哀しいほどに綺麗で、はしたないくらいに清廉潔白で、溶けるほどに甘い「……?」
彗は川の近くの草むらでまばたきを繰り返していた。川の流れる音と青々とした草のざわめく音以外何も聞こえない。
「ここは……」
額に手を当てる。
考える気力すらなく、所々汚れたシャツに登る蟻を見つめていた。
彗は草むらの中で目を覚ました。
風と流れてゆく川と共に身を任せていた。さっきまで何をしていたんだっけ…自分の名前や一般常識以外何もかも忘れてしまっていた。
それもそのはずだ。医者は「記憶喪失」と告げた。名前や一般常識を除いて、すべてが霧のように失われたのだ、と。
「センパイ」
「…?」
またぼんやりとしていた。
焦点の合わない目で初夏の庭を見ていた。
先程雨が降ったようで、庭の緑や開花寸前の花は濡れている。
彗は振り返って声の主を一瞥する。
白いワイシャツを着た蓮月が隣に正座している。陽の光を反射する銀髪に穏やかな翠眼は奥ゆかしげに一点を見つめている。
「疲れ、取れないでしょう。早めに夕食になさいます?」
「いいえ、大丈夫です」
「体調が優れないんですか?」
「そういうわけでは……」
そう言ってまた庭の咲きかけの薔薇を見つめた。風鈴が鳴る。この家は昼だというのに薄暗かった。
彗が記憶喪失と診断されてもう三日が経過した。
自分の妹や親戚と名乗る人たちは「無理して思い出す必要はない」「思い出せなくてもきっと上手くやっていける」と慰めるが、その言葉はどこか含みがあった。
このまま職務につくのはあまり思わしくないとのことで養生していた。奇しくも自身の恋人と名乗る吸血鬼の家で。
「お茶でも入れますか?それとももうお休みになった方が」
「本当に大丈夫です。お気になさらず」
「無理はなさらないでくださいね」と蓮月は立ち上がった。どこか燻ぶる紅茶の香りが漂う。彼の透き通るような肌は、庭の木陰と溶け合って儚げだった。伏せたまつ毛が影を落とす。
「あの」
「どうされました?」
「あなたと私、交際しているとおっしゃいましたよね。どうしてそんな関係になったのでしょう。正直、全く見当がつかないのですが」
蓮月は一瞬きょとんとした後、穏やかに微笑んだ
「オレが一方的に好きなだけですよ。付き合えたのは……センパイの気分、ってやつだと思います」
「気分……」
驚いた。自分がそんな軽い気持ちで吸血鬼と交際していたのかと。よくもまあそれで長続きしたものだ、とどこか他人事のように思うなどしていた。
「私が言えた義理ではないのですが、仮にも交際しているのならばお互い対等であるべきだと思うのです。前の私がどうだったかは覚えていないのですが……」
蓮月はキョトンとした。
以前の彗は別れたいとも言わなかったが、労いや思いやる言葉をかけてくれたことも全くなかった。本当に記憶がなくなってしまったんだなと改めて思い知らされる。
「センパイがそうおっしゃるなら、そうかもしれませんね」
蓮月の瞳はどこまでも静かで、底知れない湖のようだった。彼の口ぶりには愛情が滲んでいたが、それ以上の感情を悟ることはできなかった。
夏の空気は重く、蝉の声が耳を突き刺すように響く。微かな風とともに氷が麦茶の中で音を立てる。
「お前、本当に記憶がないのか」
晴方は訝しげな顔で口を開いた。
微妙な空気の中、2人はテーブルに向かい合って座っている。彗が記憶を失って以来はじめての対面である。
「俺のことも覚えてねえんだろ」
「そうですね。……でもあなたのことは少しお聞きしました。契約?なさっていたとか」
「今も続いてるけどな」
