或る道行独り。
暗い牢に座している男がいる。
額と、膝に置かれた両の拳にぞんざいに巻かれた包帯に、少なくない血が滲んでいる。
言葉もなく、動きもせず、ただ目を開いて格子の外を見ている…。
その目は像を結ばないと言っていたのは、先刻も話した上司だったか。
盲目の身で、9人もの子どもたちを世話し、共に暮らしていたという。
────そのうち7人を一夜のうちに惨殺したという、人の形をした化物が、座して涙を流し続けている。
拭いもせず、瞬きもせず、頬を流れ落ちるままに泣いている、異様。
ここに入って一昼夜、尋ねられた事に応える以外、木偶のように同じ様子でいる囚人に声を掛ける。
「悲鳴嶼行冥」
反応しない。
だが此方の仕事に応えは関係ない。
「出ろ」
通常の手続きでなく、この科人は何処へ行くのか。
訝しさを感じようが、下りてきた指示に従うのが仕事だ。
例え化物だろうと、この様では最早害をなすまいが───
ガチャン
鍵の外れる音に、涙を流し続けていた白い目が、こちらを向く。
ぬらりと光る、その不気味さにぞっとしながら、繰り返す。
「出ろ」
化物──異様の男が、そろり、と包帯の巻かれた手のひらを床に這わせ、格子に辿り着いた歪んだ指でそれを掴んだ。
ゆら、とふらつきながら立ち上がる。
格子を伝いながら、摺足で、一歩ずつ歩を進める。
漸く辿り着いた戸口の大きさを手で探り、身体をゆっくり折り曲げる。
ごす
額の包帯が吸った鈍い音を聞きながら、別種の訝しさが重なる。
───今更、尋常の盲人の振りか?
───この有様で、本当に────
「…わたしは…何処へ…」
戸口を潜った姿勢のまま、ガサガサに掠れた声が落とされた。
悲嘆も哀願もなく、ただ乾いた声だった。
答えるつもりはない。
己は答えを知らない。
返答を待つでもなく、異様の男がその背をゆっくりと伸ばした。
見上げる様な背丈の、幽鬼の如き姿が眼前に立ち、いつの間にか乾いた白い目で此方を見下ろしている。
背筋に震えが走る。
それを無視して、口早に告げる。
「縄は掛けるなと言われている。着いて来い。」
───ただしく、正気の沙汰ではない。
時間も手続きも、何もかもがおかしな『御沙汰』だった。
こんな妙なことは、早く終わらせるに限る。
「…申し訳、ありませんが…」
踵を返しかけた所に乾いた声が降る。
「──貴方を追うのは…難しい…縄を」
掛けて、引いて下さらないか。
御沙汰を破れと頼んできた。
御免被る。
「…我々と変わらずに動けるのだろう」
だからこんな所に居るのだろう。
でなくば、凶行をなせるはずもない。
構わずに歩き出す。
幽鬼の気配が離れていくのに安堵を感じ、しかし。
ずる、ずり
堅い壁を擦る音に、振り向く。
房の前から数歩進んだのみの位置に、身体を壁に預けながらそろそろと進む幽鬼の姿。
苛立ちが寒気を上回る。
────あのザマでは、夜が明けてしまう。
大股で歩み寄って、矢鱈に細い手首を捉えようとして。
───思いとどまって、警棒を突き出した。
「これを掴め」
再び眼前に立つ幽鬼は、壁に右半身を凭せ掛けながら此方を見下ろしている。
鈍い反応に舌を打ち、繰り返す。
「掴め」
「…手に、当てて下さらないか」
見当違いの空間に差し出された、手首に似合わぬ大きさの掌に警棒を雑に押し当てる。
警棒の半分程を覆った指の長さに、苛立ちに追い遣られた怖気が帰ってきた。
ぐい、と引きながら、再び歩き出す。
重い。
揺れながら着いてきた、背の高い影がたたらを踏んだのを、堪えた。
重い。
転ばれては面倒なことになる。
歩調を緩める。
こんなザマの罪人など、何処に召し出したところで、なんの贖いにもなるまいに。
自分で養った子どもを、数多殺した殺人鬼であるという。
おそろしい、人の形をした化物であると。
だが今は、ただ背丈がばかに高いだけの、白い目の盲人でしかなく。
────あわれな、異形のひと。
脳裏に浮かんだ対称の呼び名を、頭を振って追い出す。
仕事には関係ない。
決して長くはない距離を、時間を掛けてふたり、黙然と、連なって歩く。
───幽鬼に警棒を掴ませて引き連れ、獄舎の裏口から放り出さねばならない。
滑稽な怪談だ。
これまで何人もの収監者を、手続き通り放ち、刑場に送り出してきた。
その身の疑いが晴らされ明るいばかりの顔も、悪びれずほくそ笑む、近々ここで再会するであろう顔も、待ち受ける娑婆の洗礼に不安がる顔も、近付く死に震え恐怖する顔も、気が触れた狂気の顔も、様々見てきた。
安寧の隔絶から、人の世の地獄へ続く様々な道行を見てきた。
今更何に怯える事がある。
これを世に放とうとしているのは、或いは死を与えようとしているのは、己ではない。
何処のどいつか知らないが、罪科、或いは善行の責任はこれを意図した者が負うべきだ。
────この虚ろな絶望を宿した男の未来を、余さず負うべきだ。
漸く辿り着いた裏口で待っていた上司が、備え付けられた簡素な机の上に書類を据えて、万年筆を差し出している。
中身を見れば職務上の命取りになりそうなそれに、記名欄以外を見ないよう意識を集中する。
仕舞おうとした警棒が、重い。
「…離せ」
───するり
長い指が滑る音を残して、繋がりが解かれた。
絶望の重みから解放された心地がして、思わず息をつく。
己にこの仕事を任じた張本人であるところの上司が、同情の念を浮かべながら視線を寄越すのを気づかぬふりで、受け取った万年筆で担当として名を記す。
上司の思いの外優しげな声が背後に向かうのが聞こえる。
「悲鳴嶼、字は」
書けるか、と発せられる前に乾いた声が返る。
「…今は…書けません」
───今は…?
