秋光乍洩「捕り物だ、急がねば」
京極堂の座敷で話し込んでいる最中、電話のベルに主人が退席した。帰ってくるなり、彼にしては珍しい様子で、ばたばたと荷物をまとめ始めている。私は何だかわからないまま、湯のみに残る出涸らしの最後を飲み干し乍らその様を眺めていた。
なにやら書き置きのようなものをしたためながら、同時に羽織を肩にかけているせわしなさである。
「ああ関口君まだいたのかい。無駄話は終わりだ。さる知り合いの書肆からね」
京極堂はしばらくののちに、状況が把握できていない私の茫洋とした視線に気付き、呆れた顔をしたあと、片手間に説明をした。一度聞いただけではよくわからない名前の稀覯本が入荷したとか、そのうち数巻を誤って別の書肆に回す本の束に混ぜてしまったらしいとか、そのようなことを言った。
「あれは一冊ずつだって貴重な書籍と聞いているが、勿論完全に揃っていてこそのものなのだ。各所にバラバラになりかけているというのは捨て置けない。事は一刻を争う」
だそうだ。
先からしていた、最近流行りのあの講談師はどうだとかいう話題の続きを考えていた私は、急に齎された外界からの情報に一気に捲し立てられて、その場では全く内容を理解できていなかった。友人があせあせと動いているのを見て、ああ慌てているなあ、珍しいなあとしか思っていない。
「僕はこれから仕入れにいくから。君は適当に寛いだら帰りたまえ。帰るとき鍵さえかけてくれればいいから」
「僕も行っては駄目かい」
いつものごとく、仕事に行き詰まって気分転換に家を出てきたのだった。
今帰ってしまうのも、この座敷に取り残されるのも何か損に思えて、口をついてそんなことを云った。
古書肆は眉を吊り上げて、君の興味の範疇じゃなかろうぜ、と返事したものの、
「構わんから、それなら早く支度したまえ」
と、何やら私の背後の棚の蔵書を検めがてら、まだ湯呑片手にくつろいでいた私の背中を軽く蹴っていった。
京極堂は何時もよりも早足で歩いていく。なんとかついていく先々で目当ての書物に関する説明を求めると、絶好調という様子の長広舌が繰り広げられたが、果たして貴重な講義の内容に関して私はおそらく二、三割程度しか汲めていなかった。
いつものことであろう。
しかし、道すがら話を聞いて、やりとりの相手のことや、仕入れの状況については理解することが出来た。
色々あって数駅を跨いでの捜索の末、目当ての本は全て揃った。
そのうち一件の古書店は主人がたいそう老齢で、かつ品物は持ち込まれるのに任せて陳列しているだとかで、しかし連れはいうと肉体労働をしたがらなかった。あの山をどかせだのこれを移動させろだのいいように使われることになったが、何もせずについていくよりは「手伝い」という名分ができたので、気が楽だった。
仕入れた全集一式は、想像していたよりもボリュームがあった。
しかしこれらをみっしり詰めた重そうな鞄を、さきほどああ宣って私をこきつかった友人は、平気そうな顔で携えている。
釈然とせず、問い詰めると、要約すれば「大事な本を愚鈍な君になど任せられるか」というような辛辣な指摘を食らった。
乞うて同行したとはいえ、一応役に立った身である。あんまりではないかと抗議をした。いつもの雑談の延長の馬鹿話である。ただし、私を罵倒する壮絶な説教とは裏腹に、言葉の端々からは彼の機嫌がいいのが伺えた。
一般より怖い顔でおばけのような佇まいの、一見おそろしげな男であるのは平素通りである。しかし、座敷で雑談している時とはまた違う陽気さを湛えているようにさえ感ぜられる。
珍しい日である。
帰途につくのに歩き回って、たどり着いたのは武蔵小金井駅だった。私はやはり足取りの早い友人に少し遅れる形でついていく。
次の電車までは少々時間が空いていた。
駅のホームについて、友人がベンチに腰かけたので、私もその隣に座る。間は友人が置いた重い鞄によって隔たれている。
一仕事だったねなどと他愛もない口をきき、隣の友人の顔を見る。夕日が差してきて逆光が強い。
少し幸福そうに見えた。
「僕は前にもここにきたことがあるらしいね」
妙な云いぶりである。中央線沿線に住むなら、まあ利用しないこともないだろう。そういったことを返事すると、京極堂はまた例の、眉を吊り上げる顔をした。
「相変わらず忘れっぽくて仕方ないなあ。あの時は君が連れてきたんだろうに。まあでも」
いいよ、と云うとおもむろに友人は立ち上がり、プラットホームへと歩き出した。
私は彼のいう「あの時」に覚えがなかった。学生の頃のことだろうか。
しかし、私は旧友たちに連れ出されることはあっても、誰かを誘い出すようなことは殆どなかったはずである。
少し記憶を巡らせてみるが、主要な思い出には見当たらぬ。
目の前の旧友はどんなに些末なことでも人並外れて覚えている。何かの拍子につまらない用事でこの駅を利用したこともあったものだろうか。
思い出話の感傷に浸ることを求めているわけではない様子だった。私は思い出すのを諦め、無言のままぼんやりとその後姿を眺めた。
夕日が徐々に彼の陰影を変えていく。
「あちらが相模湖行き」
向かいのホームへくる電車のことを云っているのか。すこし離れても友人の声はよく通る。見渡せば、この時間帯の駅舎だというのに、人が少ない。いや、私たち以外ひとりも居ない。
ふと目を夕日へと向けて、駅と線路、周辺の建物の影、そして橙色の空が、まるで錦絵のような景色を形作るのを眺める。線路がどこまでも続くような、奥行きを感じさせる風景を、人は簡単に「綺麗」だと思うものだ。
太陽の光線が網膜に焼き付いたまま、向かいのホームに目を戻した。視線の動きを追尾する円い残像が、ホームから線路へ落下する。
あらぬ連想を思い起こさせる。
光の塊が突き落とされて、落下する。
そこへ電車が通過する。
何か思い出してしまいそうなのを、私の本能のようなものが拒否しているのを感じて、厭な汗をかきはじめた。
「関口君、たぶんそろそろ――」
京極堂がこちらを向かずにそう云ったので、私はうつむきかけていた顔をあげる。彼の声と言葉は、常に私を現実に引き戻す。それなのに、何か妙である。
腕時計を確かめた。少々現実離れした空気に呑まれているとはいえ、違和感を覚えたのは正しかった。
ここへ座って数分と経っていない。電車はまだ来ないはずである。そう告げた。
「電車じゃあないさ」
声がまた一歩、ホームの淵へと歩む。
陰影が変わる。友人は軽く腕を上げて、向かいのホームを指さしている。
小袖から伸びた彼の手首の色を、夕日が強く飛ばしている。
まるで白い手袋をしているかのようだ。
「ほら、」
暗い色の着流しに、また暗い色の羽織を纏った、黒衣の男の後ろ姿。
伸びた襟足は、首の丸みにしたがって二股に分かれている。
友人は更に一歩、猫のように軽やかに踏み出した。
夕日が陰影をまた変えてゆき、次の瞬間、
項が光った。
「通り物が」
友人の声は、少し笑っているように思えた。
思わず立ち上がった。
ここは私には、幸福に近すぎる。