リアの結婚【1】
「私、結婚するから」
「は?」
唐突に、──少なくともローランにはそう聞こえた発言に、ローランは間の抜けた顔で聞き返した。
「だから、結婚するんだって。前に紹介したでしょう、あの人と」
再度説明をするリアの顔は「呆れた」と言っている。その隣で弟のカルが困ったように眉を下げ笑っていた。
「どういうことだ、聞いていないぞ!? カル、お前は知っていたのか!?」
「ちょっと、痛い!」
思わずリアの肩を掴んで迫るローランにリアが声を上げ、同時にローランの手をぴしゃりと叩き落す。ジンと痺れる手を振って目を見開くローランの顔を見て、リアは「はあ」と息を吐いた。
「ローラン、リアが前に男の人と一緒に塔に来た事を覚えていないのか?」
二人のやりとりを笑いながら、しかし心配そうにも見ていたカルが尋ねた。ローランは、リアが男を? と少し前の事を思い返した。
・・・・・・そういえば、そんな事が、あった気がする。
「塔の管理と研究に夢中で生返事だとは思ったけれど、本当に忘れていたのね」
リアの言葉にローランはギクリとした。
クソと呼んだ師のロローカンを倒し、新たな塔の管理者となってから、ローランは日々を忙しく、慌ただしく過ごしていた。あちこちがポータルで繋がるラマジスの塔は、地下がどれだけ深いのか未だに全貌が見えてこない。部屋と部屋とを繋ぐ通路には幾重にも罠が張り巡らされ、それを解いて部屋に辿り着くだけでも一苦労だった。だが、そうして辿り着いた部屋にはローランが今までに想像したこともない程の魔法書や巻物が保存されており、それらを丹念に読み解いていけば記されている知識と力が自らに染み渡っていくのを感じ、管理者となってからのローランはずっと塔の地下に入り浸っていた。勿論、呼び寄せたリアとカルも塔に住んでいるのだから時折顔を合わすこともある。が、時折だったのだ。それ程までにラマジスの塔に蓄積された知識はローランを惹き付けて離さず、食事の時間になっても現れないローランは何度も何度もリアの叱責を受けていた。
そんな中で、確かに。確かにリアが友人を連れてきたことがあった。
そうだ、とローランは朧気ながらもその時の事を思い出した。
リアとカル、それに知らない男が一緒に居た。リアは彼を何と言って紹介しただろうか。
新たな知識の習得に夢中だったローランは、リアとカルが友人を連れて遊びに来た事──それだけこの街に馴染み生活していることに喜び安堵し、その紹介を聞き流してしまった、ような気がする。ローランは、唾を飲み込んだ。口の中がヒリヒリする。
「思い出した? そう、あの人と結婚するの」
今までに、それとなく式の事なんかも伝えていたつもりだったけれど。
リアの言葉にローランの腹がすっと冷える。氷の魔法を習得したときよりも鋭く冷たいその感覚。喜ぶべきだ、とローランは思った。妹が結婚する、それは喜ばしい事の筈だ。だが、ローランは自分の冷えた腹を摩りながらリアに鋭い目を向けた。
「いきなり結婚だなんて、まだ早いんじゃないのか。相手がどういう男なのか、ちゃんと分かっているのか?」
「早い? 私はちゃんとローランに彼を紹介した。それをちゃんと聞いていなかったのはローランでしょう、自分の事を棚に上げて今更何を言うの?」
「・・・・・・っ、だが! 俺は、お前の事を心配して言っているだけだ。お前が結婚して苦労しないか、相手に騙されていないか、いいや、やはり結婚なんてお前には早すぎるんじゃないのか」
「ローラン、いい加減にして。もう決めたの。決めたのよ、ローラン」
ローランの視線から逃れるように、リアは首を振った。その隣で二人を心配そうに見つめるカルの顔が目に入り、ローランはカッとなった。
「カル、お前は知っていたのか。塔に連れてきたときも一緒だったよな。俺より前から、お前は知っていたのか?」
「ああ、ええと。うん、知っていた。どうやってローランに伝えようかと二人で話したから」
「カルは私たちの事を知って、結婚を後押ししてくれた。そんな弟に伝えるのは当然でしょう」
自分が知るよりも先に、カルは結婚の事を知っていた。
胸がぎゅっと詰まって、ローランは右手で胸を叩いた。飲み込む唾も出ない程に、口の中が渇いている。喜ぶべきだ、そう思っても、頭に浮かんだ言葉は喉と同じように乾いたものばかりで。それを言ってはいけない、ローランは理性で言葉を飲み込み、慎重に選んだものだけを声に乗せた。
「俺は、まだ早いと思う。結婚は、反対だ」