「契約のシステムがいまいちわからないのですが、お互い信頼関係があったということですよね」
「少なくともお前はそうは思ってなかっただろうよ」
「なぜ?」
「なぜもなにも、吸血鬼全般嫌いなんだろ。態度悪いしすぐキレるしよ」
嫌い……そうぼやいて彗は僅かに俯いた。何度も頭の中で反芻する。
なぜ、吸血鬼を嫌っていたのだろう。
確かに母親には、昔から吸血鬼とはなるべく関わらないようにと口酸っぱく言われてきた。
しかし、どのような相手にもあからさまに態度を変えるようなことをを良しとしないくらいには、常識があるつもりだ。
記憶を失う前に何かあったのだろうか……
「私、吸血鬼のことをそんなに嫌っていたのですか?」
「そこからかよ。お前は『そんなことないです〜』みたいな雰囲気醸し出していたけど態度にもろ出てたぞ。暴力も日常茶飯事」
「そんな、人格破綻者みたいなこと」
「本当に覚えてねえんだな…」
「すみません」
「いや謝んなって」
萎縮して謝罪の言葉を述べた。どうやら演技ではなく心の底から申し訳ないと思っているそうだ。
晴方はまるであたかも自分がいじめているかのような居心地の悪さを覚えた。
耳に障るような蝉の声、微かな風音と麦茶の氷の溶ける音が間を繕う。耳に障る蝉の声だけが、夏の静寂をかき乱していた。
「まあいいけど血、最近飲んでないから飲ませてほしいんだけど」
「ああ、飲まないと死ぬんでしたっけ」
「そーそー。しかも俺はお前のしか飲めないの。契約したから」
「それは……お気の毒に」
「……」
蒸し暑さで目が覚めて、時計を見れば十一時。
随分というか寝過ぎたと思う。
窓の向こうを見る。蝉の声と青々とした草木の匂い。穏やかな緑の朝だ。バルコニーには鉢植えのラベンダーがのびのびと風に揺れている。
「……」
風が止む。
昨日、何時に寝たかさえ覚えていないがまだ少し眠い。それでも人の家でこれ以上惰眠を貪るわけにもいかないので無理やり起き上がる。
サイドテーブルの灰皿を手繰り寄せ、ライターに火をつけ、煙草に灯す。
「お目覚めですか」
「ア、はい」
「おはようございます」
「ああ…すみません。こんな昼前まで」
「お疲れですから、仕方ないですよ」
煙を吐く。
煙は朝の光のおかげでほとんど可視化されなかった。窓を開けても風は吹かないので自分の周りを留まっている。窓の縁と陽炎のふちをぼんやりと眺める。
「以前も……私は朝が弱かったのでしょうか」
「フフ、そうですよ。でも大丈夫です。ご希望でしたらオレが起こします」
「いや…これ以上負担にさせるわけには」
「もう、野暮ですね。センパイの為になるための雑用や仕事だったら、幾らでも増やしてほしいくらいです」
余程好かれていたものだと他人事のように感心していた。早く記憶が戻ればいいのだが……。思い立ったかのようにこちらを向けばローズグレイの髪はサラサラと揺れた。そしてまなじりを下げ、
「もう昼前ですが……お腹が空いたでしょう。下で朝ごはんにしましょう」と言い早速煙草の火を消し、連れ立って部屋を出た。洗顔をして歯を磨き、食事をとる。
庭に漂う薔薇の香りが、静けさの中にわずかな甘さを添えていた。彗はいつものように、咲きかけの薔薇を眺めている。風鈴がかすかに鳴るたび、庭の空気が揺れ動くようだった。
蓮月がそっと隣に立ち、柔らかく問いかけた。
「センパイは、薔薇がお好きなんですか?」
その言葉に、彗は一瞬だけ蓮月の顔を見た。翠の瞳は静かに彼を映し出している。しかし、彗の答えは蓮月の期待を裏切るものだった。
「いいえ、嫌いです」
