寝不足の執事を主人が心配してくる話虚ろな意識の中、肌寒さを感じてゆっくりと瞼を空けた。
「……」
視界を窓に向ければ、明るくはない。日付が変わり幾分か時間が経った夜更けだと言う事が伺える。
またいつの間にか眠ってしまっていた。だがここ最近頻繁にソファで座りながら意識を飛ばしているので、この首の凝りにもすっかり慣れたものである。
「……?」
ふと膝に重みを感じた。妙な温かさを感じて膝に目を向ければ、そこには先程寝室まで連れ添った筈の主人が穏やかな寝息を立てて寝転んでいる。
思わずぎょっとして目を見張るが、なるべく身体を動かさないようにして未だ目を覚まさないマーブルを見つめた。
(……いや、なぜここいるんですか)
寝る前に何か言い忘れた事でもあったのだろうか。しかしマーブルを寝かし付けてから自分が寝落ちるまでそれなりの時間は経っていた筈。仮にそうだとしても寝ている従者を起こさずに、はたまた膝で眠りについているとは一体どういう事なのか。気持ち良さそうに寝息を立てている主人の真意が窺い知れない。
『おやすみ、フクヤマ!フクヤマも、ベッドでちゃんと寝るんだよ!!』
部屋の扉を閉める前、そんな事を言われたのを思い出す。
ここ毎日、数ヶ月、正確には約2年程前から。ベッドで眠る事をしなくなった。
元々眠りは浅い方だとは思うが、異様に寝付きが悪くなった様だった。最初はベッドで寝ていた筈なのだが、いつの間にか机で椅子にも垂れながら、ソファに身体を預け座りながらそのまま眠りにつくことが多くなった。身体を横にしていると異様に目が冴えてしまうのだ。
そして考えたくもなければ思い出したくもない記憶が頭を埋め尽くす。
過去の自分が過ごしてきた血生臭い日々。本意では無いにしろ数え切れない程手を汚しそれを生き甲斐として無意味に我武者羅に生き延びていた日々。
あの人と出会い、マーブルと出会ったこと。汚い掃き溜めの様な居場所しか知らなかった自分に『普通』に生きる環境を与えてくれたこと。初めて自分が手を汚さなくても、生きていける日々があるのかもしれないと勘違いをした時。そしてその日々を自分の所為で壊してしまった事。
あの人を、マーブルの唯一の家族を守る事が出来なかった事。
更に目を閉じると吐くほどの自己嫌悪の感情が溢れ出る。毎日朝を迎える度、何故か胸が息苦しい。何故自分はまだ生きている?マーブルの笑顔を見る度、いつも通りの笑顔を返しつつも胸が張り裂けそうな感覚を覚える。自分はそんな笑顔を向けられる様な人間じゃない。
分かっている、自分が側にいてはいけない人間なのは。
それでも護らなくてはいけない。護りたい。償いだから。あの人に託された事だから。マーブルを守る事が自分の唯一の存在意義だから。
「……許して欲しい、私は」
あなたの側にいてはいけない。でもそんな事を言ってもきっと、『そんな事言っちゃダメ』と怒るのだろう。そして『ずっとフクヤマと一緒にいる』と笑ってくれるのだろう。その笑顔が、優しさが自分には酷く眩しすぎてこの世から消えたくなる。
だってあなたの側にいるのには私は、余りにも汚れ過ぎている。
「……んぅ」
小さく身動ぎをして後、うすく目を開けたかと思えば、ばっと身体を起こしてずい、と顔を近付けてきた。
「あっ!?!僕、寝ちゃった!!?」
「……おはようございます、坊ちゃん。…何故、私の膝でお休みになられていたのですか」
目を覚ましたのかと思えば瞬く間に行動が早い。こちらの心臓が追い付かない。
「えへへ、フクヤマに内緒でついてきたのになぁ。僕も眠くて気付いたらココで寝ちゃったぁ」
そう言ってふにゃりとした笑みを浮かべる。随分と目覚めが良い事で何よりだが、そろそろ膝が痺れて限界なので少し位置を変えて欲しい。
はて内緒とは、とこちらが問うより先に笑顔のままマーブルが口を開いた。
「ね、フクヤマ!一緒に寝よう!!」
「え」
予期せぬ言葉に拍子抜けした声が漏れ出る。
「……一緒に、ですか?眠れないのですか、坊ちゃん。でしたら坊ちゃんが眠るまでベッドの側にいますよ」
「ちーがーう!フクヤマも一緒に隣で寝るの」