「ローランが何と言おうと私は結婚する」
「今すぐじゃなくても良いだろう。もう少し様子を見てからでも」
「何の様子を見るの? 彼の? 私の? 私の事を信じていないの? もう子供じゃないのよ!」
「はっ、子供だろう! ムーンライズタワーで突っ走って囚われたのをもう忘れたのか?! 冷静な判断ができないやつは子供だ!」
「あの状況で彼らを見捨てれば良かったの?!」
「結果としてお前は捕まった! もう少しで死んでいたんだぞ!?」
「・・・・・・ねえ、ちょっと止めなよ。話が違う方向に向かっているじゃないか」
次第に興奮していくローランとリアをカルが引き離す。ローランもリアも落ち着きなよ、とカルは二人の背を順番に撫でた。
「私は」
リアが小さく呟いた。俯き髪で隠れた顔からは、表情が見えない。
「私は、ローランにも祝福して欲しかった。喜んで欲しかった。でも、ローランは違うのね」
リアが続ける。リアの手は拳を握り、ブルブルと震えていた。止めなよ、というカルの声を無視して、リアは口を開いた。
「ローランが何と言おうと、私は結婚する」
「リア、それ以上は──!」
「・・・・・・っ本当の、家族じゃないのに! いつまでも子供扱いしないで!」
カルの制止は間に合わなかった。リアの少し裏返った声が、鋭くローランに突き刺さる。
ローランは、ローブの胸元を握り締めた。言ってはいけない。それを言ってはいけない。頭の中でガンガンと警鐘が鳴り響く。リアの眼が怒りと悲しみを讃えて見つめている。カルの眼がそれ以上言わないで、と懇願している。渇いた喉は血が出るように痛み、まるで、その言葉を言ってはいけないと言われているようだった。だが、カハッ、と渇いた咳の後、腹の中から沸き上がる感情をローランは抑えきれなかった。
「勝手にしろ・・・・・・っ! 俺の許可なんていらないだろう、どうせ、・・・・・・本当の家族じゃないんだ!」
バチン、と乾いた音が響く。
走り去っていくリアの後姿と、ローランを何度も振り返りながら、リアの後を追って行くカルの背が見えた。ローランはそっと頬に触れた。リアに打たれた頬はジンと痛んだが、それ以上に、胸が痛んだ。
「クソッ」
ローランは静かになった塔で一人、積み上げた魔法書を蹴り崩した。
【2】
「クソッ、何で俺があんな風に言われないといけないんだ!」
「何杯目だ、そろそろ止めておけよ」
久しぶりに塔を出たローランは、下層地域の安い酒場で安い酒を煽っていた。良い酒を買うくらいの金はあったが、悪酔いしたい時に良い酒は無用だ。安酒で、己を失うくらいに飲む必要があった。
酒の入ったジョッキを片手にカウンターに突っ伏すローランの隣には、鍛冶屋のダモンが座っていた。付き合わされたダモンは事の顛末と共に、ローランの愚痴を延々と聞かされていた。
「お前は相手の男が気に入らないのか?」
ローランのジョッキをそっと水に取り換え、ダモンは尋ねた。同時に店員に目配せして、これ以上酒を出さないように伝える。
「・・・・・・気に入らないも何も、俺は相手の事を良く知らない」
「それはお前が紹介されたときに上の空だったからだろう」
自分のせいじゃないかと言われ、ローランは言葉に詰まった。カルはどうやら相手を良く知っているようだった。それにリアは、式についてもそれとなく伝えていたつもりだと言っていた。それとなくじゃなくちゃんと言ってくれ、と思ったが、そもそも紹介された時点で話をきちんと聞いていなかったのは自分に非があるのでローランはそれ以上何も言うことができない。できないのだが。
「リアが心配? 彼女は強いし、しっかりしている。彼女が選んだ男なら心配しなくても良いんじゃないか?」
ダモンの言うことも尤もである。
ローランはジョッキを傾けた。中身が水に代わっていることにも気付かず飲み干す姿に、ダモンは「ああ、これは相当酔っているなあ」と苦笑する。
やがて、水の入ったジョッキを握ったまま、ローランはぽつりぽつりと語り始めた。
「・・・・・・俺は、悪魔の末裔と言われ、石を投げられた」
「うん」
「子供だった。子供の俺にも石が投げられて、俺は逃げていた。傷口から血が出て、痛くて、腹が減って。そんな時に、リアとカルに出会った」
ローランの眼が、過去を懐かしむように細められた。
ローランは走っていた。
通りを歩けば石を投げられる。石を投げられるだけならまだマシな方で、大人たちに角を掴まれ引き摺りまわされ、殴る蹴るの暴行を受けることもあった。
