とば口にて 意外なことに、翌朝の玄蕃はけろりとした様子で朝餉の席にいた。
昨夜は酒をのみ大はしゃぎしていたのに、夜が明けると何ごともなかったようにふつうにしているのがおかしくて、それが、彼には妙に似合っていた。
玄蕃の前に置かれた膳はきれいに平らげられていて、おそらく米粒ひとつ残っていないようにみえる。
今は楊枝を使い歯を磨いていた。食った食った、とでも言っていそうな顔だ。玄蕃のとなりに座る弧次郎はもちろん、時行も未だ食事の途中であるから、彼はおそらく人よりも食べるのが早いのだ。
時行は、いつもよく噛んでゆっくり食べる。鎌倉にいたころ、物覚えがついたときに教わったことを、今もこうして守っている。
味噌汁をすすった。ほそく切ったゴボウとにんじんに、汁の味がよくしみている。鎌倉で飲んでいたものとは違った味わいだが、ひと口だけでもじわりとあたたまり、起き抜けの体をやさしく労わってくれる。今朝採れたばかりの食材を使っているのだと、炊きたての米をよそいながら雫が教えてくれた。
郎党たちはときおり会話を交えながら、のんびりと食事を楽しんでいた。いつもの朝の光景。そこにこの前まではいなかった玄蕃が加わって、新しいかたちを成している。
揚げ出し豆腐を口にすると、外側はさくさくとしているのに、中はとろりとやわらかい。美味しい、と思わず口もともほころんだ。
味わい、咀嚼する。咀嚼しながら、食事を口にする郎党たちをみる。
思えば、さまざまなことがあった数日間だった。
玄蕃とともに小笠原の館へ侵入し、帝の綸旨を探った。小笠原も市河も一筋縄ではいかず、時行は怪我を負ったが、玄蕃の技の数々のおかげで助けられ。結果的に綸旨を奪取することに成功し、諏訪の領地は奪われずにすんだ。
今回に限ったことではないが、それは時行だけでは成し遂げられない。頼重、雫、弧次郎、亜也子、諏訪で時行を支えてくれる人たち。そして、玄蕃。皆の顔を思い浮かべる。彼らがいてくれることが、何よりの力だ。ここにきてから、そう思うことが増えた。
自分ひとりでは遂げられないことも、人のたすけがあって遂げることができる。何をするにも、自分は人の思いや行動に支えられている。今さらだと言われようが至極当たり前のことであっても、それを心と身をもって時行は感じていたし、だからこそ今回郎党に玄蕃が加わったことがうれしい。
ちらりと目を向けると、玄蕃が弧次郎と話をしているのがみえた。
弧次郎が話しかけ、それに玄蕃がぽつぽつと返事をしている。
風間玄蕃。
心のうちで名前をつぶやいた。
玄蕃は不思議な男で、はじめは国ではなく金でいいのだと言った。時行が天下を取り戻せば、国を与えられて当然なのに、それをいらないのだと。
時行は震えた。なんて謙虚で、なんて無欲な人なのだろうと。
それは世間からすればややずれた受け止め方ではあるのかもしれないが、対面してすぐに玄蕃のことが気にいったのは本当のことだ。
玄蕃は、おもしろい。時行が知らない技の数々をもっていて、一緒に逃げることが楽しい。逃げることを何より得意とする時行にとって、ひとりではなく誰かとともに逃げることに楽しさを覚えたあの時間は高揚感にあふれたものだった。
逃げる時は一緒だ、と伝えたあの心に嘘はひとつもない。
天下を取り戻すこれからの道すじにはたくさんの困難があるだろうが、みんなで強くなって、みんなときっと頑張っていける。そんなふうにも思った。
考えにふけりながらも、箸は進み。やがて膳の上がきれいに皿だけになった。腹も程よく満たされて、時行は箸を置いた。
箸を置いたところで、ふと玄蕃と目が合う。まだ食べたりないのだろうか、なんて勝手な想像をして、ほほえましい気持ちになる。
時行が美味かった、と言うと雫がにっこりと笑った。亜也子と弧次郎もそれに続いて言葉を重ねる。
「私、雫のお味噌汁がいちばん好き」