「…確かに、その手ではな」
上司も同じ疑問を脳裏に浮かべて、敢えて当たり障りない答えを出した様だった。
「拇印を此処に…おい、手伝ってやれ」
御沙汰が下ったなら仕方がない。
万年筆を上司に返却する。
ただの罪人ではなく、尋常の盲人でもない筈の男の手首を掴む。
身の丈に合わず、見たままに細い。
どくり
どくどくと、青白く薄い皮膚の下に激しい脈が打っている事に心臓が跳ねた。
燃えるように熱い。
思わず息を呑んで、顔を見上げる。
────悲鳴嶼はやはり虚ろで乾いた幽鬼の顔をしている。
訝しんだ上司の声がする。
「どうした…早くせんか。迎えが来ている。」
迎え、何処の、誰の。
もう何度目かになる疑問をそのままに、七人もの幼い命を奪ったとされる、大きくも薄い掌を取る。
ここも、熱い。
胸が塞がるような心地を飲み下す。
拳全体を覆う血に塗れた包帯を押しずらして、歪んだ親指の腹に朱を押し付け、署名欄を埋める。
されるがままになっていた悲鳴嶼の手を解放する。
だらりと、重さのままに長身の脇に垂れ下がった長い腕を目で追う。
包帯が緩んで指の歪みと、拳の傷が顕になっている。
悲鳴嶼の顔には、何も浮かんでいない。
────己の仕事はこれで、終わり。
上司への引き渡しは済んだ。
後は上司のおまけとして、迎えとやらが悲鳴嶼を連れて去るのを見送るだけだ。
先程触れた異様な熱を制服で拭う。
終わりだ。
上司が厚い扉を軋ませながら開くと、夏の夜特有の湿った外気が流れ込む。
開いた裏口の向こうに、二つの丸い明かりが並んでいる。
────自動車?
驚きに上司を見ると、頭を振られた。
これも、見なかったことにしなければならないらしい。
迎え、何処の、誰の。
意味のない疑問に意味のない答えが一つ。
悲鳴嶼を獄舎から召し出すのは、相当のお大尽だ。
────荒涼の刑場に、独り牽かれていくのではない。
「…達者でやれ」
上司の言葉の裏付けを得て、安堵する。
────悲鳴嶼は吊るされない。少なくとも今夜は。
己の胸の内に浮かぶ安堵の正体もわからぬまま、悲鳴嶼を見上げる。
変わらぬ虚ろな顔があらぬところを向いている。
「おい、なあ」
幽鬼に感じていたのとは別の怖気が、震え声を喉から押し出した。
はた、と気付いて上司を見ると、目を丸くして此方を見ている。
────やらかした。
「…外まで連れてやって、よいでしょうか…」
冷や汗をかきながら、続ければ、微妙な顔で頷かれた。
「…今は、不自由なようだから、致し方あるまいよ」
────今は。
かつては、一昨日までは、この丈の高い、若い男には仮初ながらも、家があって。
家族があって。
そこいらの目の見える大人どもより、立派にやっていたという。
何があったのか、子どもが7人も死んで、1人は行方が知れず、生き残った1人に化物と呼ばれて────このでくの坊の如き、空っぽの顔をした盲人が出来上がった。
空っぽの顔の、青白い皮膚の下。
激しく脈打つ血と熱に、尋常ではない痛みが襲っている筈なのに。
────それすら感知し得ない闇の中に、この男は居るのだ。
迎えの先に待つ何者かが、このあわれな、異形のひとの虚ろを、少しはマシにしてくれることを祈る。
────何故己が祈りたいのか、わからないまま。
どうせ意味もないのだから、構うまい。
胸中で独り言ちながら、再び手を取る───できるだけ、そうっと。
悲鳴嶼が顔を俯向け、繋がれた手を見つめるような仕草をした。
やはり虚ろな顔がそこにある。
「迎えの所まで、手を引いてやる。───行くぞ」
ひくり
己の手のひら下で、悲鳴嶼が震えたようだった。
おぼつかない摺足の歩みを背後に感じながら、血塗れの細い手を引いて歩く。
ほんの数十歩の距離を、祈りながら歩く。
手のひらに悲鳴嶼の傷の熱が移って、汗をかく。
残り数歩というところで、自動車の脇に立つ人物の姿が光の中から現れると、また驚くことになった。
詰襟の制服に、白地に炎をあしらった派手な羽織を羽織った、金獅子の如き男が険しい顔で立っている。
────こんなのを見なかったことにするのは、無理だろ。