ローランは空腹だった。空腹のあまり、店先に並べられた果物をひとつ、手に取ってしまった。それは傷んだ果物で、随分と安い値がつけられていて、あと少しすれば捨てられてしまうようなものだった。ローランはそれを選んで手に取った。果物を手に走り出したローランを、店の主は見逃さなかった。痛んだ果物を手に許しを請うこどもを、店の主は棒で打ち据えた。盗っ人、悪魔の子と蔑みながら、ローランを棒で打ち続けた。ようやくローランが解放されたとき、辺りはもうすっかりと暗くなっていて、ローランは痛む全身を引き摺りながら、手の中で潰れた果物の汁を啜りふらふらと歩き出した。往来で倒れたままでは、また誰かに殴られるかもしれないからだ。
痛む身体と空腹に、目の前がくらくらと揺れる。ローランは路地裏でばたりと倒れ込んだ。暑いのか寒いのかも分からない。このまま目を閉じれば、楽になるのだろうか。そんな想いが脳裏を過ったその時、小さな足音が二つ近付いてくるのを感じ、ローランは薄らと目を開けた。
「大丈夫? 血が出ている」
近付いてきたのは、ローランと同じティーフリングのこどもだった。ローランよりも小さな女の子と、その後ろにくっついているもっと小さな男の子。ローランが声も出せずにいると、女の子は手に持った布をローランの傷口に巻いた。お世辞にも綺麗とは言えない布だ。後ろの男の子は、恐る恐る、ローランの口元にパンの欠片を差し出した。
「食べなよ。食べるとげんきになるよ」
女の子も、パンの欠片を押し付けてくる。
ローランは力を振り絞って起き上がると、ふたりから小さなパンを受け取って、食べた。
「わたしはリア、こっちは弟のカル」
「おれは、ローラン」
ありがとう、とローランが小さく礼を言うと、リアとカルは顔を見合わせそれは嬉しそうに笑った。二人のちいさな腹がぐう、と鳴ったが、リアとカルはローランにパンを渡して嬉しそうに笑っていた。
その日から、三人は行動を共にするようになった。
リアとカルは、幼いながらも街でゴミを拾ったり、花を売ったりして暮らしていた。ふたりを雇っていた大人は二人が働いた分の給金を支払う事は無く、二人が生きていくのに最低限のパンしか渡さなかったが、それでも二人は働いていた。ローランはそんな二人を見て、空腹のあまり盗みを働いた自分を恥じた。そして、二人の為に、二人のように自分もなろうと決めた。
ローランは働いた。自分の事を悪魔と呼ぶ大人たちに頭を下げ、殴られても、蹴られても、従順に働く姿勢を見せ続けた。自分は役に立てるのだと、示し続けた。与えられる給金は僅かであったが、それでもローランは歯を食いしばって耐えた。逃げ出せば、またあの日に戻ってしまう。空腹に耐えかねて盗みを働く、そんな自分を二人には見せたくなかった。
ローランが働いた金で食べ物を買って帰ると、二人はとても喜んだ。三人で僅かな食べ物を分け合って、三人で寄り添って眠り寒さに耐えた。
そんなある日、ローランは魔法を目にした。
街の外れで擁壁に石を積む作業をしていたローランたちを、ノールの群れが襲った。他の作業員達が次々と牙に倒れてゆき、ローランはとうとう自分も、とギュっと目を閉じた。
ローランの首に、ノールの牙が食い込むことはなかった。
ウィザードが放つ魔法の矢が、ノールの身体を貫いていた。
弾ける血飛沫と閃光の中、ローランは恐怖を忘れてその光景に魅入った。
ウィザードが手を掲げると光が生まれ、それは矢となって周囲を照らしながらノールの群れを蹴散らしていく。あのウィザードは誰だろうか。閃光で顔が良く見えない。長い髪と纏ったローブの裾が風に揺れ、光を反射し輝いていた。ウィザードはノールの群れを一網打尽にすると、ノールの血と臓物の中に座り込んだローランを汚いものを見るかのように一瞥し、その場を立ち去って行った。一人その場で座り込むローランの胸には、ウィザードの姿が鮮烈に焼き付いていた。
ローランは、魔法を勉強するようになった。
街の図書館にこっそりと忍び込み、魔法に関する本を読み、記憶を元にウィーヴに触れた。そして、なんとローランには魔法の才があった。ウィーヴを感じることができた。構造を理解することができた。ローランが初めて使った魔法は、手の中に花火を創るものだった。小さな花火が手の平の上でパチンと弾け、ハラハラと散っていく。ローランの手の中を覗き込んで、リアとカルは目を輝かせた。目を輝かせ、凄い凄いとはしゃぎ回った。そんな二人を見て、ローランは決意した。今のまま働いていても、ティーフリングである自分たちは搾取されるだけだ。ウィザードになろう。強く立派なウィザードになれば、誰にも馬鹿にされない。蔑まれない。有名なウィザードになろう、あの日出会ったあの人のような、強いウィザードになって、リアとカルを守ろう。
