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    ichagarigari

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    ichagarigari

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    獄都二次創作オールキャラ任務小説です。2015年に書いた同名作をリメイクしました。
     肋角さんが現場に出向くほどの大事件、みんなで力を尽くして解決しようー!というお話です。
    後編 https://poipiku.com/451933/7014404.html

    * ご注意下さい *
    ・捏造設定
    ・オリジナルヒロイン(おばあちゃん)、モブキャラ登場

    #獄都事変
    jidouIncident
    #肋角
    costalAngle
    #斬島
    choppedIsland
    #オールキャラ

    【獄都二次】清兵衛杉と庄兵衛杉<前編>10111213140 四月十六日、日和山応宗寺の境内で、同寺の住職を務める────さん(五四)が伐採作業中に倒れた木の下敷きとなり死亡した。──署は業務上過失致死の疑いで、作業をしていた林業経営の男性(四七)を書類送検した。
     応宗寺は境内にある樹齢五百年を超えるスギ「清兵衛杉」と「庄兵衛杉」が都の天然記念物に指定されたことで知られる。先月の嵐により清兵衛杉が被害を受け、本堂に倒木する可能性があった事から伐採が決まった。本件はその作業中の事故だった。残る庄兵衛杉も本堂に向かって僅かに傾いており、表皮には害虫被害による裂け目が見られることから伐採が検討されていた。町によるとこの度の事故の影響から作業の再開は未定。また住職不在の応宗寺も今後の見通しが立っていない。

    ──新聞より抜粋



     打粉をかけ、上拭いを終えた愛刀を灯篭にかざす。獄卒と同様に木端微塵となろうと再生する刀は、刃こぼれどころか先の任務でついた無数の擦り傷さえも消え失せている。手合せの最中、相手の攻撃を防いで曲がってしまった刀身も、大人しく鞘に収めているうちにすらりとした姿に戻った。
     油紙を刃にあて、丁寧に油を塗っていく。繊細な作業ゆえに、心まで平静に保たなければならない。雑念を払い、己と向き合うには武器の手入れに没頭するに限る、というのが斬島の持論だ。落ち着きのない平腹などには理解を得られなかったが、静かに頷く者もいた。
     刀に映る青い瞳と見つめ合う。
     こうして目で見ているうちは、なにも見えていないも同然だ。無念無双にはほど遠い。
     茎を柄に入れ、目釘を打つ。手入れが終わる頃だと見定めて、足音が近付いてきた。
    「終わった?」
    「ああ」
     傍らに立つ親友を見上げる。斬島の持論を認めたひとりがこの佐疫だ。理解しているから、今も手入れが終わるまで斬島に声をかけなかった。
    「コーヒーを淹れたよ。休憩しよう」
     外套から挽き立てのコーヒーの香りを漂わせて、佐疫は水色の眼を細めて微笑んだ。誘いを受けて、刀──カナキリを鞘に収めて立ち上がる。広い鍛錬場に、床の軋む音がやけに響いた。
    「てっきり素振りでもしているのかと思ったけど」
     佐疫は手入れ道具が入った桐箱を見つめた。武器の手入れなど自室でやればいい。他に鍛錬に励もうという者がいたなら斬島は邪魔になっていただろう。しかしここ数日、鍛錬場は共用部でありながら主を失ったかのように静かだ。
    「……身が入らん。情けない話だが」
     佐疫が言わんとしていることを、斬島は素直に認める。
    「みんなそうだよ。今回は事が事だけにね」
     佐疫は神妙な面持ちで鍛錬場を見渡した。閻魔庁外部機関特務室。彼らが所属し住まう館の中で、図書室に次いで広いのがこの鍛錬場だ。朝晩と熱心に鍛錬に励む者は限られるが、体を動かす程度なら館に住まう者のほとんどが出入りする。しかし今日はこの時まで、足を踏み入れたのは斬島と佐疫だけだ。
     明朝、閻魔庁は地獄での呵責や警邏等、そして文官の最低限の稼働を除き、戦闘員となり得るすべての獄卒に待機命令を下した。外部機関であっても獄卒である以上斬島たちも例外ではなく、皆 書類の作成や整理などの事務処理を行っている。それでもここまで館全体が静かなのは稀だ。
    「木舌も珍しくお酒を控えているよ。せっかく元々非番なのにね」
     自分がどんな顔をしているのか気付いて、佐疫は冗談めかして笑った。同僚をからかっても、結局は事の重大さを示してしまっている。
     閻魔庁から通達があったのは獄卒の待機だけではない。同時に指揮官相当の階級者の緊急招集が出された。普段は登庁を副長に押し付けてかわす特務室管理長も、早朝に出かけたきり正午を過ぎても戻っていない。
    「静かだね」
     佐疫は吐息して呟いた。どうあっても、思考はそこに引き戻されてしまう。
    「いつも谷裂から勝負を挑んでいるように見えたけど、斬島も意識していたってことかな」
     下手な気遣いはやめて、佐疫は館にいない彼の名を口にする。鍛錬場が静かなのは、長期任務でない限り朝晩必ず顔を出す男の姿がないからだ。斬島もすでに五日も手合せをしていない。
    「そのようだ」
     谷裂の金棒を防いで刀が曲がってしまったのが先週のことだ。刀身の歪みは修復したというのに、谷裂が任地から戻ってこないため再戦ができない。それどころか今朝方、彼が参加した亡者討伐隊が壊滅し、各々消息不明の知らせが届いた。
    「待機命令、いつまでかな」
     佐疫は鍛錬場の掛時計を見上げる。つられて斬島も目をやって、今は振るうことができない刀を握り締めた。



     上唇に指をあて、煙管を咥えていないことを思い出す。己の無意識の仕草に、肋角はあてた指の下で苦笑した。堂々巡りで退屈な、会議とも言えない現象がかれこれ二時間も続いている。口寂しさに葉の味が恋しくなるというものだ。
     亡者を捕えるために現世へ派遣された討伐隊が壊滅した。はじめの一時間はたったそれだけの事実確認をするために費やされた。その後の一時間は今後の対策を練るという名目で、悲嘆やら大言壮語やら罵詈荘厳やら、おおよそ中身のない発言が飛び交っている。
     この二時間、肋角だけが発言していないことに気付いているのは、隣で書類の留め金の位置を気にしている災藤だけだ。つい先程まで議論に参加しようとしない肋角の横顔を眺めていたが、とうとう彼も現状に愛想をつかした。しかし書類をいじっていれば会議に参加しているように見えなくもない。災藤を見習って書類に視線を落とす。そういえば配布されてから触れてすらいなかった。この際だからと表紙をめくり、文字の羅列を追う。
     亡者に起因する異変が始まったのは十日前のことだ。ある町で神隠しのように人間が消息を絶つ事件が続いた。閻魔庁が調査した結果、杉を憑代に現世にしがみつく亡者が、その養分とするため生者の魂を貪り、害を成していることがわかった。そこで亡者捕縛のために閻魔庁から獄卒が三名派遣された。一日もかければ終わる任務だと誰もが思っていたが、三日経っても誰ひとり戻らない。獄都では、まさか亡者に敗北を喫したのではないかと囁かれ始めた。
     事態を追求してみれば、亡者は生前僧侶だった者で、取り憑いた杉は樹齢五百を超えた神木のはしくれだ。それが生者の魂を取り込んで力を増すだけでなく怨霊化していたなら、一介の獄卒の手に負えるものではない。そこで先に派遣された獄卒の直属の上官が指揮を執り、討伐隊が結成された。
     それが一週間経っても音沙汰なく、指揮官のみが本日未明に獄都へ戻り、他の獄卒は消息不明と来たものだからこの騒ぎだ。
     書類から顔を上げると、騒ぎの中心人物が視界に入った。現場に部下を残して帰還するという失態を起こした指揮官。部下を救い出すための討伐隊結成のはずが、それまで壊滅させて恥の上塗りである。自責の念にかられそうなものだが、身体中に白々しく包帯を拵える程度には元気そうだ。責任を問う厳しい追及に逐一怒鳴り返している。唾だけでなく制帽まで飛ばす勢いで大立ち回りし、ふいに肋角と目が合った。
    「特務室の管理長殿は随分と静かじゃないか」
     しくじった。おもしろがって眺めているうちに矛先が向いた。肋角はうつむいて制帽の下に目を隠してみたが、二手遅い。
    「お前の所からも獄卒をひとり連れて行ったが、なにか言いたいことでもあるのか?」
     相手は肋角の仕草を挑発と取ったようで、円卓の向こうからずいと身を乗り出した。こうなると相手をしないわけにはいかない。隣にいた災藤はイスのキャスターを後方に流してちゃっかり退避している。飛び火は御免ということか。
    「現場での責任と覚悟はすべての獄卒に課せられる。お前だけに責任を問う気はない」
     報告も、部下──特務室より派遣した谷裂から聞くものこそ真の情報だ。保身に必死な男の弁に価値はない。他者の進退や処罰にも興味はなく、突っかかってくれるなと言外に告げる。
    「お前が寄越した獄卒は単独行動で知られる者だったな。今回も生意気なことを言ってひとり別の経路から進攻していたが、お前の教育の賜物か?」
     しかし他の者の相手に窮した男は執拗に絡んだ。その間、周りが口を噤んでいることに状況を制したと勘違いしているのだろう。肋角とは違う意味で(それと観劇よろしく優雅に足を組んでいる災藤を除いて)、その場にいる誰もが面倒なことになったと思っている。獄都最強の鬼をつつくなど命知らずにも程がある。
    「谷裂は優れた遊軍だ。状況把握と判断力に長けている。全体を見るが故に、指揮官が愚直だと誰よりも翻弄されてしまうだろうが」
    「貴様はなにが言いたい!」
    「私の部下の話をしているだけだ」
     喚く男とは対照的に肋角は静かに告げる。制帽の下から覗く赤い瞳に、男は僅かに怯んだ。
     しかし今更しおらしくなれるのならば、ここまでの事態になっていない。
    「ならば、次はお前が指揮を執ったらどうだ」
     虚勢のために強張った笑みを浮かべて、更なる事態を引き起こす案を叩き付ける。周囲が男を落ち着かせようと肩に触れたが乱暴に跳ねのけた。
    「獄都でも突出した実力者が指揮を執るとなれば、獄卒共も気勢を増すだろう。我々も優秀な指揮官殿のお手並み拝見といこうではないか」
     演説調に腕を広げて、周囲を見回す。これまでとは質の異なる沈黙が会議室に張り詰める。会議が騒然としていたのは愚かな指揮官を糾弾するためだけではない。誰もが今後の策を考えあぐね、また厄介事が己の身に降りかかることを避けていた。
     なるほど、確かにこうすればこの場は丸く収まる。
     肋角は男の発言に初めて感心し、微かに笑みを浮かべる。背もたれに身体を預けると会議室全体がよく見渡せた。
    「いいだろう。私もたまには身体を動かさねばな」
     肋角の返答に「おやおや」とこぼしたのは災藤だ。この場にいる誰もが驚いていたが、声を発する余裕もない。発案した男でさえ、己が引き出した回答に唖然としていた。
     終りの見えなかった珍会議に幕引きの気配を感じ、肋角は腰を上げる。立ち上がると改めて上背のある褐色の偉丈夫に圧倒され、それが堂々と行く様を誰も止めることができない。
    「ならば徴兵要請を出すがいい。私の元から精鋭を遣わそう」
     このまま気圧されて敗北したくなかったのだろう。男は自身と同じように討伐隊を結成するよう促した。肋角は退室直前、ドアノブに手をかけたところで振り返る。
    「必要ない」
     赤い瞳には、不遜なまでの自信が窺えた。
    「我々だけで十分だ」
     体躯に見合わぬ身のこなしで、静かに会議室を後にする。
    「本庁の手を煩わせるまでもありません」
     事の成り行きを見守っていた災藤は、イスから立ち上がったその時だけ靴底を鳴らし、注目を集めた。
    「わたくし共にお任せを、とのことです」
     微笑んで見せたところで肋角の無法は補えまいが。補佐官らしく言葉を添えて、肋角の後に続く。
     災藤もまた場を置き去りにし、扉の閉まる音が会議の閉幕を告げた。



     ぬるま湯のように居心地が良く、砕かれた硝子細工のように美しい。この空間こそが酷い皮肉そのものだ。
     不死の獄卒にとって元よりその感覚は希薄だが、谷裂は時の流れが失われた次元を歩いていた。木の根のような隆起を踏み越えひた進む。時計や光、漏刻など時を計るものはひとつもない。視界が利くのはそこが完全な暗闇ではなく、壁をめぐる葉脈のようなものが、蛍火のような弱々しい光を無数に発しているためだった。
     そこにはなにが流れているのだろうか。葉脈ならば養分か。一体なにを吸収しているのか。
     そこに溶け込めば、もっと心地良いのだろうか。
     谷裂は空漠に事象を刻むべく、手にした金棒を壁に叩き付けた。何度も試した通り、ゴム鞠に弾かれるような感触が手に残る。握り締めているのは金棒だ。その金棒は獄卒たる己の武器であり半身だ。獄卒がなんのためにここに在る。罪人を捕えるためだ。
     ぼんやりとした空間に溶け込みそうになっていた自己を取り戻す。亜空間に取り込むことによる精神攻撃だ。自我を失えば、あの葉脈を流れる養分となり果てる。
     現状を分析し、しかし打開策は見つからない。続く空間に変化はなく、出口など望みようもない。他の獄卒たちは、策を持たない指揮官の命により散開したあとは消息が掴めなくなっていた。
     存在を感じられないのは、すでに取り込まれたからではないか。
     芽生えた予想に谷裂は舌打ちした。力なき同胞などどうせその辺で力尽きて倒れている。それを回収し、邪魔にならない場所へ放るのだ。そうしなければ存分に金棒を振るえない。
     金棒を肩に担いで正面を見据える。いい加減に葉脈の光以外になにか見えないものかと、目を凝らす。
     と、ぼんやりと細長い輪郭が見えてくる。歩み寄って、それがよく知る制服を身に纏っているとわかった。
    「おい」
     無感動に声をかける。背中を向けられているために相手の顔はわからない。顔が見えたところで急ごしらえの隊の仲間の名前がぱっと出るとは思えず、所属から聞き出さなければならない。
     しかしその獄卒は谷裂の呼びかけに応えなかった。槍を握る腕をだらりと垂らして虚空を見つめている。意識を奪われかけているのか。気付けをやれば戻って来るだろうと、金棒の柄を握り直す。
     槍が突き出てきたのは唐突だった。避けられたのは直感としか言いようがない。相手の腕が伸びきってやっと心臓を狙った鏃を視認することができた。
     回避を優先したため重心が乱れて身体が傾いだ。追撃を牽制するために膂力だけで金棒を振り上げ、勢いを利用して体を翻す。距離を取って体勢を立て直し、相手の出方を見る。
     追撃はなかった。獄卒はまただらりとその場に佇んでいる。攻撃を仕掛けた動きは奇妙なものだった。ヒト型の筋や関節の動きを無視した、傀儡人形が気まぐれに振り回されたような突飛な動きだ。
    「食いカスを振り回しおって……」
     侮蔑を吐き捨てる。獄卒からも、この空間を作り上げた亡者からも反応はない。
     まったくもって不愉快だ。名ばかりの無能な指揮官も、亡者相手に後れを取る同胞も、それらに翻弄される自分を揶揄するこの状況も、すべてだ。
     目の前の獄卒は魂を養分として吸収され、辛うじて残った外殻を振り回されている。まだ自我を保っている谷裂を再び襲ってくることだろう。意識がないため攻撃が読めない。こちらから仕掛けて早々に終わらせる。
     足場を蹴り、右腕を引き絞る。さらに一歩踏み出すと同時に金棒で相手の足を薙ぎ倒す。
    「──ッ!」
     腕が動かなくなったことで谷裂はそのイメージを捨てた。足を止め肘の先に目を向ける。蔓にしては鋭く、枝にしてはしなりのある赤黒い触手が手首に絡みついている。それは手首をもう一周し締め付けた後、先端を腕に突き刺した。肉を抉り血管を貫いて、異物が皮膚の下に潜り込む感覚に怖気が立つ。
     本能に従うならば、ただちにそれを振り払おうとした。これに浸食されるのはまずい。
     しかし正面に閃く刃も捨て置けるものではない。
     右手から力が抜け、金棒が重量のある先端からぐらりと傾ぐ。
     それが地につく前に左手で掴み取り、迫り来る脅威へと振り下ろした。


