謳いビト(仮題)・1 汗で肌に貼り付いた服を引っ張ると、触るのも不快なほどぐっしょりと濡れていてため息ひとつこぼした。容赦なく照りつける太陽によって肌はじりじりと焼かれ汗はどんどん流れていく。水筒の水が空になったのは随分と前のことだから、太陽が雲に呑まれるのが先か自分が力尽きるのが先かというところで、圧倒的にこちらの分が悪い。
砂というものも悪かった。普段は舗装された硬い地面ばかりを踏んでいる所為で、とらえどころのない砂は足を飲み込みバランスを崩す。靴の中にも砂が入り込んで足裏でじゃりじゃりと鳴るのも不快だが、一歩一歩の重さに次第にそれも忘れてしまった。
歩くのは嫌いだ。汗を流すのも。寒冷地の生まれだから暑さには滅法弱い。砂漠を歩くと聞いた時に引き返せば良かったと何度後悔したか分からない。けれど進めば進むほど、絶対に辿り着いてみせると意地になっていった。冷静さを欠いた奴から死んでいくのだと、師に何度も説かれたし、自分でもよく理解できていたというのに。
暑さがだめだ。思考を鈍らせる。タリスマンの導きに従って歩くということしかできなくなる。そのうち、呼吸をすることさえ忘れてしまうかもしれない。何もかもが正常ではない。今だって、目の前に雪が見える。
「は? 雪?」
思わず立ち止まって凝視したが、数メートル先に雪が見える。見間違いではない。砂漠のど真ん中で雪が降っている。しんしんと降り続ける雪は、熱砂に呑まれて消えていったけれど、確かに砂に触れるその瞬間までは雪であるように見えた。
異常だ。原因が自分にあるのか事象にあるのかは定かではないが、明らかに何かがおかしい。しかしそれは数時間ぶりの変化でもあった。手中のタリスマンがより強い光を放ち始めたものだから、「ははは」と乾いた笑い声を上げた。
「見つけた」
やっとだ。やっと見つけた。
「俺の謳いビト」
声に出してみると少しだけ気力が回復した。腰のホルスターに差していたナイフを抜き前方の雪に向かって投擲する。それは雪の手前で見えない壁に突き刺さった。結界だろう。呪を込めたナイフは結界に張り巡らされた魔力を吸い取り、パリンと音を立てて砕け散った。それと同時に、結界もまた消え去る。
雪が止んだ。
雪が降っていた場所は蜃気楼のように揺らめいて、砂の上に小さな小屋が現れた。赤い屋根の木造の小さな家だった。間違いない。予言に聞いた謳いビトの住処だ。
躊躇わなかった。大股でそちらへと近づく。結界らしきものは他になく、拒むものもまたなかった。ここまで来たのだ。たとえ拒まれたとしても力尽くで従わせる。
扉に到達する直前、呪を乗せたナイフを数本放った。ナイフはただのナイフと同じように木の扉に突き刺さって終わった。トラップはない。そう判断して扉を蹴破った。外観よりも広く清潔。それが最初の印象だった。
玄関の正面に置かれた丸テーブルに腰掛ける姿がひとつあった。年齢はこちらと同じくらいだが線が細かった。組んだ腕の上で神経質そうに白い指がとんとんと上下している。苛立っているようだ。何に。首を傾げながらその顔を見ると、色違いの瞳がまっすぐこちらを射抜いていた。
「出て行って」
「あなたが謳いビトですね」
ここには彼しかいないのだからそうだろう。周囲に張られていた結界が彼の手によるものであれば尚の事、彼が普通の人間ではないことの証左となる。
「出て行って」
「俺と契約しましょう」
「出て行って」
壊れたラジオのように男は同じ言葉を繰り返した。このままでは埒が明かない。どの道、この男と契約を結ぶことは確定事項なのだ。引き下がるわけがない。
「あなただって理解しているんでしょう? 俺があなたの番です」
「気持ち悪い言い方するなよ。力の相性が良いってだけだ」
「ほら、分かってるんじゃないですか」
ようやく男が押し黙った。その様子にたいそう気分が良くなって、ここへ来るまでの不快感が一気に押し流された。
「騎士と謳いビトはこの世で唯一人、番と呼べるほど魔力の相性のいい相手がいる。あなたにとってそれは俺です。契約しましょう」
「……今更番なんて、迷信が好きな老人しか口にしないよ。運命だ何だ馬鹿馬鹿しい」
「俺だって好き好んでこんなところまで来ませんよ。けれど、あなたが一番良いんです。そしてそれは自然の摂理のようなもの。誰にも、何にも、変えられない」
男が重いため息を吐いた。けれどそうしたいのはこちらも同じだった。
自然の摂理は変えられない。それこそ途方も無い力があれば可能だろう。しかしその力を手に入れるためには、相性の良い謳いビトが必要なのだ。
殺したい男がいた。世界最強と謳われる男だ。更に悪いことに、その男は番の謳いビトと契約している。最強の矛と盾を独占しているようなものだった。一度、そこいらの謳いビトを雇って戦いを挑んでみたが、全く歯が立たなかった。騎士としての能力にそこまで差があったわけではない。契約している謳いビトとの相性の差が如実に現れた。