マーブルはまだ幼いと言っても、もう1人で部屋で眠る事は出来る。数年前は確かに何度か一緒に寝た事もあった(怖い本を読んだとか何とか)が、全くそんな事は無くなったので何故だろうか。余りにも唐突だったので驚いた。何か怖い夢でも見たのだろうか。
「…何か怖い夢でも見たんですか、坊ちゃん。じゃあ、一緒に寝ましょうか。坊ちゃんの部屋に戻りましょう、」
「違うってば!!…もー、フクヤマ、僕ちゃんとベッドで寝て、って言ってるのに、ずーっとソファとか机で寝てるんだもん!」
そう言って頬を膨らませる。何故かは分からないが随分と元気な寝起きの主人は何か怒っている様だった。
「……と、言いますと?」
「僕、今日ちゃんと寝る前に『ベッドで寝てね』って言ったよね!!なのにフクヤマ、ソファですわったままずっと動かないんだもん」
「…ぁ、確かにそう仰ってましたね。すみません、すっかり忘れてしまっていました。明日からはちゃんとベットで寝ますよ」
「うそ!!!フクヤマ最近ずーっと、ソファか机で寝てるの僕知ってるもん」
「……」
何故かは知らないがバレている。別にバレても何も困ることは無いといえば無いのだが。
「……坊ちゃん、お休みになった後起きて抜け出していたんですか。駄目ですよ、良い子は早く寝ないと」
「とぼけてる!!!……ぅ、抜け出したのはごめんなさい」
「っいえ、謝る様な事じゃありません。謝るのは私です、申し訳ありません坊ちゃん。因みに、何故そんな事を?」
「あ、うん。あのね、……ねぇ、フクヤマは寝るの、嫌い?」
「嫌い、じゃないですよ。特別好きでもありませんが」
「本当?だってね、フクヤマ寝てる時、ずっと辛そうな顔してるんだもん」
心配そうに、こちらを見上げてくる蒼色の瞳と目が合った。
「フクヤマね、寝てる時ずっと辛そうな顔してるの。痛くて、苦しそうな顔してる。何か怖い夢を見てるの?……お父さんが言ってたんだ、怖い時はね、誰かと一緒に寝ると怖くなくなるんだって」
『……フクヤマ、一緒に寝てもいい?あのね、怖いお話呼んだら、怖くて寝れなくなっちゃった。おとーさんはお仕事で忙しくて……その、フクヤマがめいわく、じゃなければ』
『あの子は寂しがり屋なんだ。私も全然構ってやれてなくてな、お前が面倒見てくれると助かるよ。マーブルもお前の事が大好きだからな。……なんだ、照れてるのか?そんな驚いて。お前もそうだろう?2人で仲良くして欲しいぞ私は。はは、冗談だって。ともあれ、息子の事を頼んだぞ』
「本当!?ありがとう、フクヤマ!フクヤマが一緒なら怖くないや!」
そう言って、無邪気な屈託の無い笑みを向けられた。まだ、子守りじみた事をしている自分にこそばゆい感覚を覚えていた日々だった。
穏やかで幸せな、一瞬の幻の様な日々だった。
「……だからね、僕が一緒に寝てあげる!フクヤマも誰かと一緒なら、辛い思いしないで安心して寝れると思うんだ!」
昔と変わらない、自分には眩しすぎる無邪気な笑みだった。
「…そう、ですか」
「もちろん、嫌だったら無理にとは言わないけど……ちょっとだけ、僕も一緒に……フクヤマと一緒にいたいなぁって、思ったから……」
こちらの顔色を伺うような、少し遠慮がちな表情を向けられる。いつも従者である自分に対して何か頼み事をする時や声をかける時、決して傲慢な態度を取らずに接してくるのは出会った当初から変わらない。
何故雇われただけの従者に対して、そんな態度をとるのか不思議でならなかった。まるで対等のような、家族の一員であるかのような接し方をされてどんな態度をとれば良いのか分からなかった。ただ、きっとぎごちないであろう振る舞いをしても何も咎められることは無かった。
それが自分にとってどんなに、絆されることだっただろうか。きっと自分がいるべき世界はこんな暖かな光に溢れた世界では無い。今だってそれは変わらない。自分が痛いほど分かっている。
「……では、今日は一緒に寝てくれますか」
「っうん!!えへへ、やったぁ……嬉しい、な……」
「坊ちゃん?」