     きちんと管理されていれば、そこは荘厳な杉林となっていたことだろう。数十年前の造林計画で植えられたものの間伐されずに放置され、現在では鬱蒼と形容するほうが相応しい。風が吹くと、密集した木々が枝葉をすりあってざわめいた。
     寺へ続く石段を前に、斬島はその光景を見上げていた。長い石段の先に四脚門、その後ろに黒い屋根が見え、背の高い杉がぐるりと囲んでそれらを見下ろしている。黒瓦よりも高く杉の葉が被さって屋根のように境内を覆っているが、林の中央の辺りにぽかりと穴が開いて、陽光が降り注いでいた。
     多少風があるが、晴天だ。散歩にはちょうど良い気候で、杉林の中の境内は涼やかに違いない。寺は住宅地の中にあり、時おり風が近隣で遊ぶ子どもたちの声を運んできた。それなのにここには誰ひとり立ち寄る気配がない。現世へ来るにあたり、人々に溶け込めるよう現代の若い男性の平均的な服装を真似てきたが、この時期にここへ足を踏み入れてはどうしたところで怪しまれるかもしれない。
    「どうした」
     声をかけられるより先に、聞こえた足音に振り返る。同じく、現代の人間の格好をした肋角が咥え煙草に火を点けていた。商店で煙草を買うと言って別れたが、無事購入できたようだ。
    「いえ」
     肋角の後ろに続いて石段をのぼる。見上げたときの印象ほど段数はなく、すぐに頂上へ到達した。
     小さな門をくぐり、再び見上げる。静かに佇む応宗寺。その背後には、周囲よりも一際高く太い杉が立っていた。


    「厄介事を押し付けられましたね」
     肋角の執務室に呼び出され、緊急招集会議でのあらましを聞いて、まず口を開いたのは木舌だった。
    「引き受けたんだ。可愛い部下に経験を積ませたくてな」
     肋角はイスに寛いで、煙管を咥えながら特段表情もなく返す。肋角の隣に立つ災藤が首肯したのはどちらの言に対してか。いずれにせよ、彼曰く可愛い部下たちは、上司の厚情に感謝するよりも事態の把握に努める。
    「神木に取り憑いた亡者の捕縛、ですか」
     斬島は先に受けた肋角の説明を簡潔にして呟く。その隣で佐疫が机に広げられた書類を一枚手に取った。
    「前代未聞ですね」
     永く現世に根を張る樹木は、大地や空間から力を得て神木となる。本来亡者など神気に弾かれて近寄ることすらできないはずだ。
     応宗寺に立つ庄兵衛杉は樹齢五百を超える。対としてその隣には清兵衛杉と呼ばれる神木があったが、災害による損傷で倒木の恐れがあったために人間の手によって切り倒された。問題が起こる前にと行った作業中に死者が出たのだから、人間にしてみればやりきれない。事故で大杉の下敷きとなり死亡したのは応宗寺の住職だ。そして今は庄兵衛杉に取り憑く亡者である。生前のこととはいえ寺を守る僧侶とあれば、土地との結びつきが強く強力な地縛霊になりやすい。庄兵衛杉もまた天災や害虫に蝕まれ弱体化していたようだから、様々な条件が重なって引き起こされた事態と推測されていた。
    「しかもこの霊樹、こちら側だ。厄介だなあ」
     のんびりとした口調で、木舌は二度目の“厄介”を口にする。
     樹齢を重ね神木と呼ばれるようになった樹木は、現世にて形を捨て解脱する代わりに存在を反転させる。現世にある形を影とし、核となる霊体を幽世に根ざす。それを霊樹と呼ぶ。
     寺となれば祀る仏がいる。応宗寺は本堂に閻魔像を祀る寺だ。通常、寺は浄土へ通ずる道が太くできる場所である。しかし閻魔信仰を通じて縁を持つ応宗寺は、閻魔領である獄都との繋がりが深い。そのため、応宗寺の神木の霊樹は獄都に深く根付いている。それが蝕まれてはこちらにも影響がある。
    「ゼンダイミモンってことは、今までになくおもしろいってことか!」
    「シャベル振り回すな。当たる」
     話を聞いているのかいないのか、平腹は未知への期待を膨らませて、はしゃぐなと田噛に膝裏を蹴られた。カクンと膝を落としてそのまま隣にいた抹本を巻き込んで転倒する。常ならば騒ぐ平腹と悲鳴を上げる抹本を谷裂が一括する頃合いだが、ここにいない。平腹は先の討伐隊に参加したいと立候補していたが、お前に隊列が守れるわけがないと谷裂と田噛に一蹴され、谷裂が任に就いた。候補に挙がっていた田噛が腹痛を訴えたためである。
    「……なんだって今更こっちに寄越すんだ」
     やかましい平腹と報告書を順に眺めて、田噛は忌々しげに呟く。そっちで受け持ったなら最後まで片付ければいいものを。
    「あちらの面子だろうね」
     答えたのは災藤だ。田噛のみならず全員がすでに察知していることをあえて言語化する。ひとり理解してなさそうな平腹のためでもあった。
    「従来であれば、特殊な亡者の捕縛は当初からこちらに回されるはずだけれど。亡者が憑いたのは現世の影法師とはいえ、獄都に根差す霊樹が容易く害されたとなれば威信に傷がつく。外部機関に回すとなれば記録が残るから避けたい。速やかに穏便に済ませるための第一派遣、話がこれ以上広がる前に収束を図ったのが第二派遣。どうにもならなかったから、ね?」
     今回はその尻ぬぐい、と誰もが脳裏に思い浮かべたが、みなまで言うことはあるまい。本来特務室に来て然るべき依頼が、最悪の状態で回ってきただけのことだ。
    「それで、おれたちが呼び出されたということは」
     厄介事が他人事ではなくなる気配を察して、しかし木舌はこれまたみなまで言うのを避ける。命令を下すのは上官の役目だ。
    「今回はこの面々で任につく」
     端から斬島、佐疫、木舌、田噛、平腹、抹本と順に視線をやって、肋角は任務につく部下たちの指名とした。木舌は上司の決定的な一言に「ですよね」と笑う。その影に隠れて田噛が「だるい」と呟いた。
    「討伐隊の半分以下ですね」
    「十分だ」
     前回の討伐隊では、谷裂を含む二十名の獄卒が招集された。それに比べれば六名など誰の目にも少なすぎる。唯一例外である肋角は、佐疫の指摘に紫煙を吐き出しながら答えた。
    「今回は俺も出向くしな」
    『ええっ』
     六ではなく七。予想外の派遣構成に獄卒たちは驚愕の声を上げた。上司ふたりは予想通りかそれ以上の反応に笑っている。
    「なんだ、そういう流れだっただろう」
    「そうですけど、本当に現場で指揮を執るんですか?」
     木舌は館に住む他の獄卒よりも長くいるが、肋角が部下と共に現場に出向くなど滅多にないことだ。上が持って来た仕事を部下に振る。部下の仕事が行き詰れば助言をする。軽く手を貸すことはあっただろうが、指揮をとる姿など何百年と見ていない。そもそも肋角が駆り出されるような事態なら、彼ひとりで出向いたほうがよほど効率良く収束する。
    「たまにはお前たちの成長を間近で見るのもいいだろう」
    「緊張するなあ」
    「木舌、佐疫は別働隊だ」
    「あれ?」
    「こちら側から霊樹を目指せ」
     獄都側にも、現世と同じ場所に件の霊樹が立っている。こちらにまで影響が及んでいる可能性を考えれば、作戦として両側から神木を目指すのはおかしな話ではない。しかしふたりをこちらへ残すとなれば、亡者捕縛へ向かう頭数はさらに減る。
    「オレは? あっち側?」
    「平腹、田噛、斬島は俺と現世へ向かう」
    「おっしゃー! 肋角さんゲーム買って!」
    「よく働いたらな」
     喜ぶ平腹の隣で田噛が音もなく舌打ちしている。斬島は上司の発言に一喜一憂することなく、指令を淡々と受け止めていた。
    「あの~……」
      机の下から声がして、抹本が遠慮がちに顔を出す。浮かれた平腹が振り上げた腕に突き飛ばされたらしい。額をさすりながらよろよろと立ち上がる。
    「お、俺はなんで呼ばれたんでしょう……?」
     抹本は獄卒の中でも肩書きで言えば薬師だ。戦闘を伴う可能性がある捕縛任務に駆り出されることはない。今日は待機命令に従って、材料の収集や病院での所用には出ずに館にいたが、研究室にひとり籠っていた。そこを平腹に担ぎ上げられて、執務室まで連れてこられたのである。作戦命令を下されたとて、自分がなぜこの場に呼ばれたかわからず首を傾げた。
     肋角は机に肘をついて、抹本の顔を覗き込む。
    「抹本はどちらにつく?」
    「ぅ、え?」
    「報告書を読んで判断しろ」
     抹本が折れるほど首を曲げるのを見ぬふりをして、肋角はイスに掛け直した。「留守を頼んだ」と傍らの補佐官を見上げ、災藤は「もちろんですよ」と諾する。
    「災藤さんはいかねーの?」
    「残念だけど、肋角と木舌まで出るなら館を監督する者がいなくなるから。それに書類が山積みなの。ね、管理長?」
     肋角が顔を背けたのは紫煙を吐き出すためだけではあるまい。災藤がニコニコと顔を寄せて追いかけても、首を限界まで回して取り合おうとしなかった。いつものことである。
    「みんな、気を付けていってらっしゃい」
     しかし正面に向き直った災藤は、言葉は柔らかくとも司令官然と獄卒たちに告げる。獄卒が不死でありそれを象徴する再生力を誇っていても、災藤は出立前の者に必ずそう声をかける。普段のそれは送り出しの言葉に過ぎないが、今この場では異なることを全員が肌で感じていた。
     今回の任務は、すでに多数の犠牲を払っている。
    「討伐隊に比べると、やはり少ないのでは」
    「戦争をするわけでもなし、ぞろぞろ行くような案件ではない」
     その数字を心許ないと感じる佐疫に対し、肋角の返答はどこかすげない。数に頼る必要はないと、この上司はそれだけの力を持っている。しかし、先の討伐隊の行方不明者のことを考えれば、作戦は亡者捕縛だけでなく同胞の救助と回収も含まれる。佐疫はこの数で対応できるのかと指摘しようとしたが。
    「まずは亡者の捕縛だけを考えろ」
     部下の考えることなどお見通しだと遮られる。
    「谷裂もあまり大勢で迎えられたくないだろう」
     トン、と肋角は煙管の灰を捨てた。斬島は肋角の手の動きを追いながら、報告書の亡者に関する推測を指で辿るように思い起こす。
     亡者は神木を憑代に生者の魂を貪り、糧とし、その力を増している。肉体の枷を失い万能感に溺れたならば、貪欲に力を求めるだろう。そして討伐に向かった獄卒たちまで消息を絶ったとなれば、取り込まれたと考えるのが妥当だ。
     消息不明の四文字が今後どう転ずるのか、今はまだ誰にもわからない。
     余計な思索は無用。できうる最善の働きをするのみだ。斬島は刀の鞘を握り、カナキリが呼応するように音を立てた。
     肋角が正面から獄卒たちを見据える。誰ともなく獄卒たちは素早く姿勢を正した。
    「今回の亡者は神木を憑代に生者に害をなし、あまつさえ獄卒をも手にかけた。力を増しているだろうが、いかなる者も等しく冥府へ送ることが我々の務めだ」
     獄卒が成すべきことはひとつ。
    「許されざるものには罰を」
    「はい!」
     それは手に取る武器に、存在に、刻み込まれている。