蓮月の瞳がわずかに揺れるのを彗は見逃さなかった。しかし彼自身も、なぜそう答えたのか分からなかった。ただその言葉は、無意識に口をついて出たのだ。
「どうしてですか?」
蓮月は微笑みを崩さない。
「……わかりません。ただ、見ていると胸がざわつくんです。落ち着かないというか……不快といいますか、……」
彗の視線は薔薇から離れず、どこか遠くを見るようだった。その横顔に蓮月はしばらく目を留めていたが、やがて静かに問いを重ねた。
「もしかすると、記憶に何か関係があるのかもしれませんね」
彗はその言葉に返事をしなかった。ただ風に揺れる薔薇の茎を目で追いながら、自分の中に生じる不快感の正体を探ろうとした。
その夜、彗は夢を見た。
暗闇の中、誰かが泣いている。低いすすり泣きが耳に響くが、姿は見えない。足元には散らばる薔薇の花びら。血のように赤く、しなびて乾いた香りが鼻を突く。
彗はその場を離れようとするが、足が動かない。気がつくと、自分の手にも薔薇が握られていた。棘が皮膚を刺し、じわりと血が滲む。
「……やめてください」
誰に向けた言葉か分からない。彗がそう呟くと、闇の中から声が返ってきた。
「なぜ?あなたが望んだことでしょう」
その声は冷たく、どこか自分のものに似ていたが、微妙に異なる響きを持っていた。彗は答えられず、ただ薔薇を握りしめる手を見つめた。手は血に染っていた。
翌朝、彗はいつものように目を覚ました。記憶のない日々に慣れてきたとはいえ、胸の中に残る夢の余韻が彼を苛んでいた。
蓮月が紅茶を淹れながら声をかける。
「センパイ、昨夜はよく眠れましたか?」
彗は曖昧に頷いたが、視線は庭の薔薇に向かっていた。
「……嫌いなのに、気になってしまうんです」
蓮月はその言葉にわずかに眉をひそめたが、すぐに笑みを浮かべた。
「嫌いなものほど、心に引っかかるものですよね。それもまた、魅力なのかもしれません」
その言葉を聞いて、彗は自分の胸にあるざわめきの正体が、単なる嫌悪ではないのではないかと考え始めた。
「以前の私も、あなたに同じような思いを抱いていたのでしょうか」
彗は庭の薔薇を見つめながら静かに呟いた。その声には、自分でも気づかないわずかな迷いが含まれていた。
隣に立つ蓮月は、彗の横顔をそっと見つめる。その瞳には、穏やかな笑みとも、何かを隠したような影とも取れる感情が浮かんでいた。
「そうだとしたら、オレとしては嬉しい限りです」
蓮月は一歩、彗に近づいた。風がふたりの間を通り抜け、薔薇の香りがさらに濃く漂う。
「記憶を失う前のセンパイは、よくこの庭に立っていました。何を考えているのか、いつも分からなかったけれど……きっと、何か大切なことを抱えていたんでしょうね」
彗は目を伏せた。心の奥に、微かに疼く感覚がある。それが何なのか分からない。ただ、それが蓮月に向けた感情に繋がっているような気がしてならなかった。
「私が何を考えていたか……あなたには分かりませんか?」
彗の問いに、蓮月は少しだけ視線を落とした。いつもの余裕のある表情はそのままだが、その答えを言葉にするまでに間があった。
「分かりません。……けれど、センパイの視線が薔薇に向けられるたび、どこか遠くに行ってしまうような気がして、少し怖かったのは覚えています」
蓮月の言葉は静かだったが、その声音には微かな震えが混じっていた。彗はそれに気づきながらも、視線を庭の薔薇に向けたまま答えなかった。湿った風が吹き抜け、草木の香りが鼻腔をくすぐる。