二人の笑顔を前に、ローランはそう心に決めた。
カウンターにうつ伏せて眠ってしまったローランの頭をダモンはそっと撫でた。皮肉屋で誤解されやすいけれど、良い奴なのだ。血の繋がらない二人のきょうだいを、誰よりも大事に想っている、良い奴なのだ。大事な妹が結婚すると知って、心配するのは兄として当然のことだ。本当の家族じゃない、そう口走ってしまったと言っていたが、本当はそんなことちっとも思っていないくせに、とダモンはローランの悪い口を突いた。
「これだけ飲んで吐き出したなら、少しは頭も冷えてくるだろう。ちゃんと仲直りしろよ、ローラン」
ローランの前には、食べかけの料理が残っている。
ダモンは知っていた。ローランが今でも二人の為に食事を残してしまう癖があることを。僅かな食料を分け合っていた時の癖なのだ。ローランはずっと、自分の分を二人の為に残してきたのだ。皿に残され冷めた料理をローランの代わりに口に運びながら、ダモンはローランの頭を撫で続けた。
【3】
「なあ、ダモン。ちょっと話さないか?」
カルからの珍しい誘いに、ダモンは優しく笑って頷いた。誘いの理由は予想がつく。というか、それ以外にはないだろうから。
ダモンは部屋にカルを招待した。カルは物珍しそうにきょろきょろと辺りを見回し、棚にある物にそうっと手を伸ばしたりしている。
「おい、危ないものもあるぞ。それに少しは遠慮しろ」
他人の家のものをあちこち勝手に触るなよ、とダモンが念を押すと、カルは悪戯がバレた子供のように気まずそうに笑った。人懐っこい笑顔についつい触っても良いぞと許してしまいそうになる。カルは末っ子だからかな、とダモンも苦笑する。カルにイスを勧め、自分はベッドに腰掛けると、カルは早々に「聞いてくれよ!」と口を開いた。
「リアが結婚するって話は聞いているだろう? それで、ローランとリアがケンカしているってことも」
やっぱりその話か。
ダモンは黙って頷いた。
「俺は、リアも悪いと思うよ? 紹介したって言ったって、ローランが上の空だったのは確かだし。その後もそれとなく話はしていたけど、ローランが全然ピンと来ていないのは俺にだって分かったんだから」
でも、とカルは続ける。
「ローランもローランなんだ。ラマジスの塔の管理者になるなんて本当に凄い。一流のウィザードになるという目標を叶えたローランを尊敬している。リアと、俺の為に頑張ってきたことも知っている。・・・・・・でも、リアも、俺も、いつまでも子供じゃないんだ」
カルは目を伏せた。考えを纏めるかのように、膝の上で指先を弄ぶ。
「ローランが、俺たちの事を考えてくれているのは知っている。ムーンライズタワーで捕まってから余計に心配していることも。でもね、ダモン。俺たちだってもう十分大人なんだ。ローランに守ってもらわなくても、自分の力で歩いて行ける。そう思って欲しいんだ」
リアはともかく俺は頼りないかもしれないけれど、と眉を下げるカルに、ダモンは何も言わず続けさせる。
「本当の家族じゃないだなんて、リアも俺もちっとも思っていないよ。意地っ張りすぎるんだ、二人とも。知っているだろう、ダモン。リアとローランって、本当によく似ている。弟の俺よりもね」
へへ、と笑うカルの眼が少しだけ寂しそうなことにダモンは気付いた。ローランとリアがよく似ている、ダモンにもそれは分かる。だが、その隣でカルは少しの疎外感を感じていたのだろうか。
「わ、どうしたんだ?」
「いや、つい。すまない」
うっかりとカルの頭を撫ででしまい、ダモンは慌てて手を引っ込めた。つい癖で、なんて言ってしまわなくて良かったと胸を撫で下ろす。そんな事を言ってしまった日には、ニヤけ面のカルに何と言われるか分からない。
「俺は、リアに幸せになって欲しい。リアが選んだ人だから、安心してリアを任せられると思っている。まあ、リアは誰か幸せにしてもらうより、自分で掴みに行くタイプなんだけど」
「たしかに」
結婚して家庭に入り、オーブンでクッキーを焼きながら夫の帰りを待つリアが想像できなくて、ダモンとカルは顔を見合わせた。
「ローランにはリアを祝福して欲しいんだ。リアの幸せには、それが必要だから」
