久しぶり。そう声が出た。
「あぁごめん、覚えているはずがないか。大学のときに同じコマの講義を受けていたから覚えていて。」
数年前と変わらない小柄な体と、ふわふわした赤髪。その人は柏崎由良に違いなかった。
「私は芝真。覚えてなんていないだろうからね、以後よろしく。」
混乱しているのだろうか、彼は小さく口を開いたまま何も言わない。にしてもそんなに驚かなくてもいいだろう、いや、人違いか?と私が思い始めたころ、やっと由良は自分の唇の端を中指で軽く撫で、目を丸くする。
「覚えてるに決まってるじゃないか!今や天文学の権威の君を忘れるなんて!」
「おや、そうかい?」
「27にして人類が抱えてきた天文についての疑問を次々解決する、新星だって言われてるでしょ?あれだけ広まってるのに、知らないの?」
新星?私が本当にそんな例えをされているのか、まずそれが誉め言葉なのかすらもわからない私を、由良は笑った。
「私は研究以外にあまり興味がないんだ。新星、スーパーノヴァ…ああ、そういえば君はこんなところで何を?まさか留年かい?」
「准教授。失礼だね。」
「あぁ、ごめんごめん。そうか。…もし今日夜暇ならご飯でもいかがかな?昔話に花を咲かせたいのはやまやまだが、ここの研究室にサンプルの鑑定を頼んであるんだ。それを取りに行かないといけなくてね…」
隕石の解析を頼んだのがC棟で、A棟には資料をいくつか借りに行って…と説明したところで、由良がぽかんとしているのに気づく。
「どうしたのかな、私の顔に何かついていたり?」
「…いや、僕がそっちの専攻でないのもあるだろうけど、規模が大きくてすごいなって」
そう言う彼は、はるか遠いものでも見るように笑う。何を言えば、何か…と戸惑っていると、私の背後から「あっ、ゆらせんせー!」とかわいらしい女の子の声が上がった。
「あぁ、ごめん。僕は今日家でやりたいことがあるから早上がりだし…あとで研究室に来てくれればいると思うから、芝くんが言ってたC棟の研究室のすぐ隣だし、午後まで適当に時間をつぶしててよ。」
それじゃあまたあとでね、と由良が私の横を通り抜ける。棘のない、人好きのする丸い香りがふわりと香ったけれど、振り返ったときには由良は生徒らしき子と仲良さげに話していたから呼び止めることもできなかった。心臓がきゅ、と鳴く。
さて、このあとはどうしようか。鞄に入った重たい資料とサンプルを抱えながら大学構内を歩くのは少々辛いものがあるし、だからといってそこらへんのコインロッカーに預けられるような安価な物でもない。時刻は11時29分。あと30分弱潰せばいいわけだから、構内のカフェにでも行ってみようか、と考えつく。荷物は重いが、まぁ無理なわけではないだろう。今は3階だから、とりあえず1階まで降りて、B棟に…やっぱり遠いな。
構内を歩くと、何人かに声をかけられた。芝さんですか、と知らない学生たちに言われるのは少し奇妙で、興味深い。3回に1回くらいの確率で違うよ、としょうもない嘘を一旦ついてみたりすると、皆一様に目を丸くするのだ。それは少し面白くて、でも私が一人の人間であるということよりも『天文学者の芝真』ということに反応している人の方が多いわけだから、母校でひとりぼっちという感覚が奇妙だった。知らない研究室の名前や元はなかったハクモクレンの木、クリーム色の古い壁から浮いた青白いペンキ塗りの壁。これからここを訪れるたびに知らないものが増えていくのかと考えると少し、なんというか、寂しくなる気がした。
学者たるもの懐古的であってはならない。
故きを温め、新しきを知るべきだ。
けれど、変わらずに笑う由良を見てしまったものだから。そう考えながらもたどり着いた学内のカフェも、木製だったはずのカフェの看板とドアが、冷たい金属とプラスチックのものに置き換えられていた。からんからん、と心地のいい鈴の音がする。
「いらっしゃいませ、1名様でよろしいですか?」
初老の男性が私に声をかける。頷いた私を席に案内した彼は、
「芝真くんで合っているかい?久しぶりだね、元気かな?」
そう笑った。