「怖かった」と言った蓮月の言葉が耳に残り、彗は無意識に胸元を押さえた。その感情がどこから来るのか、自分でもわからなかった。ただ、目の前の蓮月が少しだけ脆く見えて、胸の奥がざわついた。
「私は……」
彗はゆっくりと言葉を紡ぎ出そうとしたが、続けるべき言葉が見つからない。彼の視線は再び蓮月に戻り、彼の表情をそっと探る。
蓮月は何も言わずに彗を見つめ返していた。その翠色の瞳には、静かな期待と微かな不安が宿っているように見えた。
「蓮月さん」
彗は静かに名前を呼んだ。その声はどこか迷いを含みながらも、決して拒絶ではなかった。
「キスしてもよろしいでしょうか」
彗の言葉は風に乗って、庭の静寂の中に溶けていった。その瞬間、蓮月の瞳がわずかに揺れる。まるで、何かを確かめるように。
「えっ?」
「話を聞いている限り、私が記憶を戻した?きっとできないでしょう。これは今までのお礼です」
蓮月は微かに目を見開き、次の瞬間には穏やかな笑みを浮かべた。
「センパイがそうおっしゃるなら……お礼として受け取ります」
そう言うと、彼はそっと彗に近づいた。近くに立つだけで感じる、吸血鬼特有の冷ややかな気配。それでもどこか温かさを感じさせるのは、蓮月の視線が優しいからだろうか。
彗は一瞬躊躇う。自分の行動が正しいのか、記憶を失った今の自分に許されるものなのかわからなかった。
「では……」
彗はそっと蓮月に顔を近づけた。
距離が縮まり、蓮月の長いまつげが見えるほどになったとき、彼は静かに目を閉じた。
唇が触れる瞬間、時間が止まったような感覚に包まれる。蓮月の唇は冷たく、それでいて柔らかかった。その感触は、彗の胸に言葉にできない感情を呼び起こす。
触れているのはほんの一瞬のはずだった。だが、その一瞬が永遠のように感じられるほど、二人の間に静かな緊張感が漂った。
やがて彗がゆっくりと顔を離すと、蓮月はそっと目を開けた。瞳が微かに潤んでいるようにも見える。
「……ありがとうございます」
蓮月が小さく呟くと、彗は目を伏せ、首を横に振った。
「センパイのこと、もっと好きになってしまいそうです」
その言葉に彗は困ったように笑った。だが胸の奥で、何かが静かに動き出したのを感じていた。それは記憶を失う前の自分の感情なのか、それとも新たに芽生えた何かなのか、彗にはまだわからなかった。
風鈴の音が静かに鳴り響く中、二人の間には再び静けさが訪れた。だが、その静けさは決して不快なものではなかった。
蓮月は立ち上がり、少し照れたように視線を彗から逸らすと、小さく笑った。
「センパイ、そろそろお休みになりませんか?明日も暑くなりそうですから」
彗は頷き、蓮月に続いて部屋を後にした。
夜は静かに更けていった。窓の外では、夏の虫たちの声が細やかに響き、空には雲の隙間から淡い月光が差し込んでいる。彗は寝室のベッドに腰掛け、じっと自分の手を見つめていた。
「……もっと好きになってしまいそう、ですか」
蓮月の言葉が、何度も頭の中で反響する。自分が記憶を取り戻せば、蓮月との関係はどう変わるのだろうか。今の自分は、本当に彼にとって同じ存在なのだろうか。
その時、扉が静かにノックされた。
「センパイ、まだ起きていらっしゃいますか?」
彗は顔を上げた。
「……どうぞ」
蓮月が扉を開けて現れた。いつものように端正な表情を浮かべているが、その瞳にはどこか躊躇いの色が見える。
「少しだけ、お話ししたくて」
蓮月はそう言うと、ベッドの横に立ったまま彗を見つめた。その視線は真剣で、けれどどこか寂しげでもある。
「センパイが記憶を失ってから、こうして過ごす日々は……不思議と、幸せなんです。オレは厳しくて、オレのことを絶対に好きにならないセンパイが好きでした」