     応宗寺はさほど大きな寺ではないが、住宅地の中にあるためにそれなりに人が出入りする場所だった。しかしかつて人々が集ったのは本堂ではない。
     斬島と肋角は、寺をぐるりと回りこんでその場所を目指す。人々が長年踏み固めて自然と道が出来上がっていた。途中黄と黒のロープが横切っていたが、肋角の一跨ぎで無意味となる。
     肋角がその場で仰向き、斬島もつられて見上げる。人間が神木と崇めるに相応しい巨木がそびえている。その胴回りの太さは、隣で歪な切り口を見せている巨大な切株を見れば知れた。
     応宗寺を囲む杉のうち、抜きんでて見事な二本の巨木は、寺を背にして右に『清兵衛杉』、左に『庄兵衛杉』と名前が与えられていた。庄兵衛杉は今も人々を静かに見下ろしているが、清兵衛杉は切り倒され切株と化している。神木と切株を囲んで黄色と黒のロープが張られ、ぶら下がる木札が人々の立ち入りを禁ずる。ここであった死亡事故の影響だ。傾いで倒木の恐れがあった清兵衛杉の伐採作業中、倒れた巨木の下敷きとなって死んだ住職こそが亡者の正体であると、ここまでは獄都でも調べがついている。
    「非常に違和感があります」
    「霊脈が乱れているな」
    「いえ」
     斬島は庄兵衛杉から目を離し、隣に立つ上司へ向ける。身長差があるためにどちらにせよ見上げる形だ。
    「肋角さんのお姿に」
     獄卒が現世に現れたとしても、身体的にはさほど変化はない。肋角の長身は現世でも健在だ。ここに来るまでもすれ違う人間の多くが二度三度と視線を寄越していた。赤い瞳はさらに目立ちすぎるため、赤みがかったブラウンに変化させている。瞳に関しては斬島や現世に来ている獄卒も皆、抹本手製の薬を服用して黒などの色に変えていた。
     瞳の色もそうだが、斬島にとっての違和感は肋角の服装だった。黒のジャケット姿は肋角の外見に歳相応の格好だろう。斬島とて獄卒の制服姿ではないが、度々現世に来ることはあるから珍しい格好ではない。肋角も所用で出かけることはある。しかしその際の姿はなかなか見ることがない。
    「おかしいか?」
    「よくお似合いかと」
    「そのうち見慣れる」
    「その前に任務が終わりそうです」
    「お前もそういうことを言うんだな」
     そっちのほうが珍しいと肋角は笑う。その口が咥えるのはいつもの煙管ではなく現世の紙巻煙草だ。斬島は煙管の葉の香りのほうが好きだと感じるが、肋角もその煙草を特段うまいと思って吸っているわけではないだろう。馴染みの煙管は制服の懐にしまったままだし、現代人の姿で吸うと目立つ要素を増やすと言っていた。
    「移動に随分と時間をかけてしまいました」
     陽の位置が予定よりも高い。緊急招集から一日経った今朝方に現世へ転移し、人間と同じ交通手段を用いてここまでやって来た。獄都から穴を通じてこの場へ来たなら移動は数秒で済んだし、このような変装なども不要だったはずだが。
    「霊脈が乱れていては、穴を開けても目的の場所に繋がるとは限らない。亡者によって次元が歪められている可能性もある。先の派遣時に谷裂が進言したようだが、聞き入れられなかったらしいな」
     取り憑かれた神木が獄都と繋がっていることを考えれば、当たり前に警戒すべきことだった。獄卒たちが消息不明な点を鑑みても、敵の懐へ不用意に飛び込めば攪乱されると考えていいだろう。そのため斬島たちは穴を使うのを避けて、確実に影響を受けていない座標から現世へやって来た。
    「それに、回り道をしてわかることもある」
     肋角は新たな煙草を咥えて、火をつける。斬島にはそれが何本目なのかもうわからない。
    「それにしても遅いな」
     時間のかかる移動方法ではあったが、寄り道さえしなければとうに合流しているはずだ。
    「……すみませんでした」
     本堂の脇から、取ってつけたような謝罪が聞こえてくる。謝りながらも急ぐわけでもなく田噛はゆっくりと歩み出て、続いて平腹がひょこりと顔を出した。
    「いたいた! 斬島お待たせー、肋角さんごめんなさい!」
    「遅いぞ、なにをしていた」
     田噛を追い抜いて駆け寄る平腹は上機嫌、というよりいつも通りだ。待たされた斬島は肋角に変わって厳しく告げる。
    「だって田噛がコンビニで立ち読みして動かねーんだもん」
    「お前が漫画読んでる時間のほうが長かっただろうが」
    「あだっ」
     田噛の膝が平腹の尻に当たる。ここに来るまでも、あちらこちらに気を取られる平腹をそうやって誘導してきたのが容易に想像できた。
     応宗寺が建つ住宅地は、市の中心部から離れた区画に位置する。小中学校も近いことからよそ者がうろうろすると悪目立ちする、という肋角の判断で二手に分かれていた。「肋角さんでけーからなにしても悪目立ちすると思うけど」と平腹が言ったのが本日一発目の蹴りの瞬間だった。
    「街の様子はどうだ?」
     ここまで肋角たちは住宅地を、田噛と平腹は大通りを進んでやって来た。住宅地は小中学校周辺では校庭から声が聞こえていたが、平日の昼間とあって人通りもなく静かなものだ。たまに住民とすれ違えば、よそ者に対する猜疑の視線がちくりと肌を刺した。
     肋角に促され、田噛は自分たちが辿った道で見聞きしたことを報告する。
    「ここ最近の失踪事件と、清兵衛杉の伐採中の事故に関する噂が飛び交っていました」
    「田噛、地獄耳だもんなーぁいてっ」
    「今月に入って、この町と隣町での失踪者が合わせて五名。神木を切り倒し住職が死んだ事故と繋げて、清兵衛杉の祟りだと。残された庄兵衛杉が人間を呪っているなんて話もあって、まあ、盛り上がってます」
     人々の噂話や、タウン情報誌、はてはテレビのローカルニュースの癖のあるコメンテーターまで、一連の事件は神木を切り倒したことによる祟りだ呪いだと囃し立てている。田噛は報告の合間に資料として週刊誌を肋角に手渡した。斬島は許可を得て横から肋角の手元を覗き込み、共に記事を眺める。
    「自然に対する畏怖と畏敬か。時を経て信仰心が薄れたわりに、神道思想が根深いものだな」
    「中途半端に残ったから、面倒なことになってますけどね」
    「めんどくせー!」
     足元の空き缶が目について、平腹はそれをコンッと蹴り飛ばす。杉林にはその他にも、ビニール片や雨曝しにされて錆びついたガラクタが打ち捨てられている。
    「……噂と失踪事件の繋がりで、気になることが」
     田噛は低い声音をさらに抑えて報告を続ける。
    「誰かいるのか?」
     そこに、本堂の方角から何者かの声が割り込んだ。
    「……なにか御用でしょうか」
     本堂の脇から青年がひとり、彼からすれば闖入者である四名を訝しげに見つめていた。身に着けている真新しいナイロンジャケットの胸元には町章が入っている。そういえば学校周辺を歩いている間に、同じ格好をした人間を数人見かけた。恐らく一連の事件から子どもたちを守るための見回りだ。几帳面に整えられた黒髪の生真面目な印象からも、青年が町役場の職員であることが窺えた。
     肋角は彼の視線が自分の手元を注視していることに気付き、週刊誌を斬島に渡した。斬島はそれを変装のための飾り同然の鞄に収める。
     何事もなかったかのように、肋角は青年へ柔和な物腰で歩み寄る。
    「人がいらしたとは、本堂に立ち寄りもせずに」
    「立ち入り禁止の札が見えませんでしたか。それと、境内での喫煙も禁止しています」
    「ああ、失礼した」
     肋角が無断で立ち入ったことを詫びる前に、青年がぴしゃりと指摘する。肋角は大人しく携帯灰皿の中で煙草の火を揉み消した。その後ろで平腹が「うひゃー」と声を上げている。
     獄卒たちが見守る中、肋角は懐から名刺を取り出し青年へ手渡した。お手本のような営業スマイルでの自己紹介によると、どこかの大学の仏教学部の客員教授らしい。いつの間に名刺など作っていたのかと一同感心する。大方災藤に作らせたのだろうが、用意周到なものだ。
    「本堂の参拝と、過去の記録資料を見せて頂きたいのだが」
     寺を訪ねた目的として、肋角は二点の承諾を願い出た。本堂の参拝はおまけだ。滅多に見ないとはいえ最高位の上司の像をわざわざ拝みに行く趣味はない。情報を得るため、建立時から続いているであろう寺の記録を読む必要がある。
    「記録を読んで、なにか記事にでもする気でしょうか」
     青年の目には、町で浴びせられた猜疑心が露骨に表れている。
    「近頃はどうも非科学的な話すら記事になるようで、根拠のない噂話が流布しているんですよ。おかげで境内での悪戯も増えた」
     住職不在の寺で、役場の職員が番をしているのはそのためだろう。噂話に怖れをなす者もいれば、おもしろがって余計な手出しをする者もいる。
    「教授さんなら、なにかしら文章にするんでしょう。これ以上くだらない話を広げて欲しくないんです」
     青年の表情や言動のすべてが迷惑だと告げている。さらには半身を引いて四名に道を示した。さっさと立ち去れということだろう。
     和らいだ表情のまま話を聞いていた肋角だが、役人の言い分をすべて聞いて、ため息をついた。苛立ちや悲嘆といった込み入った感情は含まれていない。やれやれ、という程度の軽いものだ。しかし息をついたことで、人間のために取り繕っていた表情の薄皮が一枚はがれる。
    「虚誕妄説に囚われて門を閉ざす寺になんの価値がある。お前は廃寺を守っているのか?」
     急な皮肉に、青年は見上げることになろうと毅然と肋角を睨み付ける。
     しかし次には、離れて見守る斬島たちにもわかるほどに、びくりと肩を震わせた。
     その後、青年と二言三言と交わして、肋角はくるりと獄卒たちへと向き直る。さすがに斬島たちに向けて人間用の表情はせず、特筆する点のない見慣れた管理長の顔だ。
    「ご厚意で私だけ案内してくださるそうだ。お前たちはそこで待っていなさい」
     留守番を命じられて、獄卒たちは同時に頷く。役場の職員はなにも言わない。肋角を本堂へ案内するために前を歩いて行く。斬島たちから見えるのは上司の大きな背中だけで、職務を全うしようとしていた正義感の強い青年はすっかり霞んでしまっていた。
    「肋角さんスゲー。説得で一発逆転」
    「説得なんてしてねぇよ」
     平腹もまさか本気で言ってはいないだろうが、斬島と田噛はそろって否定する。
    「単なる脅しだな、アレは」
     ほんの一瞬、肋角の本来の瞳の色が覗いて昏く輝いた。一同、真正面からあの目に射抜かれた人間に同情した。



     諦観には至っていないが、抗議する気力もない。ただうんざりしていることは示したかったのか、労いの前に嘆息が挟まれた。
    「ご苦労」
    「いえ。これからですよ」
     災藤の言葉に、男は牛革の背もたれに体を沈めて目を閉じる。風船に穴を空けたような長い吐息が続いた。これが特務室の管理長であれば、部下の前でそうあからさまにするものではありませんよ、と苦言を呈しているところだ。しかし男は不憫な立場にある。気の済むまで嘆くくらいは許されるだろう。
     災藤が手渡した紙束について、男はのちに『管理長の思い付きを、あなた方が判を押しやすいように取りまとめました』と書いてあったと錯覚するほど、非の打ち所も可愛げもない計画書だった、と語ったという。災藤がそれを知るのはもっと後のことだが、この時には心中を察していた。
     特務室は閻魔庁の手が不足したときや、手に余る事案が発生した際に対処する外部機関として設立された、というのはふたつの都合を誤魔化すための建前だ。ようは『なんでも課』であることは特務室の末端まで自覚している。そして、外部機関という立ち位置は煩雑な手続きをパスするのに都合が良い。閻魔庁本体であればなにをするにも求められる稟議書や計画書やなんらか書のほとんどが、特務室は事後報告で済む(と、なるよう管理長が圧をかけたという説もある)。基本的に特務室は依頼を受ける立場であるため、仕事をこなすための行動にいちいち許可を求めていては話にならない。欠かさず提出を求められるのは報告書くらいのものだ。
     外部機関とはいえ、閻魔庁に連なるためパイプ役は存在する。閻魔庁本体に属し、形式上は肋角と災藤の上司にあたる者がふたり。災藤の目の前にいる男がそれだ。もうひとりは、昨日の会議の後にまた別の会議室でひと悶着あったらしく、この瞬間も延長戦を続けている。
     災藤が用意した紙束は、例外として提出を求められた作戦計画書だった。亡者の捕縛に参加する獄卒の名前と作戦行動、目標が記されている。此度は捕縛対象が特殊ということを理由にしているが、久々に任務に赴く肋角がなにをしでかすか気が気でないのだろう。
    「厄介事を厄介な流れで引き受けたな」
    「今回ばかりは、管理長に突っかかった方が悪いですよ」
     貴方もあの場にいたのだからおわかりでしょうに。と続けて皮肉ることはしない。わかっていても言わなければ気の済まないことがあることは理解している。
    「まさか肋角が現世での任務に出るとは……」
     事の成り行きを目の当たりにしていても、書面で提出されようともなお直視し難い現実。男はそれを、自身の言葉で耳に入れて受け入れようと努める。
    「生者を巻き込んだり手を出したりしなければいいが」
    「肋角もそのくらいの分別はつきます」
    「脅したり怯えさせたりするのも駄目だ」
    「それは……ないとは言い切れませんね」
     災藤が冗談めかして肩を竦めると、男はまた肺から長々と嘆きを絞り出す。
    「お前は同行を申し出なかったのか、災藤」
    「留守を任されましたので」
     時間にして三秒。上司が初めてそれらしく部下の小癪な言い草を睨み付ける。災藤が身じろぎせず見つめ返すと、男はついに呼吸を止めて、瞑目し自制に尽くした。その姿を災藤は微笑して見守る。そう、それができるから目付け役を押し付けられたのですよ。貴方も私も。
    「……現世で問題を起こせば取り潰しもあり得るぞ」
    「我々のような機関を求めたのは御上だというのに」
    「我々か……」
     厚みのあるレザーチェアが、牛革特有の音を立てた。男は背中を丸め、声を潜め、囁く。
    「お前はいつでも戻って来られるんだぞ」
     なにを言い出すのかと思えば。災藤は思わず一笑した。それまでの笑みより血が通っていたようで、男は眉を上げて驚いている。
    「戻るだなんて、私の居場所を定めるような言い方」
     大組織の悪い癖だ。偉くなればなるほど、部下に居場所を与えてやっていると思い込む。
    「私は、今の私も気に入っているのですよ。かわいい部下のために夜なべして編み物をしたり」
    「日和ったものだな」
    「そちらこそ」
     男は今度こそ、驚きよりも不快を表情で示した。形式上とはいえ上司と部下だ。不遜が許されるはずがない。
     そう思っているのも、骨の髄まで組織に染まった者だけだ。
    「こうは考えられませんか」
     不遜に不躾を重ねて、災藤は腰を曲げて顔を寄せた。先の上司の真似をして声を潜める。
    「肋角はともかく、私もここまで状況を悪化させてから部下を巻き込まれて臍を曲げていると」
     ここまで災藤が逐一引っかかる物言いをしていたことに気付いていないとすれば、普段の姿がよほど無味無毒に見えているのか。災藤自身がそう仕向けているには違いない。上司に言わせるだけ言わせて笑顔でいなし、場を気持ち良く収めることには長けている。ただし、それは己と相手とで事が完結してこそ成り立つ。
    「初期段階であれば、こちらも獄卒たちの派遣だけで済んだのです。うちの子たちは優秀ですから。それなのにひとりは指揮官の無策で行方知れず。今回遣わす子たちも、苦戦を強いられるでしょう」
     灰青色の瞳にまっすぐ見据えられて、男はわかりやすく目を泳がせた。特務室へ直接仕事を回しているのは彼らなのだから、一番身に染みているはずだ。適材適所でいうならこれほどの特務室向けの案件はない。怨霊化が進んだ亡者の相手にも慣れている。一次派遣時ならば亡者もそれほど力を付けていなかった。肋角も特務室も進んで難事を引き受けたのではない。駆り出されたのだ。
    「我々が亡者や怨霊との特殊戦闘に長けているとはいえ、相手は──」
     ぎゅみっと妙な音がして、災藤は半歩引いた。つい詰め寄ってしまっていた。男はイスの上で限界まで身を引き、牛皮に背中と肘を押し付けてなお逃れようとして体を滑らせた。頭から落ちかけた制帽を抑えて、これまた妙な咳払いをしている。
     目に見えて動揺したということは、この上司も閻魔庁も理解している。此度の派遣ですら、すべての獄卒が無事に戻る保証はない。そして災藤の言葉に言い訳も言い逃れもしない彼は、多少なり、特務室の獄卒を駒として消費するに後ろめたさを覚えている。
     それがわかれば、目の前の不憫な男を許してやろうと思える。
    「まあ、過ぎた事を言っても詮無きこと」
     前髪を揺らし、少しばかり愛嬌を取り戻して、災藤は姿勢を正した。
    「彼らの武運を祈りましょう」
     さあ、判を。長い指をひらりと返して、計画書を指し示す。
     男はこれ以上問答をしても分が悪いことを認める。大仰な嘆息もやめ、苦虫を噛み潰して書類の束をめくった。
     神木を憑代とした亡者の捕縛任務。作戦内容に人間の擬態及び生者との接触による現地調査を含む。現世へ派遣する獄卒は以下の七名とする──



