そして――
ミスラという番を得てから、幾度かヒートを経験した。
ヒートになったΩが発するαを誘惑するフェロモンも、スノウとホワイトが言う通り番であるミスラにしか効果がないことも確認できた。その分、ミスラには効果がありすぎることも。
変わらずオーエンは自身のバース性を偽る魔法を用いていたが、ヒートになるとこれも乱れるのか、狙いすましたかのようにミスラが現れる。ミスラが言うには「甘い匂いがしたので」らしいから、実際狙ってきているのだろう。その後に起きたことは思い出したくもない。だが、ヒートの熱もミスラを相手すると治まるのも確かなので、困ったものだ。
周期を考えるとそろそろヒートが来るという日に、ミスラは双子と賢者の四人で北の国へ赴いていた。元々は北の魔法使いを指名しての依頼だったそうだが、ブラッドリーと協力してミスラをその気にさせてすべて押し付けた。オーエンとしても、ヒート中に団体行動など御免被るし、ミスラを遠ざけたかったのもあった。まさに一石二鳥だった。
来ると分かっていれば、対処の仕方もある。
オーエンはまず魔法舎の自室に結界を張った。現時点で一番対処しやすいのがこの場所だということに多少思うところがないわけではないが、事が事故に致し方あるまい。わざわざ結界を破ってまで侵入してくる輩は今は外にいる。ひとまず安泰だ。後はヒートを乗り切れば良い。
Ωになってからヒートを一人で耐えるのは初めてだった。
それは昼頃から始まった。西の国で仕入れた抑制剤なるものを飲んでみたが、正直この手のものの効果は眉唾ものだ。飲まないよりも多少マシになれば儲けもの程度の認識で口にしたが、それが功を奏したのか日中は少し身体が火照って気怠い程度で済んだ。
問題は夜になってからだった。
じわじわとヒート特有の熱が身体を蝕む。吐き出す息も熱く、ベッドで寝転がったまま動くのも億劫になってきた。ここにミスラがいてくれたらなど、愚かな考えまでよぎる。
ミスラが欲しい。あの男の与えてくれる熱が、痛みが、快楽が欲しい。
否、別に誰だっていいはずだ。熱を解消してくれるのなら。
けれど、ミスラよりも利口なαを相手にすれば最悪な可能性も想定される。フィガロやブラッドリーなんかは最悪だ。わざわざ彼らに弱みを曝け出すなど愚かすぎる。それをネタに何を強要されるか分かったものではない。
かといって、心が乱れている今、この場所から転移するのは現実的ではない。想定した場所に移動できるかは怪しい。それこそ、北の国の何処かに落ちる可能性もある。腹を空かせた獣の前に出てしまったら最悪だ。食われるしかない。いくら生き返るとはいえ、痛いものは痛い。
いっそ何かミスラの代わりになるようなものはないだろうか。鈍い頭で考える。何か、ミスラの。
そう思った瞬間、オーエンの身体はミスラの部屋に転移していた。一瞬、何が起きたのか分からなかった。心が求めたから、この場所に来てしまったのだろうか。
部屋の主がおらず、冷え切った床から身体を起こす。くらりと目眩がした。この部屋はあまりにもミスラの匂いで満たされていた。
どくどくとないはずの心臓の音がする。早くここから立ち去らないと。いくらミスラの部屋には彼の張った結界があるとはいえ、それが今のオーエンを護ってくれる保証はない。
早く、と自分を急かすのに、魔法が上手く紡げない。そればかりか、この部屋に留まりたいとさえ思う。
折角ミスラを追い出したのに、こんなところに転がっていては本末転倒だ。
「なにか……ないの……?」
今の自分の助けとなるものはないか、部屋の中を見渡した。そして、ふと、半端に開け放たれたクローゼットが目に入った。いつだったか、ミスラの服を求めたことを思い出す。あれは少し、心を落ち着かせてくれた。
立ち上がってふらふらとクローゼットに近付き、中にあった普段着や夜着を引っ張り出した。ミスラの匂いがする。部屋にあるものよりも濃くてオーエンの心を落ち着かせる。
「クアーレ・モリト」
必死に紡いだ魔法はなんとかオーエンの身体を元の場所、自分の部屋へと戻した。ベッドの上でミスラの服を抱いて、或いはかぶる。先程よりも随分と体調が良くなった気がする。ようやく少し安堵した。
次に目を覚ました時、最初に声が聞こえた。
「あ、やっぱりここにあった」
ひどく聞き慣れた声だ。重い瞼を懸命に持ち上げたのと、忌々しい呪文が聞こえたのは同時だった。
「あ……」
途端に、身体を包み込んでいた安らぎが失われる。見れば、現れたミスラはオーエンが集めていた衣服を自身の手に収めていた。
「服が荒らされた後があると思えば、またあなたですか」
「……返して」
「巣作りでしたっけ? 不思議な生態ですね」
こんなものの何が良いのか、と言いながらミスラは服を消した。今頃彼の部屋のクローゼットに戻っていることだろう。
歯噛みする。気付けば結界は破られていて、Ωにとって特別な存在である番のαが目の前にいる。ヒートはまだ終わっておらず、熱を持て余した身体は番を求めている。
「最悪」
オーエンは苦々しく吐き出した。すると、ミスラはこちらに近寄ってきて、ベッドで丸くなるオーエンを見下ろすと舌舐めずりした。
「巣作りって必要あります?」
「は? 知らないよ」
「俺がいるのに」
鈍い頭ではミスラが何を言いたいのか、いつも以上に理解できない。ただ、ミスラはオーエンの醜態に興奮していながらも、どことなく不愉快そうだった。
「俺がいるんですから、俺でいいでしょう。服なんかじゃなく」
「なに、おまえ。嫉妬してるの。自分の服に」
ミスラを侮辱して、笑い飛ばして、怒ったミスラに殺されるのならそれでよかった。一時とはいえ、ヒートを忘れることができる。
けれど、ミスラはそうしなかった。ベッドに乗り上げてきたかと思うとオーエンの身体を組み敷く。ギラギラとした獲物を前にした獣みたいな目がオーエンを見ている。
そういえば、今回の依頼は魔獣の討伐だったと、遠いところで考えていた。
「うるさいな。番のΩはαのものだって双子に聞きました。つまりあなたは俺のものでしょう。俺の言う通りにしてください」
「……違うよ、おまえが、僕のものなんだ」
沈黙が落ちて、二人はただ互いを見ていた。
ミスラの獣の目の中に、オーエンは自分の姿を見た。今のミスラと大して変わりのない、欲望の滲み出た姿がそこにはあった。矜持も何もあったものではない。
次に動いたのは殆ど同時だった。唇と唇が重なる。後はもう、言うまでもない。
早く元の身体に戻りたいと思うけれど、この熱を二度と得られないのは少し、ほんの少しだけ惜しいと、そう思った。
結局、オーエンが巣作りをしたのはその日が最後だった。