蓮月の声は穏やかだが、どこか揺れているようにも聞こえた。
「でも……少しだけ怖いんです。センパイが記憶を取り戻したら、こんな幸せを享受してしまったら、オレはどうなるのだろうって」
彗はその言葉を受け止めながら、蓮月の瞳を見つめ返した。自分が記憶を取り戻した時、彼との関係がどうなるのか。それは誰にも分からない。
「私はきっと……あなたを嫌いにはならないと思います」
彗の言葉に、蓮月の瞳が驚きに見開かれる。
「どうして、そう言い切れるんですか?」
「わかりません。ただ……今日、あなたと過ごして、あなたの言葉を聞いて、少しだけ分かった気がするんです。以前の私も、あなたに同じような思いを抱いていたのかもしれないと」
蓮月はしばらく何も言わず、ただ彗の顔を見つめていた。やがて、小さく息を吐き出し、かすかな笑みを浮かべた。
「……センパイがそうおっしゃるなら、信じてみます。でも、それでもオレは、センパイの記憶が戻るその日まで、この思い出を大切にします」
その言葉に彗は頷き、静かに微笑んだ。
蓮月が部屋を出ていった後、彗はベッドに横たわり、天井を見つめた。風鈴が一度だけ静かに鳴った。
夜が更けるにつれ、彗の眠りは浅かった。瞼を閉じても、蓮月の言葉と視線が頭の中に浮かんでは消え、心を静めるどころか微かな動揺を残していく。
彗はベッドの上で身を起こした。月光が窓から差し込み、部屋の中に淡い影を作っている。心が落ち着かないまま、彼は窓辺に歩み寄り、外の庭を見下ろした。
庭の奥には、昼間に蓮月と話した薔薇の花が見える。咲きかけのつぼみが月光に照らされ、わずかに輝いていた。その光景を見ていると、昼間の会話がふと蘇る。
「センパイは薔薇が好きなんですか?」
「……いいえ、嫌いです」
あの時、なぜ自分は「嫌い」と答えたのだろう。薔薇を嫌う理由など思い当たらない。それなのに、口をついて出た言葉には確かな感情が込められていたように思える。
彗は少しの間、黙って庭を見つめていたが、やがて軽く息を吐き出した。そして決意したように、部屋を出て廊下を歩き始めた。
静まり返った屋敷の中を進み、目指したのは昼間見かけた書斎だった。記憶を失った自分にとって、この屋敷に残された手がかりは少ない。それでも、何かを知りたいという思いが彗を突き動かしていた。
書斎の扉を開けると、月明かりがわずかに差し込んでいるだけの薄暗い部屋が広がった。蓮月が普段ここで過ごしているのだろうか。本棚にはびっしりと本が並び、机の上には書きかけの手紙や古い本が積まれている。
彗は机の上に置かれた一冊のノートに目を留めた。表紙には何の装飾もないが、使い込まれた様子から、大切にされていることが伝わる。
「これは……」
彗はそっとノートを開いた。中には丁寧な筆跡で綴られた文章が並んでいる。それは、蓮月が日々の出来事や心情を書き留めたものだった。
ページをめくるたび、そこには蓮月の思いが溢れていた。彗への感謝、彼に抱く不安、そして時折見せる喜び。それらが真っ直ぐな言葉で記されていた。
そして、あるページで彗の目が止まった。
「センパイが薔薇を嫌う理由……それは、過去の痛みを象徴しているからだろうか。薔薇の棘に触れるたび、彼の心には何かがよみがえるのかもしれない。それでも、彼はそれを言葉にすることはない。だから、オレはせめてセンパイのそばにいようと思う」
その文章を読んだ瞬間、彗の胸に鋭い痛みが走った。薔薇に何か特別な意味があるのか。それは記憶を失う前の自分だけが知ることなのだろうか。