     長らくしまいこんでいた外套を纏い、陽の当たらない森を進む。館の裏山や設えられた庭園などとは異なり、地獄の原始林に近いこの森の植物は陽光を必要としない。光合成をしないため触れても冷たいだけだ。それでいて葉は青々として、木の根に隠れて花を咲かせていることがある。現世か、浄土か、光ある世界への憧れを見ているようだ。
    「斬島、ちゃんとお土産買ってきてくれるかなあ」
    「安心して。頼まれた量の半分でいいって伝えておいたから」
     木舌にとって独り言のつもりが、即座に佐疫が後方から答えた。雑談に足を止めるつもりはなく振り向くこともないが、いつもの外套姿でいつも通り微笑んでいるのがわかる。木舌が久々に外套を着て出発しようというときも、丈が短いと指摘して同じ顔で笑っていた。
    「半分じゃ足りないな。仕事終わりの楽しみなんだ」
    「いつも仕事終わりに呑み過ぎだよ。それに酒瓶なんて重い物、持って帰ってくるほうも大変だ」
    「斬島はいい鍛錬になるって言ってたよ」
    「鍛錬になるって、木舌が言ったんだろ」
    「はは、お見通しか」
     木舌は横たわる古木をひょいと飛び越えた。振り向いて、足元がぬかるんでいるから気を付けてと伝える。佐疫はそれまでと変わらぬ軽やかな足取りで着地した。
     肋角から受けた命を遂行するため、ふたりは獄都に根を張る霊樹を目指す。現世の清兵衛杉と庄兵衛杉が町中にあるように、獄都でもそう辺鄙な場所にあるわけではない。物見遊山で行ける程度に道が整備されている。ふたりが魑魅魍魎も寄り付かない原始林を進路に選んだ理由は、誰にも見咎められないため。その一点だ。
    「こんな面倒を引き受けたんだから、今回も多めに見てよ」
    「今回も、っていう自覚はあるんだね」
     佐疫の声に呆れが混じり、木舌は誤魔化すために話題を変える。
    「それにしても、外套って結構まとわりつくなあ。佐疫はよくいつも着ていられるね」
    「そのうち気にならなくなるよ。慣れるまで着ていたら?」
    「こんな仕事じゃなきゃ着ないかな」
     茂みを掻き分け、突き出した枝をかがんで避ける。制帽にも外套にも木の葉や蜘蛛の巣がまとわりついて、パタパタと叩き落とした。
    「おれには隠密行動なんて向いてない」
     斬島たちが現世で任務につく一方で、佐疫と木舌は獄都での秘密裏の任務だ。表向きは全員で現世へ向かったことになっているから、万が一にも姿を見られてはならない。そのために獣道もろくにない森の中を行く羽目に合っている。
    「そりゃあ、誰でも思いつく策だ。許可が下りるわけがないから誰もやらない。許可がないなら黙ってやるなんて肋角さんたら」
    「木舌、声が大きい」
     声音は穏やかなものの不満が噴き出してくるのを感じて、佐疫は木舌の肩を叩いた。そう強く叩いたつもりはないが、広い肩がかくんと落ちる。茶目っ気なのかなんなのか、相変わらず掴み所がない。
    「おかげでおれたち一番損な役回りだ。絶対お偉い方々に叱られる」
     木舌が損得を口にするのは珍しい。肩を落としたのは、今後のことを考えてのことだった。叱られると軽い表現にしてみたものの、実際は処分だ。どんな処分になるかは前例がないため想像もつかない。
    「まあ……閻魔庁が始めに依頼を避けたのもわかるね」
     ふたりきりだからいいかと、佐疫は木舌の不満を認める。特務室の管理長の性格を知っていれば、彼の合理性が組織にとって必ずしも最善ではないことも予測がつく。
    「でも、取り返しがつかない事にならないよう、みんな手を尽くしてくれるはずだよ。信じよう」
     佐疫は努めて明るく、木舌の背中をポンと押す。己の成すべき事を成すため、獄卒たちは役割を果たす。現世と獄都に離れてもそれは変わらない。
    「そうだね」
     半ばで折れて垂れている枝を避けてから、木舌は背筋を伸ばし、空を仰いだ。高く伸びた木々が手を拡げて視界を阻む。この森を抜けてしまえば、より高く天に伸びた霊樹にまみえるはずだ。
     閻魔信仰のある地で樹齢を重ねた清兵衛杉と庄兵衛杉は、獄都に根を張る霊樹となった。大抵の霊樹は信仰を通じて浄土に拾い上げられる。幽世に在るものがまったくないわけではないが貴重な存在だ。現世にまたがる霊樹によって獄卒たちの空間移動も安定するため、例外なく閻魔庁の管理下にある。
    「なにもかも前代未聞だなあ」
     しかし、霊樹がある限り、庄兵衛杉は取り憑かれながらも神木として力を持ち続け、亡者も力を増していく。
    「獄卒が霊樹を切り倒すなんてさ」
     仕事はシンプルだ。しかしその前後は、木舌とて飄々と乗り越えられそうにない。


     ゆっくりと杉林の中を歩く。風が吹き木々が揺れて、木漏れ日がチラチラと斬島の目元でちらついてちょっかいをかけた。時間を持て余していたが、賑やかな館では持つことのない静謐な一時に豊かさを覚える。
     応宗寺の正面まで戻り、斬島は寺と、その背後の巨木を順に見上げた。生者に害をなす亡者の気配はない。庄兵衛杉にも異変はなく、周囲の細く若い木々より抜きんでてどっしりとした存在感を放っている。寺を包む澄み切った空気もまた、この神木の存在によるものだと感じさせた。過去へ遡ってみても、ここに立つ者は皆、神木の加護を感じたことだろう。
     事実、斬島は終始見られていると感じている。
     小さな足音が聞こえて、斬島は階段を見やった。石段を何者かが上ってきている。
    「あら」
     ゆっくりと一段一段踏みしめるように上りきり、乱れた呼吸を整え、着物の衿を正して。そうしてやっと老婦人は顔を上げ斬島に気付いた。人がいるとは思わなかったのだろう。事故があったためか噂の影響か、この寺に人が寄り付かないことは町に住む者にとってすでに共通の認識だ。
    「こんにちは」
    「……こんにちは」
     友好的な挨拶は斬島にとって予想外だった。町の住民から役場の職員に至るまで、現状におけるよそ者への無言の警戒心もまた共通のものだった。
    「お兄さん、マスクしなくていいの?」
    「マスク?」
    「若い人たちはみんな、花粉症がひどいからここには寄り付かないのよ」
    「問題ない」
    「いいわねえ。でも、予防はしておいたほうがいいわ」
     会話するには少々距離があったため、老婦人は階段を上って来たときと同じゆったりとした歩調で斬島に近付いた。小柄だが背筋は伸びて、品の良い佇まいが黒い着物と藤色の羽織に映えている。色が抜けきった白髪は多くの歳月を重ねたことを示しているが、微笑して目元に刻まれたしわは、加齢よりも人の好さを感じさせた。
     斬島のそっけない返答に老婦人は微笑み、それきり会話が途切れた。偶然居合わせただけで互いに用はないのだ。斬島はそれまで通り、視線を杉林へと戻す。老婦人はそのうち用を済ませて帰るだろう。
     斬島の予想に反して、彼女もその場で杉林を仰いだ。その視界の中央に収まるものは、斬島が見るものと同じだろう。しかし空間を共有したとて、見え方がまったく同じということはあるまい。老婦人が庄兵衛杉を見つめる横顔から、それは斬島のような観察ではなく、畏敬によるものだと感じ取れた。
     木々の隙間を風が吹き抜け、時に吹きあげて枝葉を揺する。痩せた杉はギィと軋むが、中央の巨木はびくともしない。繰り返し風が吹くが同じ風はなく、確かに時が流れている。
     ややあって老婦人は、はっとして斬島を見上げた。
    「お兄さんは参拝に来たの?」
     彼女もまた斬島が勝手に立ち去るものと思っていたのだろう。沈黙の時間を取り繕うように話しかける。ずっと近くにいたというのに、神木と向き合っていた時間は他のなにも視界に入っていないようだった。
    「斬島だ。……今日は仕事だ」
    「そうなの。斬島くんね。わたしは千代というけど、ばあさんでいいわ」
     名乗ったことで多少警戒心は解せたのだろう。老婦人も千代と名乗った。またニコリと斬島を見上げる。それを見つめ返して、ふと気付く。彼女も他の町民となにも変わらない。ただ歳を重ねている分、よそ者の前で感情を覆い隠す顔を持っている。それは神木を見上げていたときの横顔に比べれば、仮面のように感情の機微を映さない。
    「こんなところでじっとしていられるなんて、変わってるのね」
     しかし斬島をからかって、その笑顔が真の表情のように和らいだ。この寺と杉を巡る騒動の中で、時を忘れてこの場にいられる者はそういない。それは警戒すべきよそ者というより、単に特異な趣向の変わり者だ。
    「お互い様だな」
     となると変わり者がふたり並んでいることになる。
    「そうねぇ」
     それは彼女も感じていたことなのだろう。言葉を返されて、あっさりと認める。時間と空間の共有が奇妙な連帯感を生んでいた。
    「ちょっと前まで、もう少し人がいたのだけれど」
     伏し目がちに千代は境内を見回した。本堂へ続く石畳は、踏みしめる者がいないため落ち葉や砂ぼこりを被っている。碑文が刻まれた石碑も、人々が休めるようにと設置された木製の長椅子も、すべて等しく寂れた姿を見せていた。
    「ここ最近すっかり寂しくなってしまったわ」
     一通り見渡して、千代の視線は中央の本堂へと戻る。しかし彼女が見るものは、やはりそれを過ぎた先の大杉だった。なによりも寂しいのは、対の存在を失ったあの木だと語るような目だ。
    「斬島くんは怖くない?」
    「なにがだ」
    「あの、大きな杉の木」
     杉を悲しげに見ていた目が、問いかけにより不安の色を混ぜる。
     その問いは突飛なように思えた。寂しさと恐ろしさは同義ではない。それらが繋がるときとは人の主観がそうさせている。なぜこの場所がこんなにも寂れているのか。理由を考えたときに、人の想像力によって付随されるものだ。この町の人間は田噛が耳にした噂の通り、荒唐無稽な想像によって崇敬の対象を得体の知れない恐怖に変質させている。よそ者、とりわけ獄卒には理解できない思考だ。
     神木と呼ばれた巨木を仰ぎ見る。千代が斬島に望んでいるのは、噂など知りもしないよそ者の言葉だろう。感じたままに答えれば良い。
    「立派な杉だ」
     五百余年の間、風雨から寺を守り人間の生活を見下ろしてきた杉は、その幹の太さ以上の懐深さとあたたかさを感じさせる。だから斬島も思わず何度も見上げてしまうのだ。陽光の下で見るその姿は清閑で、内部で亡者が巣食っているとは思えない。
     斬島の言葉を聞いて、千代はやっと安堵の表情を見せた。
    「勝手に悪意を植え付けるから、恐ろしく見えてしまうのよね」
     誰に向けていいのかわからない言葉を、独り言としてこぼす。人間の目に万物がどのように映るのか、獄卒が理解することはない。できることはただ同じように見上げることだけだ。
     不思議な連帯感はいつまでも続くかのように思えた。茂みがガサガサと大きく揺れるまでは。
     千代は右手から聞こえた突然の物音に、目を見開いて半身を引いた。悲鳴を上げなかったのは淑女故か声も出ないほど驚いたのか。腰を抜かされては困ると、斬島は千代の肩を支えた。薄い肩は緊張で強張っている。
     茂みはなおも不規則に揺れる。遊歩道も整備されていない正真正銘の杉林からだ。野良猫や狸といった小動物が立てる物音ではない。獣なら中型かそれ以上はある。千代を抱えたままどう対処するか。咆哮し飛び掛かって来たなら、歯型のひとつは覚悟しなければならない。獣以上の災いだったならどうする。まったくどうして現代の学生は真剣のひとつも所持できないのか──
    「わっ、っとぁ、あべべっ」
     茂みの中から現れたそれは咆哮しなかった。勢いよく飛び出しもしない。つんのめり、よじれた悲鳴を上げて、土の上にずべしゃっと転倒する。
     しっかり三拍、沈黙を挟んで。
    「そういえばいたな」
    「わ、忘れられてたの俺ぇ」
     情けない声で抗議するそれは抹本だった。ダボダボの上着を拡げてうつ伏せに倒れる様は不時着したモモンガのようだ。不時着したモモンガなど見たことはないが。
    「到着して早々ひとりで離れるからだ」
    「うぅ、だって、こっちの森は久々に来たからいろいろ採集したくて……」
     擦りむいた顎をさする抹本の周りには、手折った枝葉やら木の実やら、胞子や苔が入った袋が散乱している。
     町に入ってから応宗寺まで、抹本は斬島たちと共に移動してきた。しかし肋角が煙草を買いに行くと離れた隙に、俺もちょっとだけ、と意気揚々と森の中へ入っていったのである。結局肋角が戻ってきてからも抹本は帰って来なかったし、彼がなんらかに夢中になって姿を消すのはいつものことで、いつもはこういった任務に同行しないためすっかり忘れられていた。
    「あ、えっと、大丈夫?」
     突然の物音と少年の登場に、千代が気を取り直すのには時間がかかった。ともあれ、地面にへたり込んだままの少年を放ってはおけないと歩み寄る。
    「だ、だいじょうぶ……着物が汚れるから……」
     しゃがみ込んで小さな巾着からハンカチを取り出し、抹本の顔の汚れを落としていく。抹本は狼狽しているが、この手の女性をかわすのは苦手で世話を焼かれるがままだ。
    「あら、クロモジ。花を咲かせていたのね」
     次に抹本が散乱させた採集物を集めようとして、千代は一本の木の枝を手に取った。細く伸びた黒い枝の先に、淡い黄緑色の小さな花が咲いている。
    「あ、うん、クロモジ……もうそんな時期だなあって」
     困り顔で逃げようとしていた抹本が、ぱっと表情を明るくする。
    「クロモジはクスノキ科の広葉樹で、クロモジとオオバクロモジとあるけどこっちは葉に光沢があるからクロモジだね……地域や種類にもよるけど、三月から四月にこういう半透明の花を咲かせる。古くから生薬としても活用されていて健胃の効能があるんだ。蒸留すれば香油とか消毒液、芳香剤、それと」
    「お茶かしら」
    「う、うん、今で言う和ハーブの代表格で、お茶としても長く親しまれている。爽やかで上品な良い香りがするから、昔から人間がカミサマに捧げるものにはクロモジが使われていて、例えば」
    「食えるのか」
    「ま、丸かじりは無理だよ……」
     抹本の長い講釈は、斬島が齧ろうとした枝を取り返して終わった。
     ふっと千代の目元が緩む。
    「坊やも斬島くんと一緒で変わってるのね」
    「ま、抹本です……」
    「抹本くん。今日は斬島くんのお手伝い?」
     千代は自分の鼻をちょんちょんと指さしながら、抹本にハンカチを手渡す。抹本は躊躇ったが、やはり押し負けて受け取ったハンカチで鼻の汚れを拭いた。
    「すみません、汚しちゃって……」
    「いいのよ、勉強になったから。抹本くんは物知りねぇ」
     そのハンカチあげるわ、と言われて、抹本は頭を下げるというより首を引っ込める独特の動きで礼をした。
    「クロモジのお花、久しぶりに見たわ」
     千代は小さな花を眺めて、手に取った枝を杖のようにくるりと回す。
    「あ……じゃあそれ、あげる。といってもこの土地のものだけど……」
    「いいの?」
    「お、奥に花がいっぱい咲いているよ。クロモジは杉林の日蔭で良く育つから……いいところだね」
     話と採集に夢中になって、本来の目的も、町で見聞きしたことも失念したのか。抹本はよそ者として、感じたままを口にする。千代の欲しい言葉を察していた斬島よりも純朴な言葉だ。
     それは千代にとって思いがけないことだった。一驚を喫して、手元で揺れていたクロモジの枝がぴたりと止まる。
    「……そうでしょう? 立派な杉もあるし、いいところよ」
     それから思わずほころんでしまった口元に手をやった。枝の先の小さな花が揺れる。慎み深い老婦人の奥にいる、かつての無垢な少女が躍っているかのようだった。
    「ふたりとも、お話してくれてありがとう」
     斬島も抹本も感じたままを話しただけだ。しかし神木とこの寺を思って胸を痛めていた彼女には十分だったのだろう。ふたりを見つめて礼を言う。
    「この場所を好きになってくれたら嬉しいわ。けど」
     しかし、率直な言葉は、聞く者によっては後ろ暗い現実を思い出させる。枝高く揺れていたクロモジの花が、すいと頭を下げる。枝葉を振る無邪気さは、再び歳を重ねて巧みになった笑顔の奥へと消える。
    「お仕事でも、あまりこの町に長居しないほうがいいわ。最近物騒だから」
     口調はやわらかいままでも、千代の言葉はそっと突き放す勧告へと転じていた。近隣で起きている謎の失踪事件。年齢、性別、職業に至るまで共通点はほとんど見られないが、皆なんらかの事件に巻き込まれたと考えられている。共通点がないということは無差別だ。だから町に住む人々は警戒し、怯えている。しかし会ったばかりのよそ者の心配をするのは、この穏やかな老婦人くらいのものだろう。
    「それじゃあ、気を付けてね」
     一歩退いて、彼女にしてみれば若造であるふたりに深々と頭を下げる。
     千代が石段を下りる後ろ姿を、斬島は見えなくなるまで見送った。



