〈新宿〉のマリア 朝の訪れは、失望の始まり。
昨日と同じ部屋の同じベッド。
視野を占めるのも、昨日と同じ天井。
カーテン越しに差し込む陽光は誤魔化し切れない禍々しさを孕み、歪んでいる。
夜の間に紛れ込んだのだろうか。酷く小さな羽虫が歪んだ光に炙られ、今まさに灰になろうとしていた。
またか。と思う。
まだか。とも思う。
私はまた〈新宿〉で朝を迎え、まだ〈新宿〉から抜け出せない。
灰となり〈新宿〉から消えた羽虫を、私は羨んだ。
*
何ひとつ心配することなんて在りはしない。
僕たちの子は既に祝福されているのだから。
君はお産のことだけ考えていればいいんだ。
後の煩わしい事は安心して皆に任せなさい。
*
結婚なんてしていただろうか。ましてや身籠ってなどいただろうか。
その子はいったい何に祝福されているというのだろう……産まれる前から。
それに『皆』とは——?
わからない。
私は何らかの集団の好きなように操られている?
否。全て正しい気もする。私が忘れているだけで。
天井からはらはらと舞い落ちる記憶の断片が、囁く。しかし断片が降り積もった床から冷ややかな否定がせりあがり、記憶の断片を尽く呑み込んで行った。
*
「探して欲しい人がいます。費用はお任せで……なにぶん相場を存じ上げませんし第一人者と謳われる方にお願いするのですから、相応しい額をお支払いいたします」
彼に会うならサングラスを。と、紹介者に言われた時は(失礼では?)と訝しんだが、結果的に従ってよかった。サングラス越しにも目の前の若者の美貌にあてられ眩暈がする。もしアドバイスに反していたら失神していたに相違ない。
露寺真理亜。
誰のことだろう? と、また疑いつつ、私は口の端に上った名をすらすらと告げる。
「探して頂きたいのは『私を探している人』です」
生きている実感に乏しく我がことに思えず……生に違和感を覚えるのは私が何かを失っているからに他ならず、ならば探して宛がうのが筋だろう。
だからといって別段ドラマティックな展開を求めるほど夢を見ているわけでなし。ただこのまま正体が定かでない者たちに、理由もわからずに出産を期待され続けるという不気味な状況から逃れたい。
真理亜の望みはそれだけだ。
「誰も探していなかったら?」
話を聞いていながらも興味なさげな声が問う。
「そんな筈ありません! ……あっ」
ヒステリックに応じる自身の声に驚愕した真理亜はしばし押し黙って逡巡し、
「その時は事実を受け入れます。あとは私が如何捉えて如何行動するか……なので……」
決意している旨を告げた。
けれど何処の誰かもわからぬ相手を闇雲に探せと言われたら、追い返されても致し方なかろう。対峙する美しき青年は心ここに在らずといった態にもかかわらず、
「どうぞ」
と真理亜へ続きを促した。
*
数日たっても考えが変わらなければ、また来い。
話したいだけ話し終えた頃、そんな主旨の言葉を受け真理亜は西新宿を後にした。
はぐらかされた。
そういう印象がなしでもなく。
それでも自分自身が証拠を提示し客観的な説諭が不可能な事実に変わりもなく。
与えられた猶予を無駄にしないよう、私の周囲を観察して何らかの結論を導き出す。喩えそれが私の考え——欲しい答えと違っても。
いま私に出来る事は他にない。
真理亜はそう教えられた気がした。
美を体現した青年、秋せつらに。
*
まだか。と思う。
まだお生まれにならない。あぁ——『皆』が待ち焦がれているのに!
何が悪いの? 何が足りないの?
——それとも、何か余計なものがあるの?
だから私は毎朝生きていることに違和感を覚え、〈新宿〉を否定したがるの?
またか。とも思う。
また私は事実を受け入れず、周りを責めて誤魔化すの? と。
「そうか……うん、そうね」
臓腑の奥底に呑み込まれて淀みに淀み、どろどろとした黒い粘性のある物質になった記憶の欠片たちが、真理亜の諦観に合わせて大きな波となって真理亜の『在るべき記憶』を彼女から引き剥がした。
*
探した何かを宛がうのはいけない。誤りである。
探した何かは空虚の証明として在るべきなのだ。
「私に関する誰かの記憶の残滓は全て私が蒐集しなくてはならないのです」
自分の欠片は漏れなく塵芥に帰してから初めて、私は私として生きられる。それが真理亜の結論だ。
「だから、やはり『私を探している人』を探してください。ダメなんです。ほんの少しでも今の私に対して、私自身が違和感を覚えるようでは……」
「完成しない」
「……えっ?」
「おなかのこ」
微動だにしない美の塊から発せられた声は、呑気なトーンとは裏腹に研ぎ澄まされた剣先のような鋭さで核心を突く。
「ええ。仰るとおりです。秋さん」
省みると愚かなことだが、自から依頼したのだ。
如何足掻いても言い逃れは出来ない。そう胎に決めここ数日のうち積極的に疑問を投げかけた末、理解へ至った事象について
「私の胎の内にある肉塊には〈主〉の魂が宿ってらっしゃる。私の存在理由は〈主〉の御為のみでなくてはなりませぬゆえ」
と淀みなく語った。
「へえ」
そりゃあ大ごとだ。とでも続けるかのように、件の佳人秋せつらは肩を竦めて戯けて見せた。
「いづれあなたとも雌雄を決する日が来るでしょうね」
いっぽうの真理亜が大真面目に切り出すも、
「なぜ?」
緊迫感が皆無の茫洋とした返しに煽られ、
「あなたが〈新宿〉だから、です。麗人にして魔人——秋せつらさん」
と真理亜は言い放つ。しかしその声は震えていた。
震えるワケは緊張か高揚か、はたまた恐怖か。
それは——真理亜本人にもわからない。
「そう」
真理亜が興奮すればするだけ、冷めた返事になる。
「それは肯定ですか? 否定ですか? どちらにせよ私はもうあなたの依頼人ではなくて敵ですか?」
せつらが冷覚すればするだけ、熱く問いたくなる。
「さあ?」
と惚けるも、ひと呼吸おいてせつらは続けた。
「でも、知りたいなら——」
せつらの纏う空気が豹変した……気がする。
「無事に生まれたら、また来るといい」
せつらはそう告げながら真理亜を送り出した。
「来れば依頼は受ける。その点はご心配なく」
見送られる真理亜の耳には、せつら似でいて骨の髄まで凍らせる冷ややかな声が、後々までついて回った。決して見逃しはしないと言わんばかりに。
「ただし、何事もなく帰れるなどとは思うな」
——此処は〈新宿〉なのだから。
*
露寺真理亜は健康な男子を産んだ……らしい。
ここまでは〈新宿〉一の名医らしき男の情報。
その後については〈新宿〉一の情報屋、外谷良子をもってしてもわからずじまいである。