ノートを閉じ、彗は静かに息を吐いた。
「……記憶が戻ったら、ちゃんと聞かないといけませんね」
彗は部屋に戻ったものの、胸のざわつきは消えなかった。書斎で読んだ蓮月の言葉が頭から離れない。彼の思いが真っ直ぐであるほど、それに応える自分が果たして同じ人物でいられるのか、そんな疑念が浮かんでくる。
ベッドに腰を下ろし、額に手を当てた。月光が部屋をぼんやりと照らしている。その光の中で、彗は微かに冷たいものを感じた。
____視線。
振り返ると、誰もいないはずの暗がりに一瞬だけ影が動いたように見えた。
「……蓮月さん?」
彗は思わず声を上げたが、応える者はいない。気のせいだろうと自分に言い聞かせる。しかし、胸の中に生まれた不安が次第に形を持ち始めるのを感じた。
この屋敷に来てからの数日間、何かが引っかかっていた。蓮月の優しさ、穏やかな笑顔____それらに疑いを持つ理由はないはずだ。それでも、彼の言葉や態度の裏に、微かな歪みを感じてしまう。
「……私は、何を恐れているのでしょう」
彗は自分に問いかける。けれど答えは出ない。蓮月のことを信じたい、そう思う一方で、胸の奥底に眠る記憶が警鐘を鳴らしている気がした。
視線を窓の外に向けると、庭の薔薇が月光を浴びて白く輝いている。その光景は美しいはずなのに、どこか不吉な印象を与えた。昼間の会話が再び脳裏をよぎる。
「センパイは薔薇が好きなんですか?」
「いいえ、嫌いです」
その時は気にも留めなかったが、今思い返すと、自分の声には嫌悪以上の感情が滲んでいた気がする。恐れ、あるいは拒絶。まるで薔薇そのものが、自分の中にある何かを暴き立てる象徴のように。
再び目を閉じようとした瞬間、微かな音が耳に届いた。金属が触れ合うような、かすかな音。彗は身を強張らせた。音のする方を振り返ると、部屋の扉が少しだけ開いていた。
「……誰?」
返事はない。扉の隙間から流れ込む冷気が肌を刺す。彗は慎重にベッドを降り、扉へと近づいた。廊下は闇に沈んでおり、どこかから冷たい風が吹き込んでいる。
「蓮月さん……?」
低く名前を呼ぶが、応える声はない。ただ、遠くで何かが動く気配だけがあった。
その時、不意に胸が痛んだ。鋭い棘が心臓を貫くような感覚。彗は思わず壁に手をついて膝を折った。息が詰まるような苦しさの中、頭の中に何かがよぎる。
――血に染まった薔薇の花。月光の下で笑う、見知らぬ自分。
「……なんですか、これ……?」
断片的な記憶が意識の奥から浮かび上がり、彗の心を蝕む。何かが、確実におかしい。
その時、背後で低い声が響いた。
「センパイ、大丈夫ですか?」
振り返ると、そこには蓮月が立っていた。いつもの穏やかな笑顔。けれど、その翠眼はどこか冷たく光っている。
彼は書斎を後にし、再び自分の部屋へと戻った。眠りにつくまで、胸の中には蓮月への思いと、失われた記憶への微かな焦燥感が渦巻いていた。
蓮月の姿を目にした瞬間、私は胸のざわつきを必死に飲み込んだ。冷静さを保とうとするが、身体が僅かに震えているのが自分でもわかる。
「……蓮月さん、こんな夜更けにどうされましたか?」
「センパイの気配が少し乱れていたので、様子を見に来ました。具合が悪いのですか?」
彼は静かに問いかけながら、一歩私に近づいた。その動きは優雅で、まるで足音さえも風に溶け込んでしまうようだった。しかし、その優しさの裏に潜む何かを、彗は感じ取ってしまう。
「……いえ、ただ少し考え事をしていただけです。ご心配には及びません」