     真っ赤な顔の閻魔像の前で、手を合わせて頭を下げる。人間の作法に則ってみたが、頭を下げている間はどうしても笑みが零れた。人間は転生の際に忘却を繰り返しながら、魂の内面におぼろげに残った像を現世にて描き出すことがあるという。初めに地獄の王を描いた人間は、その姿が魂に克明に刻みつけられていたに違いない。
     書蔵庫まで案内されたところで、肋角は役場の職員を追い出した。一瞥しただけなのだが、慌てて出て行った姿を見るに出ていくよう追い立ててしまったようだ。自尊心が高いだとか正義感が強いといった役人は煽てて操るか脅して使うかだが、前者は肋角の得手ではない。恐れられたとして誤解だと説く気はなかった。
     さて、と独りごちて区切りをつける。肋角は両手に黒い手袋を装着し、手近な棚から書物を引っ張り出した。書蔵庫には歴代の住職や僧による記録が数百年に渡り残っている。町民の随想録らしきものも混じっているが、どれもこの寺と背後の杉のことに触れており、長きに渡り愛されていたのだとわかる。寺の者が残っているか、留守を預かっているのが学芸員の類であれば、肋角が好きに書物を広げるなど許されなかっただろう。
     真新しいものから紙が変色した古い書へ、時代を遡っていく。
     明治以前の記録となると、より境内の神木の記録が目立った。元々の土地柄として神道が根強く、この本堂も元は神社としての役割が色濃かった。明治の神仏分離の際に応宗寺と石に名が刻まれたようだが、それ以降も信仰の重きは自然崇拝に置かれていたことは、二本の杉が天然記念物として大事にされていたことから窺える。
     人間でいう近代の部分は情報が詳細だが、中世となると記録が簡略化されていた。年表の注釈のように淡々と綴られ、行間の出来事は別の記録から探し出すか、後世の想像力に頼るしかない。いつの世も史書などそんなものだ。記録も報告書も、詳細に過ぎないほうがなにかと都合が良い。
     巨木が樹齢二百を超えたあたりから、神木としての記述が増え始める。信仰が深まる決定的な出来事は、よくある自然災害からの加護だった。

     元禄元年、川に橋を築造するため杉が二五本切り出される。そのうち切り倒せぬほどの巨木を神木として奉るよう、旗本より命を受ける。
     寛保二年、嵐による川の氾濫から町民たちは社に避難。山で雷鳴が相次ぎ境内にも落雷する。落ちた雷は大杉が受け止め、摩訶不思議なことに火が林に燃え広がることはなく人々を救った。
     寛保四年、大杉に張る注連縄が完成する。二つの幹に同時に張られ、境内では神木を囲み三日に渡る祭事が行われた。
     宝暦七年、清兵衛杉と庄兵衛杉のたもとに……

     その名は唐突に現れる。記録のない数年の間に名付けられたのか、人々の間で通称としてあったものが初めて記録に登場したのかはわからない。天然記念物指定の際にまとめられた諸説の中では、かつていた双子の僧の名前から取ったとする説が有力とされている。それにしては、その僧らの記録が創作のしようもないほど希薄だ。
     書物を開き、あるいは紐解いて、絵が加わろうと文章の体裁が変わろうと、書かれていることは概ね同一だ。それに満足し、肋角は書物のすべてを触れた痕跡が見当たらぬほど元通りに戻した。
     人のような名を持つ杉の由来を知りたいわけではない。ただ、自分の記憶と仮説に裏付けを要した。
     三百年程前だったか、件の杉の霊樹を目にした覚えがある。獄都にある霊樹はすべて閻魔庁の管理下に置かれるため、定期的な調査が行われる。その中に変わった霊樹があると聞いて散歩がてらに立ち寄ったのだ。現世で人間がその成り立ちの奇跡を神格化し、獄都にある霊樹もまたその影響を受けて寄り添うように形を成していた。
    「やはりな」
     それを木舌に聞かれたならば、出立時以上に不貞腐れたに違いない。見切り発車して結果オーライになったとしても、叱られるのはおれなんですよ。
    「あとは木舌が間違えなければいいが……佐疫がついているから心配ないか」
     幻聴になってまで追って来る不満の声を、自分の声で押しのける。部下が増える毎に独り言が増えた、と災藤に指摘されたことがある。言われたその日は、口を閉じているために煙草の量を増やして嫌な顔をされた。
     書蔵庫を出て閂をかける。鍵はあとふたつあるが、それをかけるのはあの役場の青年の役目だ。
     閻魔像の前まで戻り、目の前を通る度に頭を下げる必要はないだろうと睨み付けていると、奥の扉から青年がひょこりと顔を出した。扉の上、非常口のマークの横には「寺務所」と書かれたプレートが掲げられている。
    「御用はお済みですか……?」
     なにもかもが恐る恐るといった様子で問うてくる。久しく館に新人を迎え入れてないため、青年の態度にはどこか懐かしいものがある。
    「ああ。あとは少し君の話を聞きたい」
    「へあっ、じゃあお茶を淹れますんでこちらに……あ、あと頂いたお菓子も少し」
     途端にまた慌てふためく青年の姿に笑いを噛み殺す。閻魔像の馴染みある眉根を寄せた強面は、見ようによっては呆れているようでもあった。