ローランがウィザードになると宣言し魔法の修行を始めた頃から、ローランとリアはよく衝突するようになった。不完全な魔法でボロボロになったローラン、夜遅くまで本を読むローラン、寝不足でも疲れていてもリアとカルの為に仕事に出かけるローラン。リアはそんなローランを心配し、いつも𠮟りつけていた。どちらが年上なのだか分からない程に、リアはよくローランを叱っていた。そんなリアの後姿をカルはいつも見ていた。ボロボロになったローランの傷口に布を巻くリアを、夜遅くまで本を読むローランの背中に張り付くリアを、朝早くから仕事に出かけるローランを見送るリアを。ローランが出掛けてから、リアは毎日祈っていた。祈る神は知らなかったが、誰でもいいので祈っていた。ローランが無事に帰ってきますように。祈るリアをカルはずっと見ていた。
ローランもリアも、不器用なのだ。
お互いを想い合っているのに、年齢を重ねる毎にそれを上手く伝えられなくなっていく。
こどもの頃はあんなにも簡単に言えた言葉が、言えなくなっていく。
そんな二人の間をカルはずっと取り持ってきた。
「ねえ、ダモン。俺は、リアにも、ローランにも、幸せになって欲しいんだ」
真っ直ぐなカルの視線に、ダモンは笑った。
「ああ、俺もそう思う。カル、お前は良い奴だな」
ダモンは今度こそカルの頭をガシガシと強く撫でて、茶でも淹れてこようと立ち上がった。
カップを持ち部屋に戻ったダモンが見たのは、本棚の奥に隠してあった艶本を探し出し「ねえ、ダモンってこういうのが好きなの?」と熱心に読んでいるカルの姿だった。
【4】
「ねえダモン、この後ちょっと時間はある?」
「ああ、大丈夫だ」
「・・・・・・なんで、笑っているの」
不審な目を向けるリアに、ダモンはあっさりと白状した。
「いや、ローランとカルにも同じように言われたからな」
くつくつと笑うダモンに、リアも釣られて頬を緩める。
「カルまで? じゃあ、きょうだい全員ダモンに相談しに来たのね。世話のかかるきょうだいで申し訳ないけど、私の話も聞いてくれる?」
「ああ、俺で良ければ」
知り合いとは言えさすがに女の子と部屋に二人きりと言うのは良くないだろうと、ダモンは鍛冶場に椅子を置いた。通りに面したここならば、二人で話していても不審には思われないだろう。それに、塔からも様子が見えるはずだ。自分は塔の地下に引き籠って出てこない事もあるくせに、きょうだい達がいないとなると慌てて探し出す男が心配しないように、見つけやすい場所にしておこう。そんなダモンの気遣いを感じているのか、塔の方を何度か気にしながらリアは椅子に腰掛けた。
「ねえ、ダモンも分かるでしょう。私たちティーフリングがどんな風に差別されてきたか」
リアは膝の上に置いた指先をくるくる回し話し始めた。仕草がカルと似ているなあと思ったが、ダモンはリアの言葉の続きを待つ。
「小さい頃から、バルダーズゲートを目指して旅をしている時、そしてバルダーズゲートに来てからも、やっぱり私たちは差別されてきた」
ダモンは黙って頷く。ティーフリングというだけで、悪魔の末裔だと差別されてきたのはダモンも同じだったからだ。
でもね、とリアは顔を上げた。
「ここに来て、彼と出会ったの。彼は私と対等に話してくれた。剣を振り、弓を引く私を馬鹿にしなかった。カルを連れて会った時も優しかった。街でティーフリングのこどもが盗みを働いたと濡れ衣を着せられそうになった時、飛び出して店の男と喧嘩になった私を庇ってくれた。危ないことをするなって叱られたけど、彼は私たちを犯人だとは言わなかった」
「リア、それはローランに言ったのか? 心配するだろう。あんまり飛び出していくなよ」
ダモンの苦言にリアは少し肩をすくめて見せた。これは反省していないな、とダモンは思ったが、これ以上言うとこの場が拗れるだけなので黙ることにする。リアを心配し焦るローランとカルの顔をダモンは思い浮かべた。
「彼の傍に居たいと思った。彼の側でなら、自分のままで居られると思った。だから、ローランにも彼を紹介したのに」
「ローランとはその後、話をしたのか?」
ちらりと塔を振り返りながらダモンは尋ねた。本当の家族じゃない発言の後、全く話し合いを持っていないのだろうか、この二人は。
「話そうとしたわ。でも、ローランは塔の地下に籠ってしまって。あそこは何度もポータルを抜ける必要があるし、私では辿り着けないのよ。それが分かっていてローランったら!」
酷いと思うでしょう!? 力強くそう聞かれて、ダモンは頷くしかなかった。ローランの奴、話をするのが怖くて逃げているな。ダモンは案外と小心者なラマジスの塔の管理者に苦い顔をした。