「ワンフレーズ紡いでください。それで俺もあなたも理解るはずだ」
番の謳いビトがどれほどの恩恵を齎すのか試してみなければならない。もしもそれで前回の二の舞いになるなら、ここまで来た意味もない。相性が全てではなく、番に価値もないということになる。それはこの長旅が無駄だったことになるが、それはそれで仕方がない。次の策を考えるだけだ。
「……おまえ、ジョブは?」
「死霊使い」
「うわ、陰険」
言葉のわりになぜか男は口の端を上げた。
やる気を出したらしい男に促され、小屋から出る。相変わらず太陽は空でぎらぎらと輝いていたが、なぜか暑さは感じなかった。
「ここは僕の結界内だから」
ぼそりとつぶやいた男の言葉になるほどと頷く。
まったく便利なものだと思う。謳いビトは魔力を込めた詩を紡ぐだけであらゆる奇跡を具現化できる。ひとつの能力に特化する騎士とは大違いだ。
右手を前に突き出す。熱砂の下には骨がいくつも埋まっているようだった。この砂漠で彷徨って死んだ者たちだろう。太陽に浄化されることなく無念さや恨みが漂っている。体力も気力も落ちているが、このような場であればそれなりの死霊を召喚することができるだろう。謳いビトの支援があれば、どれほどのものとなるか、思わず舌舐めずりした。
「……応えよ、呪われし子らよ。死霊の王が目覚めを待っている」
魔力を乗せた詩と旋律が頭の中に響いた瞬間、全身の毛がぞわっと逆立った。
「はっ」
思わず漏れた息は熱っぽく、身体を駆け巡る魔力の奔流が堪らず漏れ出していた。
「《アルシム》」
呪を口にする。その途端、砂漠に轟音がとどろいた。大地が鳴動する。目の前に巨大な穴が空いた。
「は?」
呆けるような声を上げたのは背後の男だった。突如空いた穴にざあざあと砂が流れ落ちていく。それを押し分けて迫り上がってくる姿があった。
骨だ。形は人骨のそれである。しかしその頭蓋骨は背後の小屋と同じ大きさだった。見てくればかりではない。その骨は明らかに強い魔力を秘めており、並の騎士など片手で握りつぶしてしまうだろう。
「はは!」
思わず声を上げた。歓声に似た笑い声だった。
「勝てる。これなら……オズ……!」
振り返る。そこには白い顔を更に青白くさせた謳いビトが砂の上に蹲っていた。
「見てくださいよ、これ! 番は迷信とか言ってませんでしたっけ?」
我ながら子供のようなはしゃぎぶりだという自覚はあった。
「最悪……」
男は地を這うような声を吐き出し、じっとりと恨みがましくこちらを睨み上げてきた。
「おまえ、僕のナカ全部持っていったな」
「それだけ相性が良いってことでしょう。あなただって悪い気分じゃないはずですよ」
謳いビトの詩は自身の中の魔力を騎士に流し込み、更に騎士の魔力を引き上げる。相性が良ければ良いほど与える魔力量は増加する。それこそ、立てなくなるほど空っぽになる。謳いビトにとってその状態はひどく心地よいものだと聞いたことがある。
悪態を吐きながらも男が強く出ないのは疲れ果てているのもあるが、それだけではないのだろう。
「契約しましょう。いいえ。あなたが嫌だと言っても契ります」
「最悪」
力の限り吐き出して、男はその場に倒れ込んだ。身体を支えることも困難になったらしい。ワンフレーズの詩でこんな風になるのなら、より長く謳わせたらいったいどうなるのだろう。それこそ絞りかすさえ残らないかもしれない。それでも別に構わなかった。あの男に勝てるのなら、道具がどうなろうと関係ない。それに、謳いビトは騎士に尽くす生き物だ。騎士にすべてを明け渡して果てるのは本望だと感じるものもいるらしい。目の前の男も例に漏れないらしく、弱々しく右手を差し出した。その手を取る。冷たく頼りないと感じた。上手く使うためにもう少し体力をつけさせた方が良いだろうかと柄にもなく思うほど。
「ここに騎士と謳いビトの契約を結ぶ。騎士ミスラ、謳いビト――」
契約の言葉を述べようとして、はたと気づいた。
「あなた名前は?」
「……おまえ……探し人の名前くらい覚えてないのかよ……」
ぶつぶつ言うので蹴ろうかと思ったが、簡単に死んでしまいそうだったので止めておいた。
「オーエン」
小さくつぶやかれたのが男の名だと気づくのに少し時間がかかった。
気を取り直して、契約の儀に戻る。
「騎士ミスラ、謳いビトオーエン。騎士の名にかけて守護を。謳いビトの名にかけて献身を。契る」
「…………契る」
繋いだ手から相手の魔力が流れ込む。極少量ではあったが、それは確かにミスラの中に入って根付いた。相手にも同じことが起きたのだろう。心なしか、先ほどより生気が戻った。
「さあ、行きましょう。オーエン」
用済みとなった手を離すと、もぞもぞとオーエンは起き上がり、色違いの目でこちらを見上げた。
「契りはもう少し花のあるもののはずなのに」
「そういうのがよかったんですか? 少女趣味ですね」
「違う……はぁ……なんでこんな奴が僕の番なんだ」
「諦めてください。俺も諦めました」
とうとうオーエンはむっすりと押し黙った。