解き放つ 間に合った、まだ叔父は部屋にいて、古いスーツケースを片手に窓辺に立っている。今にも飛び立ちそうに羽を広げて、開け放った窓の外から強い風が吹き付け、無造作に伸ばしている黒髪をさらに乱す。空はずいぶんと青い。
「待ってください!」
叔父が振り向くと、乱れた前髪の間から、かつてないほどに楽しそうな瞳がのぞく。
「よお、行ってくるよ、ナルニアちゃん」
「どこへ?」
「決まってないけど、風に乗っていく」
高らかに歌うような声だった。
「いつ帰るんですか?」
それには答えがなかった。
叔父は、カルエゴが着任するとすぐにお役御免とばかりに辞表を出した。もうずいぶん前から書かれていたらしいその紙は、すでに色褪せていたと聞く。旅立つ日を待ちわびていたのだろう。
悪魔学校バビルスを守る番犬としての役割を最後まで全うした叔父は「やったぜ憧れの隠居生活」と高笑いしながら、今まさに出て行こうとしている。この家から、ナベリウスから、私から離れて。
「これからどうするんです、予定は?」
食い下がった。まだ思いを伝えてすらいないのに。
「予定? 決まってねえけど、きっとずっとよろしくやってるよ」
実に叔父らしい答えだ。どこで何をするかは決まっていなくても、きっとずっと魔界のどこかで口笛を吹くか煙草をふかすかして、よろしく生きていくのだろう。
抱きしめて引き留めたかったけれど、それだけの力がないことはよくわかっていた。
「元気でな」
そう言って風に向かって踏み出そうとする背中に、「待って」というのが精一杯。
叔父はもう一度振り返ってくれた。風に煽られて、黒い翼が燃え上がる炎のようにうねる。
何かを言わなくてはならないこの瞬間に、自分でも思いがけない言葉が出た。
「叔父上もずっと、辛かったのですか。強くて」
叔父の黒い瞳が一瞬、強烈な光を放って、瞬きをした後にはもうこちらに背中を向けていた。
「お前の唯一の欠点は、俺を過大評価しているとこだと思うぜ」
こちらに顔を向けずに手を振ると、あの悪魔は本当に風に身を任せて滑り出すように窓の外へと飛び立ってしまった。
あっけないほどのお別れだった。しかし、あの悪魔らしい。
執着も礼節もあの悪魔にはない。ただ自由だけがあの悪魔の恋人で、その恋人に勝つにはまだ自分には何もかも足りないのだろう。
もっと強くならねばと思った。
いつかあの悪魔が帰ってきた時に、強く抱きしめて離さぬような強い悪魔に。誰よりも強い悪魔になった時、あの背中を今度こそ。
窓辺に立つと、空の青さに目を細める。
あの日もこんな青い空だった。
*******
もうずいぶん歩いてきたつもりだったのに、少し振り返ると、黒煙はまだそれほど遠くない場所にある。爽やかな青い空とは正反対の禍々しい煙。
羽出しすらできない小さな弟は、もう疲れ切ってしまって、それでも私の手を掴んだままよろよろしながらなんとかついてきた。
突然身に降りかかった困難を、この小さな体で受け止めて耐えている。こんなに幼くてもこの子もまた、間違いなくナベリウスの悪魔だ。
私の羽がもっと強ければ、弟を抱えたまま家まで飛べるのに。今の翼力では弟を抱えたまま長距離は飛べない。私の魔力がもっとあれば、フラクタルで弟を連れて帰ることもできるのに。
「おいで、兄さんの背中に」
そう言って弟の前にしゃがむと、弟は素直に体を預けてきた。
「大丈夫、大丈夫だ」
自分に言い聞かせるように言葉にしてから、弟を背負ったまま再び歩き出す、我が家に向かって。
私と小さな弟を載せた車は、谷を越えるその時、墜落した。
運転手は年老いた使用人で、突然胸を押さえながらハンドルに倒れ込むように気を失い、そのまま制御を失った車は谷底へ落ちた。衝撃を受ける寸前に弟を抱えて窓から飛び出すのがやっとだった。黒煙をあげる車の中で、運転手はぴくりとも動かない。
大人はいない。
私が、弟を助けなければ。運転手を置いていくのは苦しかったけれど、優先順位は大切な弟にある。
強い決意の前に、現実は容赦なく立ち塞がる。
車から飛び出した時にくじいたのか、一歩進むごとに足首に鈍い痛みが響く。弟を背負ってからはその痛みもますます強くなったけれど、それを悟られてはいけなかった。弟は自分よりもずっと小さく無力なのだから。
