、もうすぐ馬車に乗るとなればまた別だ。風はよく吹いているし、クルツの側からリリナの側に流れている。
リリナは半歩、少し足を開いて、会話の合間に息を少し吸って。
少し力を抜いた。
音は、なかった。が、
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