    10
     かつて清兵衛杉と呼ばれていた切株にもたれて、田噛は特にすることもなく足元を見下ろしていた。太い根の隆起にすっぽり収まっているから、居心地はまあ悪くない。清兵衛杉は切り倒された後もしっかりと大地に根付いている。太く伸びた根は隣の庄兵衛杉のものと絡まって、どちらのものだかわからなくなっていた。
     まっすぐ高く育つのが杉の特徴だが、二本の巨木は互いに干渉し合って斜めに伸びている。これ以上生育するには応宗寺の境内は適さないとし、町は五十年前に杉の片方を公園へ植樹する計画を立てていた。当時、複雑に根を張る杉の生育状況を調査した末に頓挫し、時を経て清兵衛杉の伐採へと至った。今日、町で仕入れた情報のひとつだ。
     寺と杉林を除けば境内にはなにもない。斬島が散策に出てから、巨木の周りにいるのは田噛と平腹のみだ。背の高い杉たちが、彼らにとって異物であるふたりを見下ろしている。
     見下ろしている。見下ろされている。
     人間の自然崇拝に感化されての感覚か、それとも実際に何者かに見られているのか。
     田噛は視点を変えることなく腕だけを動かした。手を伸ばした先にも当然なにもない。ただ、霧のようなもやが発生する。田噛がその中に馴染みの質感を探り出して握ると、一瞬でツルハシの形を成した。輪郭だけでなく重量も生まれて、そう力を込めずに傍らの小岩をコンと叩く。音も感触も軽かったにも関わらず、それだけで拳大の岩は粉砕し砂の山となった。ツルハシを肩にかつぎ、また木の根の隙間に身体を収める。
     岩は砂山になり、また一瞬で吹き飛ばされ塵となった。どしんと背中から落ちてきた平腹は、逆転した視界に目を瞬かせている。よじ登っていた庄兵衛杉から落下した衝撃で、そこにあったいろいろなものが吹き飛んだ。落ち葉や土が田噛の靴に降りかかる。顔に飛んできた小枝はツルハシに当たって跳ね返った。それだけのことなのだから、田噛もいちいち気に留めない。仮に平腹が苦悶の声を上げたとしても捨て置いただろう。
     だるい。
     もはや口を開くのも億劫で、喉の奥で口癖を転がす。
    「あなた達、なにをしているの」
     反応してみせることすら億劫でも、それで判断を誤ることはあってはならない。杉林の中から投げかけられた声は捨て置いていいものではないと判断し、目を向ける。平腹も後転に失敗したような格好のまま目玉をぐりんと回した。
     境内には正面の他に道はない。杖にしては細い枝を持った老女が進み出てきたのは、寺を囲む杉林の中からだった。驚きと焦燥が入り混じる表情は、聞こえた声の主だと思えばしっくりくる。
    「さっきまで木登りしてて……田噛、オレ今なにしてる?」
    「知るかよ」
    「庄兵衛さまに悪戯しないで!」
     平腹は老女を相手にせず田噛に話しかける。老女は警戒と敵意を持って声を張り上げる。田噛はどちらも聞き流してしまいたかったが、これも煩わしいと放棄しては後々もっと面倒になる。思案の結果、平腹を無視して立ち上がり、老女の相手を取った。
    「仏教学部の学生です。今日は研究のための調査に」
    「どうした、千代」
     そこによく知る声が割り込んできて舌打ちする。本堂の脇を抜けて散策に出た斬島が、寺の周りを一周する形で戻って来ていた。どうせならもう少し早く戻ればいいものを。
    「帰ったんじゃなかったのか?」
    「あ、斬島くん……」
    「斬島さん」
     田噛は人懐こい声音を作って、斬島の側へ小走りで駆け寄った。今度は田噛がふたりの間に割り込むことになり、不思議そうな視線が二方向から向けられる。
    「知り合いですか?」
     その両方を、田噛は一言で捌いた。これでこのよくわからない状況は斬島が整理することになる。そう仕向けられた斬島は、田噛の普段とは異なる態度はさておき、その場にいる全員の視線を浴びながら頷いた。
    「ああ、さっき少し話をした。帰ったものだと思っていたが、どこから来たんだ?」
    「そこの抜け道から……あっ」
     斬島に訊かれてうっかり口をついて出たと、千代は小動物のように素早く口元を隠した。焦燥に突き動かされて出てきたものの、知った顔の登場により理解が追いつかず毒気を抜かれていた。その表情に先程のような険はない。
    「なー、田噛どうしたんだよ。斬島べつにセンパイじゃねーだろ」
     平腹は失敗した後転ポーズから、開脚後転を成功させて立ち上がっていた。田噛の隣へ移動し、一応声量を抑えて疑問を口にする。こちらは余計なことしか言わない口だ。謎を解消してやらなければ平腹はしつこく食い下がる。
    「俺らはあからさまに警戒されて、斬島はそうでもなかった。怪しい奴が気を許している奴の監督下にあるほうが安心だろうが」
    「ほーん。なるほどねー」
    「あとは先輩に任せればいい」
     一時は雑事の中心となるところだったが、傍観者としての立ち位置を取り戻す。斬島と千代のやりとりを見守って情報だけ拾えばいい。
     抜け道、と言わなくてもいいことを口走ってしまった千代は、しかし寺の正面を避けてこの場に来たのを見られて観念した。じっと見つめて問う斬島の視線を、背後の杉林を指さして誘導する。
    「この先にね、小さな道があるの。子どもが作ったちょっとした抜け道」
     斬島よりも先に平腹が飛び出して、千代が示す道を確認する。離れても「へぇー!」と感嘆の声がはっきり聞こえた。
    「こっそり清兵衛さまと庄兵衛さまに会いに来たのに、表に斬島くんがいたから裏道を通って来たのだけれど」
     羽織の肩に木の葉が乗っているのに気付き、そっと払う。一枚の葉がひらひらと舞って、やがて還る土へと落ちた。
    「結局見つかってしまったわねぇ」
     はしたないと恥じて苦笑する。所作のすべてが品よく、まさかこの老婦人が杉林の傾斜を登ってくるとは思わない。
    「ばあちゃん、足腰つえーな!」
     好奇心の矛先を変えて平腹が駆け戻って来る。道といっても長年踏み固められて雑草も生えなくなった獣道で、滑る土の坂は老人が難なく進めるようなものではない。当然、少し町を出歩くような和装で歩ける道でもなく、千代の足元は草履や足袋、着物の裾まで土で汚れてしまっていた。
    「年甲斐もなく無茶をしてしまったわ」
     千代は己の姿を見下ろして、ため息をついた。斬島は相変わらず千代を見つめていたために、顔を上げた彼女と目が合ってしまう。少し間があって、千代は目を細めて笑みをこぼした。
    「ふふっ」
    「どうした」
    「殿方に親しげに呼ばれるなんて久しぶり。こんなおばあちゃんなのにねぇ」
     人間は年配者の名を呼び捨てになどしない。斬島はなにがおかしくて笑われているのか理解できず、首を傾げる。
    「斬島くんの、後輩の方かしら。ごめんなさいね。ツルハシなんて持っているからびっくりしてしまって」
     笑った余韻を表情に残したまま、千代は田噛と平腹へ謝罪した。
    「……根を張る邪魔をしている岩を、取り除こうかと思って」
    「ありがたいわ。ちゃんと根をはれば、庄兵衛さまが倒れる心配もなくなるかもしれないし」
     この老婦人は余程おおらかなのか、持ち合わせた品に見合う環境で生きてきた世間知らずなのか。斬島の非常識さも、田噛の適当な言い訳もあっさりと受け入れた。はじめの警戒心剥き出しの姿ではなく、こちらが本来の彼女なのだろう。相手の話によく耳を傾けて状況を整理しようとする。冷静になって視界が開けたかのように周囲を見回した。
    「そういえば、抹本くんは?」
    「抹本?」
     斬島は、その名が出てくるのが予想外といったふうに復唱して、
    「き、きりしまぁ、待ってぇ……!」
     呼ばれたからか偶然か、斬島が出てきた道から現れた丸い影がひとつ。よたよたと左右に揺れて歩くそれば、自身よりもひとまわり大きなリュックサックを背負っている。姿を見るより先に抹本の声が聞こえていなければ、平腹が新種の怪異として蹴り転がしていたかもしれない。出立時から大荷物を背負っていたが、ここにきてまた荷物が増えてシルエットがすっかり変わっていた。
     斬島、田噛、平腹が顔を見合わせるのに三拍。
    『そういえばいたな』
    「に、にかいめぇ……!」
     三名の唱和に対し抹本は息切れ切れである。その場に尻もちを付こうとして、丸々したリュックサックの方が先に地面について荷物に埋もれる格好となった。平腹が横のチャックを開いて中をあさり出したが、抹本は息を整えるのに精一杯だ。千代の存在に気付いたのは、水筒とキャラメル一箱とクッキー缶を奪われた頃だった。
    「あれ、さっきの……どうしてここに?」
    「清兵衛さまと庄兵衛さまに会いに来たの」
     千代が手を貸して、抹本はやっとリュックサックから腕を抜いて立ち上がった。後ろではクッキー缶を開けた平腹が「虫じゃん!」と大騒ぎしている。斬島がキャラメルの箱を開けて口の中に放り込んでやると静かになった。ひと粒で三十秒黙るようだ。
    「千代さんは、この杉のことをよく知っているんですか?」
     田噛と平腹も名乗る程度に自己紹介を済ませ、詮索される前に話題を千代に振る。田噛の問いに、千代は『庄兵衛さま』と呼び慕う巨木を見上げて、杉林にぽっかり空いた穴から注ぐ陽光に目を細めた。
    「この町の人はね、小さい頃はみんなここで遊んだのよ」
     勾配の多いこの町は、応宗寺を囲んで小高い丘が連なっている。寺の裏の坂の上は古くから居住区となっており、千代はその家のひとつに生まれ、この町で生きてきた。幼少期には町の子どもは皆この境内に集って遊んだ。杉林から直接巨木の周りに出る小道も、秘密の抜け道として子どもたちの手で作られたという。
    「そういえば田噛ちゃん、わたしの子どもの頃の友達に似ているわ。清兵衛さまのお膝に座っていたところとか」
    「……収まりが良かったもので」
    「そうそう、そういうところもそっくり」
     思い出話をしながらコロコロと笑う。ここ最近では、この杉にまつわる良き思い出を語る者もいないのだろう。話をする千代は楽しげだ。その表情がふいに翳る。
    「嫁いだときも、子どもを授かったときも、清兵衛さまと庄兵衛さまにご報告して……でも今は、庄兵衛さましかいない」
     足元に伸びている巨木の根を見下ろす。老婦人の白い足袋が土で汚れているのは、ここにあるのが覆せない現実であっても、足を運ばずにはいられないからだ。
    「清兵衛杉は、倒木の恐れがあったために伐採されたと聞いたが」
    「ええ。寺や人々を守るためには仕方のないことだった。でも」
     斬島の言葉に千代は否定の句を継ぎかけて、かぶりを振る。斬島たちが神木の祟りの噂を知っていようとなかろうと、彼女の口からそのことが語られることはない。それだけの信仰心が彼女の中にある。
    「……こんなことになるなんてね」
     今は立ち入り禁止区域であるはずの杉林には、真新しいゴミや廃棄物がちらほら見られた。清兵衛杉の切株の縁には液体をかけられたあとがある。田噛と平腹を見咎めた千代の剣幕から察するに、庄兵衛杉にもなんらかの悪戯をされているのだろう。悪しき風聞が広まった場所には悪意が募る。呪いや祟りと取り沙汰されたあとなら、人間の娯楽として肝試しに最適だ。だから役場の青年が寺に駐留し監視している。
    「しょうがないことね……人間は弱い生き物だから」
     正体がわからぬもの、形が見えないものを知覚できず、敬い畏れ、時に忌避する。それは人間だけにある情緒だ。
    「……でも、」
     抹本のか細い声は、それでも静かな林の中では十分に通った。注目を浴びて、わたわたと無意味な手振りをする。自分の研究成果や薬の効能を発表する時はともかく、場の中心になることには慣れていない。
    「で、でも、千代さんは、わかってるでしょう?」
    「わかってる?」
    「清兵衛杉は、今もここにいるし、怖くないって」
     それでも、しどろもどろに話を続けるのは、事実を事実として伝えたいがためだ。
    「ま、町ではみんな清兵衛杉の呪いとか残された庄兵衛杉の呪いとか、まるで清兵衛杉が死んだみたいに扱っているけど、あれは間伐や剪定に近くて……だから切り株もまだ死んでないし、千代さんも、『清兵衛さまと庄兵衛さまに会いに来た』って言ってる……信仰が、生きている」
     抹本は足元から一本の黒い枝を手に取った。その場にあったものではなく、平腹がリュックサックの中から取りこぼした物だ。同じ物が、千代の手に握られている。
    「このクロモジも、活用したり意味を持たせたりするのは人間で、そういうのを、カミサマとか、超自然的なものはちゃんと見ていて、だから、ええっと、あれぇ……?」
     事実だが、感覚的な話をしている。抹本を知る獄卒たちは、彼がらしくないことをしているとすぐに気付いた。得意の理論や実証に基づいた話でないため、抹本自身もこんがらがって着地点を見失っている。
     余計なことを口走る前に、田噛は斬島からキャラメルの最後の一粒を奪って抹本の口に放り込んだ。不思議と抹本もそれで黙る。
    「だから、千代さんはそのままでいいんだと思います」
     田噛は簡単な一言で話をまとめた。この場にいるのは獄卒だ。どうあっても、老婦人の感傷には寄り添えない。田噛の言葉も聞こえが良いだけで、受け取る側次第でどうとでも変わる曖昧なものだ。
    「だけど、わたし一人が思ったところで……清兵衛さまも庄兵衛さまも悲しいでしょうに……」
     はたして木々に感情があるものか。あったとして内面を覗く術を持たない人間にわかるはずがなく、獄卒と人間がわかり合えないのと変わらない。
    「千代さんが一番悲しそうに見えますけどね」
     人間の見る世界などそんなものだ。自身の推量を見える世界に当てはめているに過ぎない。
     田噛の指摘に、千代は目を見開いた。神木の話をしていたのに、自分の話になるとは思わなかったのだろう。
    「だなー。ばあちゃんが悲しいって思うからそう見えるんだよ」
     周囲をうろちょろしていた平腹が、急に千代の背後から顔を覗かせて彼女を驚かせた。少しよろめいた肩を支えて、無遠慮にぽんと叩く。
    「昔は人がいっぱいいたから楽しかったんだろ? 今だってばあちゃんが遊びに来てくれるからスギたちも楽しいだろ。あ、嬉しいか? まあなんでもいいや」
     平腹はあっけらと言って、千代の肩や背中をパタパタとはたき続ける。杉林を抜けてついたのは木の葉だけではなく、埃や蜘蛛の巣が上質な羽織を汚していた。人間の考え方に則れば、こうしてなりふり構わず会いに来る者の存在は、神木にとって幸福であるはずだ。
    「千代さんの心持ち次第なんですから、良い方に考えた方がいい」
     人間の都合の良いように考えればいい。信仰とはそんなものだ、というのは田噛の乱暴な持論だろうが。
    「……そうかしら」
    「そっ、気の持ちよう!」
     寂しいはこれで終いと千代の両肩をたたいて、平腹はニッと歯を見せて笑った。つられて、千代も「そうね」と微笑む。
     自身の足元での出来事に、庄兵衛杉は応えない。ただ、神木が纏う静穏な空気がその場にいる者までも包んでいる。
    「おや」
     枝を踏む音。恐らくそれまで気配を消していたのだろうに、わざと足音を立て、声を発する。獄卒たちは同時に肋角の姿を視界に収め、表情を硬くした。肋角との距離はそれぞれ三メートルと少し。ここまで接近を許し、且つ気付くことができなかった。気配を消して近付いたということは抜き打ちテストのようなものだ。肋角の気分次第ではペナルティがあるかもしれない。
    「うちの学生が失礼をしませんでしたか」
     獄卒たちの緊張は素知らぬふうで、肋角は千代に会釈する。
    「いいえ、若い子とお話できてとても楽しかったわ」
     若者たちが咄嗟に姿勢を正したことと、肋角の言葉で関係の説明は済まされた。千代は突然現れた男に驚いてはいたものの、友好的な印象を持ってにこやかに応じる。
    「みんなとっても優しくて良い子で。今日は先生のお手伝いかしら。熱心ねぇ」
    「とんでもない。久々の遠出に羽目をはずし過ぎているくらいですよ」
     やはりこれは後々なにかある。そういえば肋角はつい最近、長いこと蔵の整理をしていないからそろそろ風を通さなければ、などと独り言を言っていた。それが独り言となったのは、その場にいた獄卒たちが速やかに席を立ったからだ。以前進んで蔵の整理に入った谷裂が、奇怪な呪いを受けて出てきたことは皆よく覚えている。しかも谷裂は蔵でなにを見たのか頑なに口を割らない。そもそも酒蔵なのか書庫なのか、用途と収蔵物がわからないところが胡散臭い。
     罰を怖れる獄卒たちをよそに、肋角と千代は朗らかにやりとりをしている。それもガサガサと聞こえてくるやかましい足音に割り入られた。
    「ああっ、千代さん、また勝手に入って」
     落ちた枝葉を蹴散らして現れたのは役場の青年だ。立ち入り禁止の境内にまた増えた姿に困った顔をしている。
    「あら、ごめんなさいね。今日は通せんぼされなかったから」
     どうやらよく知る仲らしく、千代は口では謝罪しているがけろりとしている。
    「大体ここにいる全員! 御神木に近づくんじゃない! 立ち入り禁止のロープが見えないのか?」
    「んーと、見えてたから、跨いだ」
    「入っちゃダメってことなんだよ」
     声を張り上げたところで平腹は取り合わず、斬島も入れるのになにが悪いのかと怪訝な顔だ。田噛はさりげなく千代の隣へ移動して立ち位置を変えた。
    「君も、さっきはいなかったけど仲間かな」
    「は、はぃ……」
     矛先を向けられた抹本が消え入る声で返事をする。平腹が散らかした荷物を詰め込み直しているところだった。
    「それはクロモジか? ここに自生しているものは勝手に採っちゃダメなんだよ」
    「そうなの? この前こごみを採ったばかりだけど」
     千代の声に、青年はぐっと言葉に詰まる。
    「ほら、天ぷらと煮びたしにしてあげたでしょう」
    「……えぇ、ごちそうさまでした」
    「いえいえ、お粗末さまでした」
    「いいよ、今日のところは。お茶にでもするといい」
     お手上げ状態で、青年は侵入者の植物の持ち出しを見逃した。柔軟に応じたというよりは、さっさと出て行って欲しい気持ちが勝ったのだろう。六対一では形勢不利だ。
    「それじゃあ、皆さんも気を付けて帰ってね」
     千代は肋角に頭を下げて、斬島たちに微笑んでから、秘密の裏道ではなく寺の横から正面へ抜けるために踵を返した。ふと気付いて、田噛はその後ろ姿を追う。
    「どうぞ」
     道を横切るロープを押し上げ、千代が通る道を拓く。跨ぐにしても屈んでくぐるにしても、和装の老婦人には難儀なことだ。
    「ありがとう、田噛ちゃん」
     千代は若者の親切にどこか照れくさそうに笑って、田噛が作った道をくぐった。
    「ばあちゃん、また来いよー」
    「おいキミ、勝手なことを言うな」
     平腹が大きく手を振り、千代も手を振り返す。青年の言葉は気の毒だが誰も聞いていない。
    「ええ。みんな、またね」
     老婦人は最後まで品良く、ロープの向こうでもう一度頭を下げて去って行った。
    「田噛ぃ、紳士じゃん。やっさしー」
    「ダメ押しだ。これで怪しい奴がいたなんて話にはならねぇだろ」
     人間の噂は変幻自在だ。無関係な話を繋げてねじって、どんな形で妄言を生み出すかわかったものではない。現世に来た獄卒が噂の一端となるのは避けなければならなかった。
    「……つーかなんで俺だけちゃん付けなんだよ」
    「田噛ちゃーん」
    「殴る」
    「なんで俺だけ!」
     ツルハシの柄で一撃しようと振り上げるも、平腹は素早く逃げて斬島の背中に隠れた。田噛は聞こえよがしに舌打ちし、ツルハシを肩に担ぐ。
    「あなた方も……本来ここは立ち入り禁止なんですから」
     相手にされていないと感じつつも、青年は果敢に肋角たちへ退場を促した。目の色に怯えがあるが、職務を全うしようという責任感もまた負けじと表れている。
    「ああ、君の協力に感謝する。長居してすまなかったな」
     肋角はどんな立場であれ、筋の通った者を好む。礼を言われて、青年はぽかんと口を開けていた。勧告してはみたものの、また睨まれると身構えていたのに拍子抜けしたという顔だ。
     肋角が帰るというのであれば、獄卒たちもその後ろに付き従う。田噛、その次に抹本を荷物ごと担いだ平腹と続き、斬島が最後にロープを跨いでから一礼すると、青年もはっとして頭を下げた。
    「肋角さん、今夜にでも」
     斬島はすぐに肋角より半歩後ろに追いついて指示を仰ぐ。
    「ああ」
     寺の正面まで来て、肋角は杉林を振り返り仰いだ。重なる枝葉の屋根にぽかりと空いた穴。その横に、片割れに取り残された巨木が静かに佇んでいる。
    「我々を怖れてなりを潜めているわけではあるまい。夜には本性を現すだろう」
     陽が沈むまでに得た情報を整理し、作戦を整える。とはいえ、成すべきは亡者を引きずり出し冥府へ送ることだけだ。亡者の作る亜空間に乗り込むことになるのだから、事前にあれこれと対策を練ったところで徒労である。適宜戦況に応じなければなるまい。
    「田噛」
     肋角の視線を受けて、田噛は肩にある重みを思い出した。獄卒の武器は身体の一部のように馴染むものだから、手にしていることが当たり前で意識していなかった。
    「無暗に武器を召喚するな。万が一ということもある」
    「……はい」
     空気に解けるように、一瞬でツルハシが消える。
    「あ、田噛さっき助けてくれたんだよなー。ありがとなー」
    「擬態中に血みどろになられたら面倒だっただけだ」
    「照れんなよ~」
    「礼はいいから殴らせろ」
    「忘れてなかった!」
    「そういえば全員、次の非番は館の蔵の前に集合だ」
    「はい」
    「……はい」
    「お、俺も……?」
    「こっちも忘れてなかったーッ!」
     油断して田噛から逃げ遅れた平腹は、八つ当たりもあって容赦なく殴られた。