私は努めて穏やかに答えたが、声がわずかに震えたのを自覚した。蓮月は微笑みを浮かべたまま、さらに近づいてくる。
「そうですか。それならよかったです。でも、センパイがこんなに遅くまで起きているなんて珍しいですね。眠れない理由があるのではありませんか?」
その問いかけには、どこか私を探るような響きがあった。私は視線を外し、答えを濁すように口を開く。
「……特に深い理由はございません。ただ、月明かりが綺麗で、少し見惚れてしまっていたのかもしれません」
「月明かりに、ですか?」
蓮月の声が微かに低くなる。私は彼の視線を感じたが、どうしても正面から向き合うことができなかった。
「センパイ、今の生活に不安はありませんか?」
唐突な問いに、私は眉を寄せる。
「……不安、ですか?」
「ええ。記憶を失った状態で、慣れない場所にいるのですから。少しくらい不安があってもおかしくないでしょう?」
蓮月の翠眼が私をじっと見つめている。その目は穏やかでありながら、何か鋭いものを含んでいるようだった。
「……確かに、不安がないと言えば嘘になります。ただ、それはどんな状況でも同じことです。記憶があろうとなかろうと、私は前に進むしかありませんので」
「さすがセンパイですね。尊敬しています」
蓮月の微笑みは変わらない。それが余計に彗の胸に重くのしかかる。何かがおかしい、しかし、それを言葉にする術を私は持っていなかった。
「では、そろそろ休ませていただきます。蓮月さんもどうかお早めにお休みください」
私はそう言って蓮月に軽く会釈をし、部屋に戻ろうとする。だが、彼の声が背後から私を引き留めた。
「センパイ、最後に一つだけ」
「……はい、何でしょうか?」
振り返ると、彼の表情にはかすかな影が落ちていた。その翠眼が月光を反射し、冷たく光る。
「薔薇が嫌いとおっしゃいましたが、どうしてでしょう?」
その問いに、私の心臓が跳ね上がる。彼がその言葉をどこで聞いたのかはわからない。けれど、その問いには私自身が答えを持っていないことに気づかされた。
「……理由はわかりません。ただ、そう感じるだけです」
「そうですか。それはきっと、センパイの中にある何かが、まだ目を覚ましていないだけなのでしょうね」
その言葉はまるで予言のようだった。蓮月は微笑みを浮かべながら一礼し、静かにその場を去っていく。
私は立ち尽くしたまま、胸の中で膨らむ不安と向き合っていた。薔薇が嫌い――その感情の奥にあるものを探る勇気が、今の私にはなかった。
翌朝、彗は庭に面した縁側に座っていた。昨夜の出来事を反芻しながら、彼は一人で紅茶を口に運ぶ。朝露に濡れた薔薇の花が窓の外に揺れているのを、無意識に目で追っていた。
「おはようございます、センパイ」
振り返ると、蓮月が穏やかな笑みを浮かべて立っていた。銀髪は朝の光を受けてきらきらと輝き、翡翠色の瞳が彗を見つめている。その姿は美しいの一言に尽きたが、彗の中にはまだ昨夜の違和感が残っていた。
「おはようございます」
彗は軽く頭を下げる。蓮月は彼の隣に腰を下ろし、紅茶のポットを指差した。
「いただいてもよろしいですか?」
「どうぞ。あなたの家ですから」
彗の言葉に、蓮月は小さく笑った。カップに紅茶を注ぐ彼の手元は優雅で、見惚れてしまいそうなほどだった。
「センパイ、今朝の薔薇はどうですか?」
「……美しいですね」
彗は少しだけ視線を逸らしながら答えた。蓮月の隣にいると、言葉が妙に重たくなるのを感じる。それでも、彼の問いには誠実に答えたいと思う自分がいた。