「わかるわかる。本当美味いよなー」
雫はまた微笑んで、「ありがとう」と言った。世辞ではなく、雫のつくる食事は美味しい。雫の料理も、それを伝え合えるこの時間も、時行にとって諏訪にきてから大切になったもののひとつだ。
視線を感じたのは、書物整理をしているときだ。
定期的に書物の整理と保管場所の清掃が行われていて、蔵書をはこぶのが「長寿丸」としての時行の仕事だ。
初めてその仕事をしたのはまだ諏訪にきて間もないころで、あのときはたいそう重かった。なぜ自分が、という疑問があったのも大きい。あれから時間はさほど経っていないが、心もちが変わってさほど大変な仕事ではないと今は思う。
とはいってもなかなかの重さがあるのもそうだ。ひとつひとつはたいしたことはないはずだが、集まるとよくこんなにも存在を主張するものだ。両腕いっぱいに抱えた書物は、時行の腕では不十分だと訴えるかのようにずっしりとしていた。
加えて、重いものを抱えると腕だけではなく背中や、体全体に力が入る。
体に力が入ると、背中の傷が痛んだ。
傷は、市河の大太刀から玄蕃を庇ったときについたものだった。あまり大げさに痛がりたくないと時行は思って、それで平気なふりをしてすごしている。
つきりと痛んだが、声が出そうになるのを堪えた。誰がみているわけでもないが、痛みを表には出さないようにしたかった。
今日はやめておけばよかったか。そう思いもする。だが、巫女たちが運ぶにも大変な量だ。
——大丈夫ですか、若君様。あとはわたしたちがやっておきますから。
心配そうな巫女たちの顔を思いだす。
いや、なにを弱音を吐こうとしているのだろう。首をぶんぶんと横に振った。一度引き受けたからには頑張ろうと、心のうちで己を鼓舞して、一歩一歩足をすすめることに専念しようとする。
そんなときだ。背中に、なにかを、視線を感じたのは。
はじめはそれとわからず、違和感だけがあったが、これは誰かにみられているのだ、とやがて思い至った。
あたりを見回したが、それらしいものは見つけられない。
ちょうどこの辺には木が連なっていて、ゆるやかに吹く風が新緑のにおいを運んでくる。
さわさわと葉が揺れるだけで、時行には何の影も見つけることができない。
気のせいかもしれない。このときはそう思い直して、目の前の仕事に集中することにした。
翌朝、めずらしく雫が起こしにくる前に目が覚めた。
冬でもないのに、夜が冷えてよく寝つけなかった。昨晩もそうだ。もしかすると、ここは鎌倉にいたころよりも寒暖差があるのかもしれない。
身支度をととのえる前だったが、あたたかい朝日にふれたくなって、起きあがって寝間の戸へ手を伸ばす。かたん、と乾いた音とともに戸が開いた。
早朝の空気はまだ冷えていたが、体全体をつかって陽の光をまっすぐに浴びるのは気持ちがいい。
外に出ると、玄蕃がいた。
玄蕃は、時行をみるとはっとして口を開いて、そうして閉じた。
「おはよう、ゲンバ」
早起きだな、と声をかける。
「……坊」
玄蕃は朝はやい時間でも、狐面をつけてきっちりと着込んでいる。夜ねむるときもそうなのだろうか。
「なんだか、目が覚めてしまって」
寝つきがよくないことは伏せておいた。玄蕃はふうん、と言って目を細めた。
朝の玄蕃は、おとなしかった。
時行が話すのにときおり相づちを挟みながら、しずかに話に耳を傾けてくれる。それでいて、ふいに時行のことをじっとみていたりもした。まだ半分は夢のなかにいるのかもしれない。
素直なようすがくすぐったくもある。朝の諏訪大社を、いつもよりやわらかい玄蕃と話をしながら歩いた。
冷えた空気が朝日であたためられたのか、散歩をしたことで時行の体自身が熱をもったのか。目覚めたときの冷たさはもうない。
「酔ったときに服を脱いでいたのは趣味なのか」と訊くと、玄蕃が活き活きとして話しだしたので驚いた。潜入先での露出がどうとか、内容は時行にはわからないものばかりだったが、彼が熱心に話すさまをみていることにする。