立ち止まり、開いてしまっていた口を閉じながら、悲鳴嶼の手を握る力を緩めた。
動揺に乱れそうな息を整えてから、声を出す。
「彼が、悲鳴嶼行冥です」
盲人ゆえ、手を引いて来ました。確かにお引渡し致します。
一息に言い終えて、繋いだままの手を男に差し出す。
二つの手を見つめ、次いで悲鳴嶼の虚ろな顔を見、最後に此方の目を見つめながら金獅子が声を発した。
「痛み入ります。確かに、彼の身柄は引き受けました。」
闇を煌々と照らす篝火を思わせる、太く明朗な声だった。
悲鳴嶼の手のひらを獅子の男に手渡す。
熱だけを残して、悲鳴嶼の手が離れていく。
「…では、これで失礼致します。」
残った熱を握り込む様に、指を畳んで身体の脇に添える。
そんなことをしても、意味はない。
燃えるようだった体温は失せて、ただ暑気だけを感じながら悲鳴嶼を見る。
またあらぬところを向いている顔は、やはり虚ろで。
「悲鳴嶼…」
感じる空しさに、意味はない。
「達者で」
───これで、本当に仕事は終わりだ。
房の前での心持ちと真逆の色をした感慨が浮かび、己に呆れる。
せめてと祈りを込めて、言葉を掛けてから、背を向ける。
「…世話に、なりました…」
掠れ乾いた小さな声が追ってきて、慌てて振り向く。
夜の闇の中に照らされた虚ろな顔が、己を見ていた。
その白い目の中には何も浮かばず。
だが確かに此方を向いていた。
「う、む…」
正体不明の感情に声が震え、不格好に返す。
やはり灯りの中に居る、迎えの金獅子が怪訝な顔をしたあと、ほんの少し表情を緩めたのが見えた。
今のやり取りに、なんと思われたのか。
考えても意味はない。
男はその見事な金糸を会釈で揺らしたあと、悲鳴嶼の背に手を添えて、身体を折り畳むようにして自動車に乗り込ませる。
そしてもう一度、此方にきちりと頭を下げると、颯爽と羽織を翻した。
─────そして、悲鳴嶼と金獅子を乗せた自動車は、音を立てて走り去っていった。
遠ざかる騒音に向かって一礼し、此方も背を向ける。
と、裏口に上司が腕組をして立っている。
小走りに駆け戻りながら考える。
やばい。
「無事引き渡しを完了しました」
殊更に背筋を伸ばして報告する。
この奇妙すぎる夜を無事に終えるには上司の温情が要る、気がする。
始末書で済めばまだ、マシかもしれない…。
「…ご苦労」
やたらと間を空けてそう返してきた上司は、溜息をついた。
「…安心しろ、あの男は殺人鬼ではない」
「はい」
内容ではなく、それが己に告げられたことに驚いて、返事が口からまろび出た。
次いで思わず手で口を塞ぐ。
上司が此方を胡乱げに見ている。
「…房から此処までの間に、そう思ったと…?」
この短い道行で、疑いの掛かった収監者に絆されただと?
───弁明しなければやばい。
「絆されたのではありません、直感であります!」
声を張りすぎた。
が、上司は咎めなかった。
「そうか」
そうか…。
重ねてやり切れない声で受け容れられ、安堵と同時に訝しさが顔に出たらしい。
上司が何かの説明を始めた。
「あの男の疑いは晴れた、が、公にはされない」
下手人不明のまま、精神を病んで、何処かに移された、ということになるだろう。
「…では、娑婆には」
「戻れるとはとても言えんな」
あのナリだ、知るものが見れば直ぐに判るだろうから…遠くに行くのではないか。
言いながら、痛ましげに外を見遣る上司に、何を知っているのかを尋ねるべきか、否か。
この夜に過ぎっていった、正体不明で意味を成さない様々な感情とともに思い出す。
格子の外を見つめ続け、涙を流し続けていた白く濡れた眼。
ゆらゆらと歩む丈の高い幽鬼の如き影。
余りに目立つ金獅子の羽織姿。
此方を見ていた悲鳴嶼の、乾いた白い瞳と掠れた声、虚ろな顔。
そして、手のひらに感じた燃えるような熱を、思い起こして。
───どれもこれも、忘れるのは無理だろうよ。
───この数刻後、上司の万年筆に刻まれた藤の紋の意味を教えられ。
かの異形のひとや、その同志たちの無事を祈り続ける羽目になるなど、露ほども知ることなく。
腹を括ったつもりの愚かな己は、口を開いたのだった。
了