    11
     夕刻になると風は冷気を含み、陽光の名残を掻き消していく。
     陽が沈み切る前に、寺務所から人影がひとつ町へと下りて行った。さすがに当直はないのか、食事をとりに出ただけなのか。あの青年がいずれ戻って来るならば、早々に事を片付けなければならない。
     青年の帰りに間に合わなかったところで、周囲を取り巻く異変に気付いて逃げ帰るかもしれないが。
     黄昏時でありながら、杉林に囲まれた応宗寺境内は一足先に夜の帳が降りている。
     濃緑の闇の中で、人ならざる者の双眸が輝く。獄卒の制服に袖を通して、肋角率いる特務室の獄卒たちは庄兵衛杉の前に立っていた。
    「制服って仕事スイッチ入るよなー。みなぎるっていうかさ!」
    「お前のどこにそんなもんがあるんだよ。ここか?」
    「いってぇ! そこグリグリやばいぃだだだだっ」
     人間の中に溶け込むための仮の姿から、獄卒としての姿へ。斬島は刀を帯び、田噛も再びツルハシを手にしている。平腹は背骨への執拗な攻撃を防ぐためにシャベルを背中に当てていた。平腹のように跳ね回るまではいかずとも、斬島もまた己の在るべき形を取り戻した心地だ。それに。
    「やっとしっくりきました」
    「ん? お前にも明確な切り替えがあるんだな」
    「いえ、肋角さんの格好が」
    「ああ、その話か」
     肋角も上司として仰ぐいつもの姿だ。思いの外しつこいなと、肋角は自分の姿を見下ろして苦笑する。
    「あ、オレも思った。肋角さん私服のほうがカタギじゃない空気ビンビンでこえーもん」
    「平腹、俺はそういう意味で言ってない」
    「ほ?」
    「平腹、蔵の整理は最奥を頼んだぞ」
    「ふぉおっ」
     日中、陽光の下で神木としての存在感を放っていた庄兵衛杉は、日が暮れて杉林の中でさらなる特異点と化していた。太く伸びる幹は黒い柱のようで見る者に圧迫感を与える。ただの人間ならば印象の差異はその程度で済むだろう。勘が鋭い者になれば、近付くべきではないと防衛本能が警鐘を鳴らす。
     獄卒の瞳で見る世界は、人間よりも深く先まで見通し、本質を捉える。巨木の根本から滲む怨嗟の気配が、腐臭のように漂い脚に纏わりついた。
    「わかりやすく変質しましたね」
    「獄卒もなめられたものだ」
     先にやって来た獄卒を取り込んで気が大きくなっている。潜む亡者をそう評して、肋角は足元まで伸びている根を踏みつけた。反撃してくる、ということはない。
    「抹本」
    「は、はい」
     一歩後ろで肋角の影に隠れていた抹本が、斬島の脇から顔を出す。外套の下で革ベルトと薬剤の小瓶たちが擦れる音がした。
    「見立てはどうだ」
     闇の中、抹本の黄緑の瞳は濡れた鉱石のように昏く光る。
    「まだ……違ったら、木舌ごめんね、としか」
    「一緒に謝ってやる」
     斬島の目に映る肋角と抹本に悪びれた様子はない。ふたりの会話の意味もわからなかったが、説明しないということは知らなくていいということだ。肋角が余計な情報を与えないというのならそれに従う。
    「ぶえっ、抹本くせぇ! くっせ!」
     肋角の話に興味を持って近寄ってきた平腹だが、抹本の後ろで鼻をつまんで大袈裟に仰け反った。抹本は気弱そうな目元をさらにハの字にして、パタパタと外套をはためかせる。
    「く、くさくないよ、クロモジの香りだよ……蒸留器を持ってきたから、蒸留してみたんだ」
     平腹に手招きされて寄ってきた田噛も、鼻をスンと鳴らして顔を顰めた。
    「なんかガチャガチャやってると思ったら……うぇ、刺激臭」
    「クセーッ!」
    「くさくないってぇ……っ! 爽やかで、ちょっぴり甘くて、スッキリするでしょ。精油にはアロマ効果があるし、抗菌作用だって……」
    「ギャーッ! 目潰し!」
     抹本は小さなアトマイザーを取り出して平腹に吹きつける。斬島の元にもほんのり香ったそれは、木々の香りが濃く立ち込める雨上がりの森を思い出させた。
     庄兵衛杉の周囲は、ちょうど人間が張ったロープが現世と異次元の境となっていた。その線引きが力の限界だと見せかけている。短期間に五人の生者にその魔の手が及んでいるのだ。現世への干渉力はこんなものではないだろうに。
    「田噛」
    「はい」
     肋角に呼ばれ、田噛は平腹を押しのけて横に立つ。
    「昼間の話が途中だったな」
     やり返そうとした平腹は、あえなく肋角に襟首を捕まれて釣り上げられた。さすがにそれ以上騒ぐのをやめて、降ろされてからはシャベルで土をにじっている。
     報告と、己の見解とを交えて、田噛はどこか慎重な面持ちで口を開いた。
    「……今回の事件での失踪者は五名。そのうち一名は目撃者がいました。道で偶然すれ違い、物が落ちる音に振り向くと、そこには被害者が肩にかけていた鞄だけがあって姿を消していたと」
    「典型的な神隠しだな。なにが気になった」
    「典型的すぎます。シンプルだからこそ、それは神霊級の存在にしかできない。肉体を失った亡者は、特殊な磁場に感応して亜空間を発生させるか異次元に迷い込む事はあっても、自らの単一意志で次元干渉、疑似空間展開、ましてや対象の空間転移なんてできるわけがない。できるのはせいぜい、人目につかないよう生者をさらうか殺すかするくらいでしょう」
    「神木を憑代としたことで力を増幅させている、というのが閻魔庁の見解だ」
    「元々ある能力であれば増幅に違いないですが、ただの亡者にそんな力はない。たとえ生前が僧侶であろうと、輪廻の途にある以上は有象無象と変わらないはず」
    「やつらの見解が上滑りしているとして、田噛、お前の見解は?」
     問答の末、肋角は田噛に答えを促した。田噛もそれを予期して慎重に応答していた。肋角がそれを許すならば間違った回答ではない。だからこそ、行き着きたくない答えではあったが。
    「亡者が憑代の神性を完全に掌握している、もしくは、敵性存在は亡者だけではなく神霊──この神木であると考えられます」
     それでも確然と答える。部下の報告に肋角はひとつ頷いた。
    「清兵衛杉と庄兵衛杉が、その成り立ちから神格を有し神霊化しているとすれば。亡者が憑代としているだけではなく、神木が呪い木と化している可能性は排除できない」
     田噛の解に加えて、肋角は日中に応宗寺の所蔵庫を調べて至った己の見解を聞かせる。
     応宗寺の大杉が神木と奉られ幽世にまで根差すに至ったのは、かつて肋角が目にした霊樹の形をとっても、清兵衛杉と庄兵衛杉の対の名を得てからと考えられる。樹齢を重ねただけでなく、人間の信仰によって後天性の土着神として神霊化するのは珍しい話ではない。しかし正式に天部へ召し上げられた神格ではないだろう。現世で神格を得た付喪神などをすべて認知していたらキリがない、というのがあちらの言い分だ。
    「現世での役割を終え、形を捨て真に解脱すれば天部の末席には加えられたかもしれないが。清兵衛杉が切られたことが事の発端なら、その境地には至らなかったのだろう。現世での生や器にこだわれば道に迷うのは人間と同じだな」
     存在の核を霊樹に移し、現世にあるのは影に過ぎないのだから、本来であれば人間の手による伐採など神格に影響しない。亡者に取り憑かれることもあるはずがなかった。
    「亡者だけではなく神霊までも狂暴化しているとすれば、過ぎた力も閻魔庁の苦戦も合点がいく。神格を落として祟り神になっていたとしても、この世では神霊に分があるからな」
     肋角は淡々と語るが、先の討伐体が大敗を喫したことを思えば、その差は苦戦で済ませられるものではない。
    「討伐対象が図に乗った亡者か、閻魔庁に仇なす神霊か。真相によって難易度が変わるな」
     賭けやゲームのように言って笑う肋角は不敵に思えた。彼にしてみれば、亡者だろうと神霊だろうと相手にして大した差はないのかもしれない。ともすれば、獄卒たちに走る緊張すら楽しんでいる。
     不死であるはずの獄卒が、すでに二十名消息を絶っている。その数が増える可能性もあるのだ。
    「さて。お前たち、覚悟はいいな」
     だが、それで怯むような獄卒は特務室にはいない。肋角の言葉に、それぞれ武器を取り正面を見据える。
    「斬島」
    「はい」
     名を呼ばれて進み出る。斬島はカナキリを抜き、ロープごと空間の狭間を切り裂いた。途端に世界の色が塗り替えられ、空気が肌を突き刺すかのように張り詰める。杉林のはずれにあった小動物の気配、町から聞こえていた車の排気音、すべてが遠ざかったのちに、ぷつんと切り離された。亡者が作り出した異空間に生者は入り込めない。いるとしたならそれは亡者に招き入れられ、その手にかかる者だ。
     空間がさらなる変異を遂げても、景色は未だ現世のそれを模していた。敵が姿を現すわけでもなければ、脅威が口を開けて待ち受けているわけでもない。親切に出入口が用意されているはずもなかった。
    「あくまで招かれざる客か」
     それが無粋に立ち入るのなら、どのような報復を受けても道理だ。
    「平腹」
    「ハイッ」
    「思いっきりやれ」
     肋角から平腹へ下された命は珍しいものだった。己の力の加減を知らぬ平腹は、何事においてもやり過ぎるきらいがある。得意の穴掘りでさえ、庭に苗を植える穴を掘るはずが棺桶ひとつ収まる大穴を開けたことがあった。ちなみにそこには空の棺桶が埋められて、次になにかやらかしたときは中で謹慎することになっている。
     思いっきりやっていい。つまり、手加減だのなんだの余計なことは考えなくていい。
     肋角の言葉に、平腹は黄色の瞳を爛々と輝かせる。
    「よっしゃあ!」
     気勢を上げて飛び出し、三歩目で高く跳躍する。左手に掲げたシャベルは巨木の一点に狙いを定めていた。
    「待て平腹、俺たちが退いてから――」
     斬島の制止が間に合うはずもない。せめて聞き入れて力を緩めてくれればと願ったが、力の解放を許されて嬉々としている平腹にその声は届かなかった。
    「思いっきりーッ!」
     平腹のシャベルが、清兵衛杉の切株と庄兵衛杉のたもとに振り下ろされる。
     弾頭が着弾したかのような衝撃に地面が揺れた。土砂が爆炎のように膨れ上がる。眼球を守るために閉じた瞼の裏で、炎などないはずなのに赤い光が明滅した。
     ともあれ、回避は間に合った。もうもうと上がる砂煙の中、肋角と斬島は庄兵衛杉の枝の上から地面を見下ろした。斬島の頭上では、肋角に放り投げられた抹本が枝にしがみついてもがいている。
     平腹は明確な指示を受けず飛び出したが、なにも考えていないわけではなかった。最も濃厚に怨嗟があふれ出る、清兵衛杉と庄兵衛杉の狭間を穿孔している。どこに道を開けたところで、討伐隊を瓦解させた亜空間に誘われるだろうが、核の近くから入り込むに越したことはない。
    「平腹の全力でも根が砕けない。随分と力を溜め込んでいるな」
     肋角は衝撃の余韻でびりと痺れている幹に触れる。平腹の一撃で根本が破壊されていれば、この巨木も大地に横臥している。外部からの攻撃が効かないのであれば亡者を炙り出すことは不可能だ。作戦はこれまでの獄卒が誘い込まれたように、敵の懐へと攻め入るに限られた。
     砂埃が晴れて、穴の中央で飛び跳ねている平腹の姿が現れる。
    「お? おおお? なんだこれー」
     穴の中央であるはずなのに平腹が落下しないのは、そこに膜のような結界が張られているためだ。黒曜石のように黒光りして平腹の靴底を弾いている。防護は厳重で、そこが核の近くであるという確信を強めた。
    「田噛は……」
     斬島は辺りを見回す。平腹の行動を読んで、誰よりも先にその場を飛びのいていたはずの彼の姿がない。
    「今しがた飛び降りた」
     肋角の言葉に足元を見やる。ちょうど平腹も、上空から降りてくる相棒に気付いて顔を上げたところだった。
    「おっ! 田噛ぃー、これどうする?」
    「お前はとりあえず埋まっとけ」
     気怠げな声音とは対照的に、振り下ろされたツルハシは鉄器特有の唸りを上げて結界に突き刺さる。
     鉱物がヒビ割れる音がして、次の瞬間には結界が砕けた。穴の底から熱風のような瘴気が噴出し欠片を吹き飛ばす。それは枝の上の斬島たちにまで届かんとし、巻き込まれる寸前で飛び降りて逃れた。
     地面に開いた大穴の縁に着地する。平腹が地面に仰向けに寝転がって、その横で座り込んでいる田噛に抗議の声を上げていた。
    「あぶねぇな! 落っこちたらどうすんだよ!」
    「自分のこと棚に上げんな」
    「え? オレなんか危ないことした? した? 抹本」
    「ぅえ? うん、した、危なかった」
    「マジでー? そっかー、ごめんなー」
    「肋角さん、こいつひとりで蔵掃除やるそうです」
    「感心だな」
    「ごめんってばああああ!」
     穴から噴き出した瘴気は数秒と待たず鎮まった。覗き込むとしばらくは土に張る根の断面が見え、やがて先のわからぬ暗闇となる。これが獄都に続いていれば事は楽に片付いた。目に見えずとも、霊脈が歪み亜空間へ繋がっていることが感じられる。
    「飛び降りますか」
    「それしかないな」
     斬島の問いに肋角が頷く。
    「よっしゃあー! 行くぜー!」
    「待て平腹」
    「ぐえっ」
     先陣切って飛び降りようとした平腹は、またも肋角に襟首を掴まれて阻止された。地面に降ろされ、くるりと身体の向きを変えられる。そこを見ろということだろう。斬島と田噛もその場で振り返る。
     黒い杉林がざわめく。風が吹いているわけではない。霊魂が枝葉を揺すりながら飛び回り、それを囃し立てるように魑魅魍魎が飛び跳ねている。甲高い哄笑。地響きのような咆哮。それらが渦のように辺りを取り巻く。
    「神木――もはや呪い木か。強大な呪場に取り込まれることを望む霊魂と、棲家にしようとする魑魅魍魎がこぞって来る」
     獄卒の存在に気付いていないわけではあるまいに、霊魂と物の怪は徐々に包囲を狭めていた。数で圧倒する、隙をついて穴に飛び込む、どちらにしろ碌なことを考えていないとわかりきっている。どれだけ集まろうと獄卒の敵ではないが、穴に飛び込まれては困る。塵も積もれば山となり、霊魂も束になって取り込まれれば亡者の糧に足る。
    「田噛、平腹。殲滅しろ」
     掃討戦には隙のない阿吽の者が適任だ。肋角の命は、田噛と平腹に下された。
    「ええー、オレも中に入りたい~」
    「中より外のほうが広々と暴れられるぞ」
    「ちぇー」
    「だるい……」
     不平不満と言ったところで命令が覆ることはない。ぼやきながらも、ふたりは武器を構えた。それだけですっと呼吸が揃う。
    「斬島、抹本、行くぞ」
     この場を田噛と平腹に任せ、斬島と抹本を伴って肋角は躊躇なく穴へ飛び込んだ。退路を任された者、敵地への随従を命じられた者と等しく責務を課される。武器を握る手にも力が入った。
    「あいつらたくさん殺った方が勝ちな!」
    「お前、十から先数えられるのかよ」
     穴に飛び込む直前、そんなのん気な会話を聞きながら、斬島は肋角の背中を追った。