このまま日が暮れれば、この谷で夜を明かさないとならないかもしれない。この辺は、夜行性の魔獣も出るはずだ。だからこそ両親は安全のために車を用意してくれたのだ。
ぞくりと恐怖に飲まれそうになる。
大丈夫、きっともうすぐ谷を抜ける、夜にはきっと家に着く。
同年齢の中では強いという自負がある。鍛錬も怠ってはいない。しかし、これほどの危機に一人で立ち向かった経験はない。
「大丈夫、大丈夫だよ」
それは弟だけではなく自分への言葉でもあった。
日が沈みかけて、ただでさえ陰になる谷はさらに寒く薄暗くなる。どれほど押し留めようとしても、腹の底から不安と恐怖が湧き上がってくる。
弟はいつのまにか背中で寝てしまった。
「大丈夫、大丈夫」
何度もそう言い聞かせながら歩みを進めた。
負けてはいけない、私はナベリウスの男で、強いのだから。
すっかり日が暮れてから、屋敷の近くまで戻るともう遠くからわかるほどの大騒動で、上空からこちらの姿をみつけたSDが泣き叫ぶように降りてきた。
「ナルニア様! カルエゴ様!よくご無事で!」
その大声に目を覚ましたカルエゴは、すぐに抱き抱えられた。
「ご無事でしたか? お怪我は?」
「大丈夫」
咄嗟にそう答えてしまった。何度も何度も口にしていた言葉だから。
「さすがです、ナルニア様」
SDも、使用人も、両親までもわたしを褒めた。
「弟を助けて一人であの谷を? なんて強い」
「本当に強い、まさにナベリウスの血だ、立派だ」
口々に与えられる賞賛の前に胸のうちに固いしこりができたように苦しくなる。目を覚ました弟は、母の腕に抱かれると少しだけ涙をながした。ここまでこらえていたのだろう。
その涙を見て、この小さな弟を守り切れた安堵と自信が胸に満ち、同時に息苦しさも増した。
「よお、ちびのくせに頑張ったな」
突然の失礼な物言いの方を見ると、叔父がいる。ふしだらで軽薄でいいかげんで、我が一族の突然変異と呼ばれている。めったに屋敷に寄り付かないのに、どうしたのだろうかと黙って見上げていると「運転手の爺さんさあ、心臓の病気もちだったんだよ。今医者から連絡が入って、治癒魔法が効いて命は助かったってよ」と言う。
「……よかったです」
心底ほっとした。死んでいるかと思って誰にも聞けなかったことに、想像以上の回答が与えられた。
叔父はそのまま私のそばにしゃがみこむと、わたしの頭の上から靴の先まで眺めまわす。
「足、しんどいだろ」
どう答えていいか分からずに黙って叔父を見返していると、叔父は「くじいたか? その足でよく頑張ったよ」と続けた。
急に、胸の奥から大波のように寂しさが押し寄せて、さっきまでの不安な気持ちが蘇る。
使用人も両親も、事故の後始末と泣いているカルエゴの相手に忙しくしているなか、叔父は「来いよ」と小さく言って、邸内の私の部屋まで移動して、すぐに靴を脱がせてくれた。
「腫れてるな、運転手の爺さんの処置が終わったらこっちに来るように医者に言っとく」
叔父にこんなに丁寧に扱われた記憶がなく、居心地の悪さを感じながらうなずいた。
胸の中の感情は黒煙をあげながらくすぶって、正体が知れない。
気付くと、叔父は私の頭を撫でていた。
「強いと、しんどいよな」
その言葉が耳から心に達すると、静かな湖面が波立つように寂しさが溢れ、涙になって流れ落ちた。
「強いと辛くても弱音をはけないし、泣けないし、よく頑張ったよ」
言葉にできなかった心のうちは、叔父の口を通して語られて、私は自分の気持ちを叔父の声で聴きながら、ただ涙を流せば良かった。
叔父があの言葉を言えたのは、きっと叔父自身も強くて苦しかったからに違いないと思えたのは随分と先の話だった。
*******
視界の先で、叔父の姿は見る間に小さくなる。
これまでも自由に生きているように思えたけれど、それすらも思い違いだったようで、しがらみと使命から解き放たれたあの悪魔は文字通り羽根を伸ばして飛び立っていってしまう。
このまま置いて行かれるかと思っていたその瞬間、あの悪魔はふいに振り帰り「もう一つあったよ、お前の欠点!」と叫んだ。
「大丈夫じゃないときに大丈夫って言うのもお前の欠点だったわ、直しとけよ、次に会うまでにはな!」
その最後の言葉だけが、唯一与えられた約束だった。
叔父の姿は、あっという間に光の粒よりも小さくなり、すぐに青空に消えていった。