彼は私がここの学生だった頃から今までずっとこのカフェの店長を務めているらしく、よくここで課題を進める私を見ていた、と言う。おかげさまで、なんて社交辞令を彼に返すと、昔私がここで頼んでいたメニューと全く同じものを提案してきた。
海老ピラフにトマトスープ、蜂蜜が入ったレモネード。
そんなに見られていたのかと私が驚けば、彼は童話にでも出てきそうにほっほっほと笑って。私は懐かしさのままにその三つを頼む。グラスに入った水が一杯目の前に置かれ、それを飲みながら店内を軽く見渡した。
冷えた水が喉を過ぎる。変わらない店内にほっとする。心地いい空間だ。昔からそうだった気がしていた。静かすぎる空間もうるさい空間も嫌いな私の唯一の居場所。夏、冷房でよく冷えて寒いほどの部屋で、ブランケットに包まるような幸せがここにはあった。シーリングファンがゆるゆると回る天井も透明のビニルシートがテーブルクロス代わりにかけられた木製の机もひどく暖かくて、穏やかな時間が流れている。新品のようにつやつやなテーブルクロスなんかは実際何回も取り換えられているのだろうが、それも含めて好きだった。変わらない暖かさが幸せで、ここから進みたくなくなる。進む先が進化でも現状維持でも退化でも、絶対に進まなければならないと思い込むのが私の悪い癖だと、そう笑ったのは誰だったか。止まっていてもいいんじゃない、と笑ったのは…
「おまたせしました。こちら海老ピラフ、トマトスープ、レモネードです。」
顔を上げると、揺れたのは白髪交じりの黒髪ではなく柔らかな赤髪だった。
「由良」
「研究室にも近くにもいないんだもん、噂になってたし…ここ来たら案の定いたね」
「ごめん、そんな時間だったかな」
「全然12時ちょっと過ぎたぐらい?心配になったからさ、ここも結構変わったでしょ?迷ったかもなって」
指をくるくると動かす由良は私の反対側に座りながら言う。
「僕このあと一回家帰るけど…真も来る?」
「来る、って」
「うちにだけど。…何か?」
丸っこいシアンの目が私をじっと見る。なるほど、こういうわけで由良は人に好かれるのか、と思う。警戒心なんか一切なく、真に人畜無害な様子で人のパーソナルスペースに入るのが上手い。焦茶色のまつ毛がパタパタと揺れていた。
「由良は今どの辺りに?」
「ここのすぐ近くに住んでる。真は?」
「私の家は少し離れているけれど、電車で20分もかからないし…私も自分の家に戻ることにするよ。」
「暑くなってきたし、よければ冷たい飲み物でも出すから上がっていったら?」
ね、と私の方を見て笑い、自分で持ってきたお冷のグラスに口をつけて由良は言う。
「…あぁ、そうだね。お世話になろうか」
「決まり!ねぇところで最近どう?この前もニュースになってたでしょ。」
「そうなのかい?知らなかったな…」
研究関連だとしたら、おそらくうちの研究所が打ち立てた超新星e-1786の軌道予測の的中のことだろうか。この前の隕鉄の構造から元の星が爆発した年代を割り出した方の研究結果は上出来ではあったものの、昔から行われていたといえばそうだ、ニュースになるほどの物珍しさはない。
「すごいなぁ、僕と同じ講義取ってた人が今やこんな有名人になるなんて」
「君だって『准教授としてすごくいい働きを見せている』らしいじゃないか」
「なんか目線高めで言ってない?」
「…おや失礼、学長から聞いたことをそのまま言ったに過ぎなかったんだが」
「えっ、学長僕のこと褒めてたの…?ほぼ関わりないのに」
「あの人も人と話すのが好きだからねぇ、こっそり君の講義でも見にきていたんじゃないかとは思うけれど、どうだろう」
ピラフとスープを口に運びながらそんな話を交わす。店主の彼と私、そして由良。3人だけの緩やかな空気の中、私が食べ終わった頃にはすでに1時前になっていた。
「ご馳走様…さて、待たせてしまって申し訳ないね。」
「いいよ、ここのピラフ美味しいよね」
「ああ、言ってくれれば取り皿でも出してもらったのに」
「また今度来ようよ。さ、僕の家行こ」
店主に軽く感謝を伝え、会計をした後店外へ出る。廊下の空気は若干ぬるく、冷え切った研究所の実験室が恋しくなった。
「あー、きっと外は暑いんだろうなぁ」
「間違いないな。由良は暑いのは?」
「寒い方が苦手だけど、好きではないかな…だって暑いじゃん?」
「確かに…」