「私は、ローランにも祝福して欲しい。認めて欲しい。私が選んだ人を、一緒に信じて欲しい。家族じゃないなんて言ってしまったけれど、そんな事ちっとも思っていない。出会った日から、ローランは私とカルの家族だもの」
「ローランだって同じ気持ちだよ。リアが結婚するのが寂しいだけだ」
ダモンはリアの頭を撫でた。子供扱いしないでと怒られるかと思ったが、案外リアは大人しく撫でられている。このきょうだいは、意外と甘やかされるのが好きなのかもしれないとダモンはこっそり思った。
「ダモン、ダモンにもちゃんと彼を紹介する。式に来てくれる?」
「ああ、勿論だ」
寂しがりで臆病で意地っ張りなラマジスの塔の管理者よ。早くしないと、大事な妹が巣立ってしまうぞ。ダモンは塔を振り返ったが、塔は静かなままであった。
【5】
ローランとリアが言い争ってから数週間。
その間にもリアの式の準備は着々と進み、とうとうその日を迎えようとしていた。
「ああ、クソッ」
ローランは塔の地下、秘密の書斎で頭を抱えていた。この数週間、築いた人脈と魔法の力を駆使してリアの相手の動向を探り続けていたが、全く以って、普通だった。英雄めいた話は無く、特別な財力も、家柄があるわけでもない。普通なのだ。悪い話を聞くこともなければ、取り立てて良い話を聞くこともない。普通の男だった。だが、彼は誰に対しても誠実だった。ティーフリングであっても、ヒューマンであっても、彼の態度は変わらなかった。それが、リアの選んだ相手だった。
あの日以来、ローランはリアとも、カルとも会っていない。会えば何を言われるか、何を言ってしまうか分からなかったからだ。一度ダモンに愚痴をこぼしたが、その翌日からローランはずっと塔の地下に引き籠っていた。
ラマジスの塔。世界のすべての知識がここに在るとも言われる、膨大な数の魔法書を抱える塔。ローランは魔法書がひしめく棚を見上げた。全ての本を読み終えるには、ローラン自身の寿命は足りないのかもしれない。それでもここを管理し、修業し、知識を治めることが、ローランが目指した一流のウィザードであることの証明だった。あの日に見たウィザード。ノールの血と臓物に塗れたローランを見下ろす視線こそ冷たかったが、その力に、姿にローランは憧れ、希望を見出した。憧れた一流のウィザードの地位にまで、とうとう上ってきたというのに。
「本当の、家族じゃない・・・・・・」
ぽつりと呟いた言葉が自分の胸に突き刺さる。
ローランとて、リアの言葉が本心でないと分かっている。
血の繋がりはなくとも、共に過ごしてきた。いつもカルを守り、ローランを心配し、幼い手で傷口に布を巻いてくれた優しいリア。リアが幸せになろうとしているのに、自分は何をしているのだろうか。
ローランはきつく目を閉じた。
※※※
リアの式の当日、バルダーズゲートの空は青く晴れ渡っていた。
リアの式は教会ではなく、公園で行われた。特定の神に祈りを捧げる習慣のないリアの為に、仲の良い友人知人が集まり証人を務める人前式が採用された。エメラルドの森に、最後の光亭に、バルダーズゲートに。辿り着くまでに、多くの仲間を喪った。今日ここに集まったのは、その過酷な旅を共に耐え抜いてきた仲間たちだった。
「リア」
仲間たちが作る花道の前に、カルが立っていた。精一杯の正装をしたカルがあまりに普段と違い、リアの口元が綻ぶ。
「リア、おめでとう。き、綺麗だよ~~っ」
角に花飾りをつけ、ヴェールを被った花嫁姿のリアを見るなりカルが泣き始める。
「ちょっと、まだ泣かないでよ」
苦笑しつつ、リアはカルの腕に掴まって仲間が作る花道をゆっくりと歩き出した。仲間たちから贈られる祝福の花弁がリアのヴェールに降り積もる。おいおいと今にも崩れ落ちそうな程に泣いているカルの腕を支えて歩かせながら、エスコートしているのはどっちなのかとリアは弟の顔を見た。小さかったカル、いつもリアの後ろにいたカル、正義感から飛び出していくリアを引き留めていたカル。弟の小さな手は、いつしかリアよりも大きくなっていた。弟の背は、いつしかリアよりも高くなっていた。
「大きくなっても、泣き虫なんだから」
「お、俺っ、そんなに泣き虫じゃなかっただろっ?」
ヒンヒンとしゃくりあげながら抗議するカルの顔はもう涙でボロボロになっている。折角の正装の袖で顔を拭くカルを、リアは笑って見上げた。