言葉をかけるや否や、先程まで元気だったはずのマーブルは返事をしたかと思えばうとうとと身体を揺らし始める。眠気がふいに襲ってきたのだろうか、いやむしろ熟睡は出来てないであろう状態で少し話をしていたから、無理をさせていたかもしれない。にしてもころころと気分が変わりやすいのは子供特有のものなのだろうか?ただ、無理に取り繕っていないのならばそれに越したことはないのだが。
「寝ましょうか。失礼しますね、起きなくて大丈夫ですよ」
声をかけてからなるべく揺らさないように、小さなマーブルの身体を抱えあげ自室のベッドへ横にさせる。
「ん……フクヤマも、一緒に寝てね」
「はい」
薄く目を開けてこちらを見ているマーブルに、暫く畳んだままだった毛布を広げて掛ける。その拍子にマーブルの小さく、暖かな手が自分の手を握った。
格段驚くことでは無いがいつもは手袋越しの感触でしかない為、素手から伝わる他人の温もりに一瞬身体が強ばる。
最初は誰かに手を触れられることなど居心地が悪い以外に感じなかった。今まで他人の温もりに触れることなんて無かったしされたくもなかった。ただ、拒絶する暇も与えず余りにも当然のように自分の手を取り笑いかけるものだから、まるでこの手が汚れていないものだと勘違いしそうになる。この温もりに慣れてしまって、手離したくないと思ってしまっている己がいる事にもう幾分前から気付いている。自分でも反吐が出る程愚直なことだと思う。本当は握り返すことも許されないことだと泣きたくなるほど分かっているのに。
マーブルの手はとても暖かかった。きっともう眠気は限界なのだろう、横になったマーブルは重たそうに瞼を少しだけ持ち上げて穏やかな表情で微笑んでいた。
「……ちゃんと、一緒に寝てね。……そばにいてね。離れないでね。」
「はい、ちゃんといますよ。おやすみなさい、坊ちゃん」
囁くような声で、それでも自分の手を握ったまま、マーブルはゆっくりと寝息をたてはじめた。羨ましいほどの寝付きの良さだなと思いながら、穏やかな寝顔をしているマーブルの頭を撫でる。
時計に目を向ければ、短針はⅢを少し過ぎた位置を刺している。外の様子と気温を伺うに、明日は曇りか雨空だろうか。なら、連日寝不足気味であるだろうマーブルは無理に起こさずに寝かしつける方がいいだろう。
一緒にベッドで寝て欲しいとは言われたが、今から自分がベッドへ潜りこんだ物音でマーブルの睡眠を妨げたくは無いし、どうせ自分は早くに目が覚めるので朝方に起こしたくもない。
そばにいると言ったことには変わらない。繋がれたままの手をそっと離し、音をたてないようにベットサイドに座る。置いてある薄い毛布を手繰り寄せ、マーブルが寝ているベッドに軽く寄りかかりながら目を閉じる。
身体の感覚は同じでも、昔とは何もかもが違いすぎる。いつ寝首を掻かれるかも分からない錆臭い石牢では無く、屋根のある室内で暖かな寝床があるなどまるで絵空事の様で過去の自分には想像がつかないことだ。
願うことならばこの人にもう何も不幸が起こって欲しくはない。何も手を汚してない、奪ってなどない。これ以上何も失って欲しくはない。汚れた自分のことは知らないまま、何も知らないままで穏やかな日々を過ごしてほしい。
ああ、本当にどの立場の分際で何を言っているのだろうか。なら真っ先にするべきことは自分がそばから離れることだというのに。目を背け続けては言い訳を重ねてそばに居続けている。自分が生きる理由だけでは無い、どうか一緒に生きることを許してはくれないだろうか。言葉にする度胸も伝える方法も分からないくせに見るに堪えない汚い自分のエゴを願わずにはいられない。どうしたらいいのだろう。
そうだろう、その方法を知っている。ソレが出来るじゃあないか。今更そんな下らないことで何を苦しんでいるんだ?もううんざりだろう?俺が本当にしたいことはこんな生温い茶番じゃあないよなぁ?
黙れ。口を開くな。お前には聞いていない。消え失せろ、 その声を聞くと虫唾が走る。頭の中で勝手に喋るな。
また今日もぐるぐると頭の中で誰かが喋りかける。いつになったら死んでくれるのだろう。いつ自分が死んでしまうのだろうか。手に残った温もりに縋るように、逃げるように意識を暗闇へと落とした。