「昨日は嫌いとおっしゃっていましたけど、今はそうでもないんですか?」
「嫌いなものでも、時には美しいと感じることがあるのでしょう。……少なくとも、あなたと一緒に見ると不思議と嫌悪感が薄れる気がします」
その言葉に蓮月は目を見開いた後、照れたように微笑んだ。
「それは光栄ですね。センパイにそう言っていただけるなんて」
彗は紅茶を一口飲みながら、蓮月の顔を盗み見る。いつも穏やかな表情の中に、少しだけ嬉しそうな色が見えた。
「……」
ふと、彗は思い立ったように手を伸ばした。その指先が蓮月の頬に触れる。
「えっ?」
驚いた蓮月の声が響くが、彗は静かに指を動かし、彼の頬を撫でた。その仕草には自然な親しみが込められていた。
「あなたの肌は、本当に冷たいんですね。触れるたびに、違う世界の人と話しているような気がします」
「センパイ……」
蓮月は一瞬言葉を失ったが、やがてその冷たい手を彗の手に重ねた。
「でも、こうして触れてくださるのは、センパイがオレを信じてくれている証拠ですよね」
「……そうかもしれませんね。記憶を失った今の私にとって、あなたは少しずつ信頼を築ける数少ない相手ですから」
蓮月は目を細めて笑った。その笑みは心の奥深くにまで響くような、どこか安心感を伴うものだった。
「では、もっと信頼を深めるために、今日一日オレがセンパイに付き合います。庭を案内したり、本を一緒に読んだり、何でもしますよ」
「……それはありがたいですが、あなたの時間を無駄にするのでは?」
「いいえ、センパイと過ごす時間がオレにとって一番大切なんですから」
彗はすぐに視線を逸らして庭の薔薇を見つめた。
「……では、お願いしましょうか」
彗はタバコに火をつけ、深く吸い込んだ後、紫煙をゆっくりと吐き出した。煙は部屋の薄暗い空気の中でぼんやりと広がり、夏の静寂と混じり合っていく。
「オレも吸ってみようかな」
冗談めかした調子で言う蓮月に、彗は少し目を細めた。
「吸ったことはないのですか?」
「ないですよ。でも……」
蓮月はタバコの先端を見つめながら、ほんの少し口角を上げた。
「センパイの真似をしてみたくなったんです」
その言葉に彗は一瞬黙り、次いで煙草の箱から一本を取り出す。慎重に火を灯し、ゆっくりと蓮月に差し出した。
「試してみますか?」
蓮月はそのタバコを受け取り、口元に運ぶ。指先が一瞬触れ合い、その温もりが彗の中に微かに残った。
「吸い込んで、吐き出すんです。それだけ」
彗が低い声でそう告げると、蓮月は興味深げに頷き、タバコを吸い込んだ。
だが、吐き出す間もなく、彗が不意に彼の顔に近づいた。
「……!」
蓮月が目を見開く間に、彗の唇が彼のそれに重なる。驚きに硬直した体も、彗が吸い込んだ煙をゆっくりと自分の中に取り込んでいく感覚に溶けていった。
彗は、蓮月が吸い込んだ煙を深く飲み込み、唇を離した後、それをゆっくりと吐き出した。煙は月明かりを受けてぼんやりと揺らぎ、まるで部屋全体を漂う淡い夢のようだった。
「どうでした?」
彗は、静かに問いかける。
「……なんだか不思議な感じがしました。ちょっと苦いけど、嫌じゃなかったです」
蓮月は唇を触れながら、微かに笑った。その笑顔はどこか幼さを含み、彗の胸に小さな波紋を広げた。
「煙草なんて、慣れない方がいいですよ。……」
彗が灰皿にタバコを押し付けながらそう言うと、蓮月は静かに頷いた。
「また吸いたくなったら、センパイとご一緒にさせてください」
蓮月の柔らかな声に、彗は小さく息を吐き、目を伏せた。
窓の外、風のない真夏の空気が、ただ静かに二人を包み込んでいた。