仲間たちの花道はカーブを描き、その向こうには彼が待っている。
リアはヴェールを被った顔を伏せた。
カルも、仲間たちも祝福してくれた。彼は自分に合った式を選んでくれた。これ以上の幸せは望むまい。そう思い、顔を上げた。ヴェールに降り積もった花弁がゆっくりと落ちてゆく。
「・・・・・・どうして?」
「家族の結婚式だぞ」
花道の向こうには、ローランが立っていた。
魔術師のローブを身に纏い真っ直ぐに立つローランは、リアの姿を見て顔を綻ばせた。
「ローラン、あと、お願い・・・・・・っ」
「カル、泣きすぎだぞ。大丈夫か?」
ぐずぐずに泣き崩れるカルからリアの手を受け取ると、ローランは自分の腕に掴まらせた。リアの隣に立ち、ゆっくりとリアをエスコートし歩き始める。
一歩、また一歩。
ゆっくり、ゆっくりと。
リアに歩幅を合わせ、リアの隣を歩くことを惜しむかのように、ローランは一歩を踏みしめた。
「・・・・・・悪かった」
ぽつり、とローランが呟いた。
「お前を信じてやれなくて、悪かった」
一歩。
「似合っている」
一歩。
「綺麗だ」
一歩。
「おめでとう」
一歩進む度に、ぽつり、ぽつりと零すローランの言葉は、祝福の花弁のようにリアに降り注いだ。リアは、ローランの腕を掴む手に力を込めた。力いっぱい握っておかないと、膝が震えて今にも座り込んでしまいそうだった。
声が出なかった。
「うん・・・・・・っ」
リアが精一杯絞り出した声はそれだけだった。あとは、まるで喉が塞がったように声が出なかった。言いたいことがたくさんあった。ローランの顔を見たら言ってやろうと思っていたことがたくさんあった。尻を殴ってやるための杖を冒険者の友人から借りる程、リアは怒っていたし、悲しかった。
だが。
ローランが、おめでとうと言ってくれた。
それだけで、十分だった。
今までの全てがそれで清算された。
結婚すると決めた日からずっと、ただ一言、リアはローランにそう言って欲しかった。
「リア」
ローランの呼ぶ声に、リアは顔を上げた。喉がヒクっと音を立てて引き攣り、目から涙が溢れ出した。まるで、さっきのカルのように。あんまり泣くと、化粧が落ちてしまう。そう思ったが、次から次へと涙は溢れて止まらない。滲む視界で、リアはローランを見上げた。
「おめでとう、リア。俺と、家族になってくれて、ありがとう」
それは、今までで一番優しい声だった。
一番優しい、兄の顔だった。
リアは頷いた。何度も何度も頷いた。
ゆっくりと歩き、二人はとうとう新郎の元に辿り着いた。
弟と、兄。二人に順にエスコートされるリアを見た新郎の眼にも涙が浮かんでいた。それを見たローランは、ああ、良かったと安堵した。花道を作っていた仲間たちが周囲に集まってきている。新郎新婦のこれからの人生に幸あれと、皆が手を叩いて祝福する。口々に幸福を、二人の未来を祝福する。
「リア、幸せになってくれ」
ローランが、リアと新郎の手を取り地面に膝をついた。
魔術師の証だとローブが汚れるのを嫌うローランが、構わず地面に膝をつく姿にリアは息を飲んだ。ローランは何をするのだろうか。そう思う間もなく、ローランは二人の手を自らの額に押し当てた。角を下げ、恭しく敬意をもって、二人の手を取る。それは、ローランが二人に贈る、最大の礼と祝福、そして尊敬を示した姿だった。
「ローラン!」
跪くローランの肩が震えているのに気付き、リアも膝をつきローランを抱き締めた。
「ローラン、ありがとう。愛している、兄さん、愛している・・・・・・っ」
兄さん。
普段はローランと呼び捨てるくせに。ローランの口はそう皮肉を言いたかったが、駆け寄ってきたカルが大泣きしながら二人を抱き締めてきたのでそれは叶わなかった。
三人のきょうだいは小さなころのように抱き合いながら、泣いて、笑った。
「さあローラン。そんなに泣いていてはリアの式が進まないぞ」
ダモンが笑いながら手を差し出した。リアは新郎の手を借りて、カルは一人で立ち上がり、ローランはダモンに手を引かれてようやく立ち上がった。ダモンからハンカチを奪い取り涙で濡れた顔を乱暴に拭くと、ローランはくるりと振り返り不敵に笑って見せた。
「新郎新婦、並びに二人の為に駆け付けてくださった皆さま。今日の善き日に、ラマジスの塔の管理者である偉大なるウィザード、ローランが魔法をご覧に入れましょう!」
ローランは一礼すると、両手を合わせ、小さく呪文を唱えた。
「では!」
両手をパッと広げる。
パン! パン! パン! パチパチパチ・・・・・・!