朝餉のあとは頼重に学問をおしえてもらう。
頼重のもとへ向かう途中、またあの視線のようなものを感じたが、頼重はなにも気にしていないようだった。
今日のお題目は文学についてだ。短い言葉のなかに様々な思いが込められているのですよ、と歌集を手にして頼重がいくつかの歌をおしえてくれた。
「『ひさかたの 光のどけき 春の日に
静心なく 花の散るらむ』」
頼重がすらすらと歌をよみあげる。どういう歌なのでしょう、と言うと、同じ歌を再度よみあげてくれた。
「作者は、紀友則という方です。……やわらかい春の日差しの中を、桜の花びらが散っていく。美しさのなかに哀愁がある。光景が目に浮かぶような、見事な歌です」
そこから表現技法の話にもすこし触れた。枕詞からはじまり、掛詞、縁語、と続いていく。初回なので簡単に、という言葉を添えて。
頼重のおしえ方はわかりやすい。よどみなく、それでいて時行の目線にともに立って言葉を選んでくれる。
それでも、時行にとってはすべてを理解するにはむずかしいことも多い。
時行の眉間にうっすらと皺が寄っているのをみると、頼重は笑って、手に持っていた書物を置く。そうして、姿勢を正してまっすぐに時行をみる。
「いつか、時行様にも言の葉にしたためたいと思うような瞬間が訪れるかもしれません。……何もそれは歌でなくともよいのです。ただ、それを表す手段があることは、きっと貴方様の宝になる」
桜は咲いていないが、みずみずしい新緑の葉が風に乗って、ひらりひらりと窓のすきまから落ちてくる。
難しいことはわからなかったが、時行はそれをいいな、と感じた。
痛い、と思うと同時に目が覚めていた。
時行はほそく息を吐き出す。まだ夜中だろう。
ひとりで眠るには大きな寝間の中は、夜の青く冷えた気配がした。
満月が近いから、月灯りがこぼれてきていて、すこしだけ室内に差し込んでいる。それでも暗闇はなお深く、夜が明けるまでにまだまだかかりそうだった。
夜のしじまに、時行の背中の傷だけがぽつんと浮かんでいるようだ。
昼間は平気だったのに、いまはつめたくて、じくじくと痛い。布団を深く被りなおしたが、痛みもつめたさも消えてはくれなかった。
夜半に目が覚めて困るのは、どうしようもなくひとりであることだ。
わたしはひとりだ。
かた、とちいさく音がきこえた。
耳をすましていても聞き逃してしまうような本当にちいさな音。
音のほうをみる間もなく、時行の頬にあたたかいものがふれる。目を開けると、月明かりにしろく狐の面が浮かんでいた。
「ゲンバ……?」
思いのほか頼りない声が出た。
布団の隣に片膝をたてて玄蕃がしゃがんで、温度をたしかめるように時行の頬にふれている。玄蕃の手のひらは、手套越しでもあたたかかった。
「痛むのか」と低い声が言う。時行はゆっくり「いたくないよ」と返して、ふう、ふう、と息を吐いた。
狐面の奥から覗く瞳がじ、と時行をみている。
玄蕃はときどきこういう目をする。
探るような、それでいて奥底でなにか推し量っているような。玄蕃の心の内はみえないのに、時行に向けられる瞳はあまりにも透明で。その瞳のあり方は、彼の本質のひとつであるようにも思えた。
「……傷は、そんなに酷くないんだ」
玄蕃は気がついている。時行が隠せていると思っていた痛みのことを。
玄蕃がきてくれてから、時行の頬にふれてから、あのつめたさと痛みが引いたのがわかる。完全にではないが、それよりも玄蕃の手のひらがあたたかくて、不思議といまは平気だった。
「馬鹿。いいから寝ていろ」
頬にふれているのとは反対の手で、ずれた布団をなおしてくれる。表面はとがっていて硬質だが、玄蕃の言葉はやさしい温度をしている。
「うん」
玄蕃の手のひらが離れようとするので、「駄目だ」と言って手をつかんだ。