    12
     穴は覗き込んだときの読みほど深くはなく、足裏はすぐに地面を踏み締めた。落下中に空間が歪み、どこかへ誘導されたのかもしれないが。
    「……抹本?」
     暗闇の中、肋角が変わらず斬島の前にいることは、彼が気配で示していることで知れた。しかしほとんど差もなく飛び込んだはずの抹本の存在が感じられない。名前を呼んでも応答はなかった。
    「分断されたか」
    「探しますか」
    「先へ進む」
     抹本は戦闘員ではない。ましてや敵が掌握する空間での単独行動など、消息を絶ったも同然だ。しかし肋角は斬島の提言を一蹴する。
    「抹本はこちら側を選んだ。どう動くかはあいつに任せる」
     踏み出す一歩目だけ靴音を立て、肋角はふたりで進行する判断を下す。斬島も食い下がることなく、二歩目から先は足音を消した肋角を追う。
     暗い道で、先を行く背中は視覚に頼らず気魂を捉えることで感じることができた。それ以外は闇に溶けてしまいなにも見えない。試しにカナキリを鞘に収めたまま軽く振る。切っ先に当たるものはなく、刀を振るう広さはあるようだ。それだけわかれば十分だった。
     肋角はというと、その場の広さも、そこが一本道であることもわかっているかのような足取りで闇に踏み込んでいく。下手に道を探したところで、この場が敵の手中である以上、誘われる以外に行き着く場所はない。
     徐々に閉塞感が薄れ、道が広くなってきた。実際は道幅など変わっていないかもしれない。視界に光を与えられたことでそう錯覚させられる。
     光は蛍火程度のものだが、完全な闇の中ではそれも貴重な光源だ。うねる根の壁には葉脈のようなものが張り巡らされて、光はその中を流れている。脈動するそれは、葉脈という印象通り血管の役割を果たしている。流れているものは養分で間違いないだろう。
     吸収された生者の霊魂。獄卒のものも含まれているかもしれない。
    「さすがに、獄卒を吸収するには時間がかかるようだな」
     魂の色で判別し、肋角は今流れているそれを獄卒のものだと断じた。彼によれば、空間を掌握するこの巨体では生者の魂などとうに吸収しているという。再生能力を持つ獄卒の魂はそう簡単に吸い尽くせるものではない。故に、亡者に無尽蔵の力を与えてしまっていた。
     しかし、このままではいずれ完全に取り込まれる。
    「吸収された獄卒は、どうなるのでしょうか」
     斬島は胸にふって湧いた疑問を口にする。
     獄卒に生死の概念はない。しかし在無の概念は、どうだ。
     前を進む肋角の肩越しに、僅かに赤い瞳が見えた。答えようとしたのかもしれない。しかし肋角は口を噤んだまま振り返った。斬島も、後方での鈍い落下音を聞いて身体を向ける。
     倒れているのは獄卒だった。こちらに背を向けて力なく横たわっている。制服に戦闘のあとはなく、傷や流血も見られない。体格は中肉中背。武器は、失ったのだろうか。
     観察に十分な時間をかけてから、斬島は刀を抜いた。地面に振動が伝わるよう、気配も足音も消さずに獄卒へ近寄る。
     予想した間合いの手前で斬島は足を止めた。獄卒が躍るように跳ね起きる。襲いかかる手には一本の鉈を握っていた。翻る刃は斬島の鼻先で空を薙ぐ。やはり、身体で隠せる武器はこの距離で届く長物ではない。
     鉈を振り切って無防備になった脇腹を狙い、刀を一閃する。肉を切る感触はあったが、相手が攻撃の軌道を読んで動きを合わせたために骨を断つまでには至らない。獄卒は刀に振り払われるかのように地面を転がり、うつ伏せの格好でぴたりと止まった。初手で見切られては先のような不意打ちは通用しないと知ってか、すぐにゆらりと立ち上がる。斬島はその背中に切っ先を向けた。だが。
     流血する仲間の脇を固めるように、ふたりの獄卒が闇の中から現れた。ひとりは肉厚の手斧を、外套を着たもうひとりは無手だが、両手に手甲をはめている。援護に回る飛び道具か暗器の使い手といったところだろう。どちらも制帽を目深に被り表情はわからない。斬島は誰が動いても対処できるよう、刀を下げて全体を間合いに収める。
     血のにおいを押しのけて、鼻腔に馴染んだ刻み煙草が香る。任務中は吸わないのかと思っていたが、彼に限ってそんなことはない。いつ襲い掛かってくるかもわからぬ相手に集中して振り向くことはしないが、悠然と煙管を咥える肋角の姿が脳裏に浮かぶ。彼が吐息と同時に言葉を発することも知っていて、耳を澄ます。
    「今回の任務の未知の点は、我々が払う犠牲だ」
     鍛錬場で教えを乞うた時と同じ声音だ。淡々と教え、静かに問いかける。
    「獄卒までも糧として取り込む敵性は他に類を見ない。故に取り込まれた者が再び存在を成すかは、まだ誰にもわからない」
     獄卒に生死の概念はない。しかし在無の概念はどうだ。獄卒とて原始から存在していたわけではない。時空の中で存在を得たものは、いずれ無に帰すことだろう。それは冥界の王による裁きか、己より強大な存在による搾取によってか。きっかけは少なくないのかもしれない。
    「吸い尽くされる前に獄卒の手で獄都へ送ってやれば、再生の可能性はあるだろう。しかしそれはあくまで可能性の話だ」
     カナキリの刀身から、血が滴り落ちる。
    「お前の一太刀がとどめとなる可能性もある」
     水の中では刀を振る動作が鈍る。しかし、刀を濡らすのは肉の断面をなぞった程度の血だ。枷とはならない。
    「同胞を手にかける覚悟はあるか」
    「はい」
     澱みなく答える。
    「それがよく知る者でもか」
     あらゆる可能性を探れ。あらゆる方法で打ち込み、屠れ。万の可能性のうち、一でも揺らぎ敗北することがあってはならない。それは獄卒としての存在を殺す。生死の概念がない獄卒にとっての唯一の死だ。
     肋角の元で、皆それを叩きこまれた。
     静かにカナキリを構える。刀はずっと手の中にある。手だけではなく、覚悟を添えた。存在の現身たる切っ先に揺らぎはない。
    「獄卒 斬島。参ります」


    13
     獄都の原始林と施業林の境は、山で生きる者でなくとも一目で知れる。原始林には自我を時空に融かすほどの悠久を生きた鬼や、自尊心が高く気難しい霊獣が眠っている。それらを怖れる小さな生き物は、自然とその存在がない林に移り住んだ。施業林のほうが鳥のさえずりや小動物の気配に満ちることになる。
     さて、この事態に彼らはどこへ行ってしまったのだろうか。身を隠すため原始林を行き、施業林に入ってからは木こりや猟師を警戒しながら進んだが杞憂だった。木舌は目的地を目前にひとつ吐息する。そして感嘆の声を上げるために息を吸った。
    「いやあ、見事な樹だね。切り倒すのがもったいない」
    「あの瘴気を目の当たりにして言えるんだからすごいよ」
     佐疫は崖の縁にしゃがみ、上体を乗り出して眼下の巨大な霊樹を見下ろしていた。清兵衛杉は現世にて切り倒されたが、存在を裏返してこちらが本体となっているため、幽世には変わらず二本の霊樹が立つ。天高く伸び広がる枝葉。幹は太く、数人がかりでも腕を回せないほどの胴回りで悠然と立っている。
     遠く離れて見ても霊樹たる存在感を放つそれは、現世に残る庄兵衛杉が亡者に蝕まれているためか、重く粘りつくような瘴気を吐き出している。対の霊樹を除いて、間近にある木々はすべて穢れに触れて朽ちていた。
    「災藤さんの言う通り、外套を着ていて正解だね」
     立ち上がり、佐疫は自分の外套の裾を整える。
    「そうだね。あんなの普通の獄卒じゃあ近付けないし、おれたちだって外套なしじゃ無理だ」
     木舌は周囲の空気を払うように外套を広げた。獄卒の外套は佐疫のように異次元を内包させ武器を隠し持つ物もあれば、ある程度の瘴気からならば身を守る効果もある。呪いに蝕まれた霊樹は、離れた崖上の林からも生き物の気配が消えるほどの瘴気を放っている。外套なしではたちまち身動きが取れなくなったことだろう。
     しかし植物が枯らすほどの瘴気の発生源に近付けば、外套を着ていても長くは保たない。それに霊樹があの状態では、閻魔庁の監視の目もあることだろう。近付けばすぐにでも発見される恐れがある。早急に事を成さねばならない。
    「行こう」
    「うん」
     木舌から先に崖を垂直に飛び降りる。途中突き出した岩に足をつき、岸壁を蹴って一気に目標地点へと接近した。林の中に落ちてから少々走れば、霊樹の目の前に到着する。
     二本のうち、片方の霊樹は、今も神木の名に相応しく淡い光を発している。常ならばそのぬくもりを欲して、小動物が寄り添い集ったことだろう。一方は黒く変色し、ひび割れた樹皮からの覗く赤黒い隙間から瘴気を発している。枝葉も刃のように鋭く尖り、迂闊に触れれば砕けて花粉のように穢れを放つ危うさがある。
    「あれ、この霊樹……」
     真下から見上げて、木舌はそれが思い描いていた姿とは少々異なることに気付く。
    「気をつけてよ」
     佐疫はふらりと根本に近付く木舌に忠告する。
     大丈夫だよ。気楽に返そうとして、木舌は聞こえてきた悲鳴に息を飲んだ。
    「佐疫!」
     振り返り駆け寄ろうとするも熱風に押し戻される。
     佐疫の身体が、突如青い焔に包まれた。


    14
    「真っ暗だ」
     声を聞く。好きでも嫌いでもない、耳慣れた声だ。自分はよく聞こえるけれど、周りの耳には届きにくいという社交性に乏しい声。抹本にとっては黙考も発声も同じ反芻行為であったから、これといって不便はない。
    「聴覚、ある。舌もあるし、内臓も揃っている……噛んだら痛い、味覚も触覚もある。腕も足もある……なにも見えないのは、暗いから、と思いたいけど、どうだろう」
     天地を失った浮遊感の中で、手足をばたつかせて外套に触れる。動けるから埋められてはいない。空を掻いても熱くも寒くもない。沈みもしなければ浮上もしないのだから、泳げる空間ではないのだろう。宇宙を思い浮かべる。しかし宇宙は塵芥の集まりで、無ではないことを知っている。
     この空間は虚無だ。己の存在すら見失いかねないほどの……
     スン、と鼻を鳴らす。
    「嗅覚、ある」
     鼻腔をくすぐる、自然の清涼感。
    「なら、大丈夫だ。ここは、無じゃない……作られた暗闇。天の岩戸の中って、こんな感じだったのかな……」
     作られたものならば当然、作ったものがいる。それは常に見ている。それだけは見えている。見られているなら、聞かれているなら、届いているなら、抹本の存在が無に溶けることはない。
    「うん、大丈夫……待つのは得意だ」
     外套を手繰り寄せて、丸くなる。思い浮かべるのは地中の幼虫だ。外界と接触を最小限にして、来るべき時を待つ。
     俺は害虫かな、それとも益虫かな……
     それだけは口にしなかった。聞く者がいたとて、反芻したとて、己の中にもまだ答えはない。


    0
     ケタケタ。ケタケタ。
     魑魅魍魎が嗤っている。半身を砕かれた憐れな身を取り巻いて、ひび割れた肌に呪詛を擦り込んでいく。
     ヒソヒソ。ヒソヒソ。
     小さき者の間で流言が飛び交う。これも魑魅魍魎の仕業か。否。奴らは噂に耳を貸すより先に、飛び出た眼で一顧覗き見るために飛び回る。噂するのは見えないものがあるからだ。見えないくせに見える気になって、わからぬくせに知ったふうに語る。憐れな憐れな小さき者。
     ケタケタ。ケタケタ。
     それらは語るうちに神を生むだろう。嗤ううちに穢れを生むだろう。妄言は磨かれ信仰となろう。流言は捻れて怨嗟となろう。見えぬものと知らぬもの、それぞれの境を彷徨い、畏れを語る、憐れな憐れな狭間の人。
     ケタケタケタケタケタケタケタ。
     嗤っているのは誰だ。

     呪いを生み出したのは誰だ?


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    ichagarigari

    DONE獄都二次創作オールキャラ任務小説です。後編にて完結です。
    離れていてもみんなで戦って活躍して大団円!というお話です。
    前編 https://poipiku.com/451933/6832222.html

    * ご注意下さい *
    ・捏造設定
    ・オリジナルヒロイン(おばあちゃん)、モブキャラ登場

     8月のイベントにて個人雑で頒布予定です。
    【獄都二次】清兵衛杉と庄兵衛杉<後編>
     本堂と門を施錠し、スーパーの割引シールがついた弁当を漁りに行こうとしたところを、居酒屋じみた大衆食堂へ足を伸ばす。いつも寺務所で書類の整理ばかりしていたが、今日は強面の来訪者の相手をしたために疲労困憊だ。それにあと二週間は曰くつきの寺での住み込み番の生活が続く。たまには役場のジャケットを脱いで、羽目をはずしたところで罰は当たらないだろう。定食を肴に熱燗一合をちびちび飲んで、心地良いほろ酔い気分で寺に戻る。そんなに悪いことではないはずだ。
     応宗寺へ至る石段を前に、青年の足が竦む。酒で火照っていた身体が急速に冷えて、頭から冷や水を被ったかのように酔いが冷めた。町に点々と佇む街灯の延長で、石段の途中にも灯りがふたつ設置されている。日照時間に応じて自動点灯するはずのそれが点いていない。風で消えたのだろうか。石段の上からごうごうと風の音が聞こえる。
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