青空に、色鮮やかな火が大きな花を描く。色とりどりに輝く光の花弁はキラキラと頭上から降り注ぎ、辺り一面を彩っていく。
優しく降り注ぐ光の花弁に、リアは小さな頃にローランが見せてくれた花火の魔法を思い出した。どれだけ強い魔法よりも、リアはローランが作り出す光の花火の魔法が一等好きだった。ローランの手の中で弾け、ホロホロと消えていく花火は三人の想い出だった。少ない食料を分けて食べた日、肩を寄せ合って眠った日、ウィザードになると無茶をするローランを叱った日。
全てがあの日の、今日の花火のように、キラキラと輝いて今に繋がっている。
「ありがとうローラン。ありがとうカル。大好きだよ」
幸せそうに笑う花嫁を見て、ローランとカルも幸せだ、と笑った。
【6】
ラマジスの塔に荷物が運び込まれてくる。
運搬はローランが作り出したエレメンタル達が支援しているおかげで順調だが、ローランは次々と運び込まれる荷物に渋い顔をした。
椅子、机、タンス、食器・・・・・・生活に必要なものばかり。それをエレメンタル達に指示しているのはリアだ。
「リア、これは一体なんだ」
「何って、私たちの荷物に決まっているじゃない」
「私、たち?」
私たち、とは何だろうかと更に渋い顔をするローランに向かって、リアは呆れた、と息を吐いた。
「ローラン、結婚したら私たち、ここに一緒に住むって言ったじゃない」
荷運びを手伝うカルが通り過ぎながら頷いている。
「塔に? この塔に住むのか? いや、新婚早々同居というのはだな」
そんな事言っていたか? 慌てるローランを、リアは「はんっ」と鼻で笑い飛ばした。
「いやね、私たちが幸せそうだからって嫉妬してるの? 自分は進展が無いから?」
「リアが羨ましいなら、ローランも早く結婚しちゃえば?」
ひょっこりとカルが会話に加わってくる。
リアが幸せそうなのは喜ばしい事だ。だが、何故それと自分の結婚が結びついてくるのだ。ローランは二人が妙に笑っているのが気に障り、心の声を読んでやろうかと呪文を思い浮かべた。
そこに。
「リア、新婚おめでとう。これ、頼まれていた食器だ。久しぶりに武器以外のものを作ったからどうしようかと思ったが」
結婚祝いは本当にこれで良いのか、とダモンが包みを持って現れた。リアは早速包みを受け取るとテーブルの上に広げ始める。包みの中には、ブリキで出来た食器がペアで収まっていた。
「お揃いだわ、素敵! ダモン、ありがとう!」
「喜んでもらえたのなら良かった」
リアに褒められ照れるダモンに、何故かローランの頬も熱くなる。同じように顔を赤くする二人を見て、リアとカルはニヤリと微笑んだ。
「ねえ、新婚に気を遣うのなら、ローランはダモンの所に泊まってきてよ」
「俺の所? 俺は別に構わないが」
突然ローランを押し付けられそうになったダモンは、キョトンとしつつもあっさりと承諾する。それを聞いて狼狽えたのは、ローランだった。ダモンの顔とリアの顔を交互に見て、みるみるうちに元から赤い肌をより赤く染めていく。
「はあ?! なんで、なんでこの塔の主である俺が追い出されるんだ!」
「良いじゃないか、偶には塔を離れてのんびりしろって事じゃないのか? 何もないがウチで良ければ泊っていくと良い」
「なんでお前はそうあっさりと承諾するんだ、ダモン!」
赤い顔でぎゃあぎゃあと慌てふためくローランに、カルがしれっと言い放った。
「しばらく帰らなくても、心配しないからね」
「どういう意味だ!?」
ぎゃあぎゃあと大騒ぎするローランを横目に、カルがダモンにそっと耳打ちをした。
「ダモン、早く兄さんと呼ばせてよ」
「どういう意味だ?」
ダモンが目を丸くした。
「おい、カル! 聞こえたぞ! お前何を言っているんだ!?」
ローランの大声がラマジスの塔に響き渡った。
(おわり)