あたたかい手。
「まだこうしていてほしい」
「…………」
「安心するんだ」
それから、時行が寝入るまで玄蕃は黙ってそばにいた。あれほど寝つけなかったのに、気がついたら時行はぐっすりとねむりに落ちていた。
目が覚めると、玄蕃はいなかった。
きらきらとした朝日がまぶしい。ぼうっとしていると、やがて雫がやってきた。
「おはようございます。兄様」
夢ごこちな時行にすこし笑って、雫はいつものように髪を梳いてくれた。手慣れた手つきで、この上なくていねいに。
「すこし安心しました」
「え?」
「兄様、ここのところあまりねむれていないようだったから」
ばれていた。
「心配をかけてすまない」
「今日はちゃんとねむれた顔してる」
よかった、と雫は言う。
一定の律動をもってうごく櫛は気持ちがいい。
玄蕃のおかげだ、と言おうとして、やめた。
朝の時間はおだやかにすぎていく。
玄蕃をみつけたのは、太陽が空のてっぺんにまでのぼったころ。
人気がない部屋のにすみっこに座りこんでいるのを、時行は後ろからのぞきこんだ。玄蕃は見慣れないものを床にたくさんならべて、つぶしたり、丸めたり、書いたり、入れたりしている。
「それは何をつくっているんだ」
玄蕃の肩ごしに、手もとをみる。玄蕃は気にしないようすで、「花火みたいなやつ」と答えた。
何をしているのか、ただみているだけの時行には何もわからない。それでも、見慣れないものがならぶさまは十分に楽しい。
「玄蕃は器用だな」
素直に感想を口にすると、玄蕃はあまり興味のないようすで「あまり見るな」とだけ言った。
だから、時行はそっと玄蕃の手や、うしろからみえる耳の形をみた。手作業をするときも、手には手套をしっかりとはめていた。
窓からさしこむ光と、光を反射する木目。黙々と作業を進める手もとから、ちいさな無機物の音だけが鳴っている。
早朝に出会ったときもそうだった。玄蕃は、時行とふたりのとき、すこしだけ静かな空気のなかにいる。
筒のなかに作ったものを流し入れて蓋をする。玄蕃は同じことをいくつか繰りかえした。
「朝餉のときもいなかったから、探したんだ」
作業がひと段落したころを見計らって、声をかけた。近いうちに、彼の道具についておしえてもらおう、と心のなかで思いながら。
「お礼を言いたかったのに」
「……寝坊したんだよ」
目をそらすのがわかりやすい。いつもまっすぐにみてくるから、余計にそう思う。
玄蕃のそっけなさや、不器用さ。それが時行の心をあたためる。
夜がくることがたのしみなのは、嬉しいことなのかもしれない。
密度を増していく闇に、音もなく月あかりが差している。遠くで、虫が鳴くのがきこえた。布団のうえで上半身だけ起こして、耳をすませる。
肌寒さはあるが、痛みも心細くなるようなつめたさも今はない。
かた、と音がきこえる。本当であれば音もなく忍びこむことができるだろうに、そうしないのだなと思う。
遠くからじっとみていた玄蕃がこうして夜に時行の前に現れてくれるようになってから、三日になる。
「ほら、玄蕃。ここ」
布団をめくって、ぽんぽんとたたく。
「寒いんだ、はやく」
玄蕃が顔だけはたいそう嫌そうに布団のなかへ入ってきた。この前みかけた、やわらかい猫みたいな動き。
「はあ……」
「ふふ、あたたかい」
玄蕃のため息と、時行のうれしそうな声。
からだじゅう温度が高いから、体をよせると時行まであたたかい。
熱いほどではなくて、触れるとほのかにわかるくらいの熱だ。玄蕃のもつやさしさの形に似ている。
玄蕃がいてくれると、つめたさも痛さもまるでなかったかのように感じなくなるような気がした。そもそも、それほど酷い傷ではないのだ。
だから、どうしてそれがこんなに時行を苦しめるのかもわからなかった。疲れていたのかもしれない。さみしかったのかもしれない。自分のことすらはっきりと理解することは難しい。
「今日は痛くないのか」
じとりとした目。大丈夫だ、と笑顔を返してやる。
「大丈夫だけど、玄蕃にさすってもらったら、もっとよくなるかもしれない」
あのな……と玄蕃が呆れ顔をみせた。
玄蕃がいいんだ、と言うとまたため息がきこえて、するりと玄蕃の手が背中へまわる。
玄蕃のあたたかい手が背中をなでる。傷口を、いたわるように、これ以上傷をつけないように、そうっとなでる。
おしゃべりをしようと思っていたのに、それだけでひどく満足して眠くなってしまった。
「ゲンバって寝相悪くないんスか」
のんでいた白湯を吹きだすところだった。
「な、ななななな」
「はは。おもしれー顔になってますよ、若」
屈託のない顔で弧次郎が笑う。
こういうさっぱりしたところが弧次郎の魅力だが、今の時行はそれどころではなかった。
玄蕃は眠りが浅く、いつも日がのぼるころには出ていく。雫や頼重がやってくるよりもはやい時間だから、誰も知らないものだとばかり。
玄蕃とねむることは気に入っているが、それを改めて口にされると、こうもいたたまれない心地になるのか、と時行は思う。
「別に悪いことしてるんじゃないから隠す必要ないっスよ」
「そ、そうか……。そうか……」
で、寝相は? と訊いてくる弧次郎に、長く息を吐いてから秘密だ、とだけ答えた。
傷はもうすっかりよくなった。
あの日感じた苦しみはもう何もない。にもかかわらず、今も時行と玄蕃はともにねむる。
散々おしゃべりをして、背中をなでてもらう。これをするとすっかり安心するようになった。
新月の夜だった。
月明かりが届かない、暗くしずかな夜。
暗闇のなか、手さぐりで玄蕃の手をたどり、そっと手を重ねた。遮るものがない手のひら。指先がすこし荒れていて、ささくれだっている。
「どうして、ゲンバは私と共寝してくれるんだろう」
ささくれをなでながら、言葉が口をついて出た。
月がみえないから、玄蕃の姿がうまくみえないから。そんな理由づけはただただ幼稚であると知っている。
数秒間をおいて、玄蕃が「はあ?」と言った。
「あれだけ人を誑かしといて、よく言う」
「誑かしてなんて……。ただ、ゲンバがやさしかっただけだろう」
「……お前がそう思いたいのなら、そうすればいい」
暗闇のむこうで、絹ずれの音がする。しゅるしゅる、かたん。
玄蕃が近づいてくるのが、気配でわかった。
「ん」
時行の手をとって、玄蕃の手が彼の顔のほうに導く。何かにふれる。狐の面の冷えた感触ではなくて、人の肌の、生きている温度だ。
明かりがなく、近づいてもお互いの顔はみえなかった。だから両方の手のひらをつかって玄蕃の顔をさわった。
まずはたしかめるように頬。それから顎下。くちびる。鼻下。鼻すじ。瞼。まつ毛。まゆ毛。眉間をなでて、額。ひとつひとつ、時間をかけてゆっくりとなぞった。もう一周して、前髪もさわる。
目でみなくとも、手でふれて形を確かめるのは不思議な高揚感があった。みえないのに、暗闇から玄蕃が時行をみているのがわかる。玄蕃は何も言わなかった。時行も同じようにする。時行の指に玄蕃の熱い息がかかる。玄蕃の顔の熱なのか、時行の手のひらが熱いのか、わからなくなった。
きれいな肌をしていた。かさついたくちびると、やわらかいまつ毛。頬の温度。ひとつひとつたしかめるごとに、頭からつま先まで玄蕃でいっぱいになった。
「触りすぎだ」
自分でやらせたことなのに、やられっぱなしは気に食わない、と玄蕃にも同じことをされて。
逃げることはできたが、玄蕃の好きなようにしてほしかったから、そのまま黙って手のひらの温度を感じていた。
そうして最後はゆっくり背中をなでてもらって、もう傷はないそこをなでてもらって、ねむった。
夜はまだ深く、あたたかい暗闇に包まれている。
きっとまだ言葉にはできないのだろう。ぼんやりといつかの学びの時間を思い出して、時行は玄蕃の肩に頬を寄せた。