「夜狩」ある村はずれの藤の老木が妖と化した。
その知らせが仙門に届き、姑蘇藍氏と雲夢江氏から門弟を派遣することとなった。
宗主が出向くほどのことではないのかもしれないが、江澄は夜狩が嫌いではない、というより体を動かし戦うことが自分に向いていると思っている。
一方、藍曦臣は夜狩が好きとは言えないが、自分が人の役に立つのならいくらでも力を尽くしたいと考えていたし、雲夢からはきっと宗主も来るだろうから、必然的に足を運ぶことになった。
もう日が暮れたというのに、あたりは薄紫の光に包まれていた。
江澄や藍曦臣が門弟とともに駆けつけた時、あちこち枝の折れた大きな藤の古木が、残された枝と花を振り回すように暴れていた。
その花や枝が紫色の光を発している。
思わず息をのむような絶景だが、柔らかい光とは裏腹に、古木の巻き起こす暴風は刃のように鋭く空気を切り裂き、門弟たちの攻撃も届かないようだ。
容易に近づくことは危険だと判断し、江澄たちはいったん距離を置いた。
村人から聞いた話では、毎年見事な花をつける古木は、今年も満開の花を咲かせていたが、花盛りの折に過去に類を見ない大きな嵐に遭ったとのことだ。
おそらく風雨によって枝葉や咲き誇る花を傷つけられ、人に害を為すような妖と化してしまったのだろう。
江澄は在りし日の藤の姿を思い浮かべ、ため息をつく。
「あの藤はさぞかし称賛を浴びてきたんだろうな」
江澄の言葉に藍曦臣も頷いた。
「それが今や嘆きと敵意の的とは、やりきれない」
枝に残る藤の花房は暗闇の中でも美しく、その花が陽光のなかで穏やかに咲く姿を想像すると、江澄はふたたびため息をつくしかなかった。
曦臣も同じように考えていた。
自分たちの力を合わせれば、この古木を滅することはそれほど難しくはないのかもしれないが、できることなら往時の姿を取り戻してほしい。
そう思って江澄のほうへ顔を向けると、彼が口を開いた。
「まだ幹と枝はいくつか生きている。あの風さえ抑え込めれば……」
強い瞳で言う彼に、曦臣はそれならと、ひとつの策を示した。
江澄と藍曦臣はふたたび藤の妖の前に立った。
被害が拡大しないよう門弟たちに周囲に陣を張らせ、二人は前に進む。
江澄はさらに一歩前に出て、右手ですらりと三毒を抜き放つと、自分と藍曦臣に吹きつける暴風を薙ぎ払うように剣を振るった。
さらに間髪入れず鞭の形に姿を変えた紫電を左手に握り、こちらは前方に向けてぐるぐると円を描くように振り回した。
紫電はバチバチと雷光を発しながら渦を起こし、藤の木から吹きつける暴風と同調するようにそれを巻き取っていく。
藍曦臣もまた歩を進めて江澄の隣に立ち、同じように朔月で風を払った。
剣の切っ先から江澄の放つ紫紺の光と、藍曦臣が繰り出す青白い光がそれぞれ尾を引き交錯して、二人の姿を照らしている。
藍曦臣が視線だけをめぐらせて、すこし離れて隣に立つ江澄をうかがえば、風で飛ばされた藤の花びらが彼の髪紐とともに激しく舞っていた。
藤色の花びらとはためく校服、紫電の放つ光に照らされるすっと伸びた鼻梁、前方を睨む真剣な瞳は菫色に輝いている。
戦いの最中だということを忘れ、藍曦臣は目を奪われてしまう。
「……綺麗だ」
ほうっと息を吐きながら、藍曦臣は思わずつぶやく。
その小さな声は江澄には届かなかったと思うが、彼は急に藍曦臣のほうへ振り向いた。
「おい、いまだっ!」
藍曦臣は先ほどのつぶやきが聞こえてしまったかと焦ったが、江澄が発したのは次の攻撃の合図であった。
紫電がつくる風の渦は中心が空洞となり、それは藤の古木まで繋がっている。
藍曦臣は藤の木に正面から向き合うと、すかさず朔月を飛ばし、剣先を幹に突き刺した。
剣の刺さった衝撃と流れ込む霊力に、吹き荒れていた風が急速に弱まる。
その様子を確認した江澄も、続けて三毒を飛ばした。
幹に並んだ二本の仙剣により、藤の古木は完全に沈黙する。
ふたたび江澄に促された藍曦臣はひとつ頷くと、藤の前まで歩み出て裂氷を構えた。
風が止み静寂の戻った山里に、澄みきった簫の音が響き渡る。
それは妖を滅するためのものではなく、傷んだ藤を慰め癒やすような穏やかで優しい音色だった。
江澄は紫電をしまい藍曦臣のすこし後ろに立ち、彼が紡ぐ音色を追いかけた。
簫の音に慰められ、藤の花の発光もだんだんと治まりつつある。
江澄は音曲には詳しくなかったが、これならうまく浄化されるだろうと確信した。
そして残された幹と枝だけでも、この先もきっと美しい花を咲かせるだろうと思えた。
それにしてもと、江澄はあらためて藍曦臣のほうへ目を向ける。
簫に置かれた長く美しい指、立ち姿は裂氷に負けず劣らずまっすぐ凛としているのに、やわらかく目を閉じるその容貌は凪のように穏やかだった。
藤の花の薄紫の淡い残光に照らされ、藍氏のどこまでも白い校服を纏う姿がどこか浮世離れしていて、そのどれをとってみても……
「あなたのほうが綺麗だと思うぞ」
江澄は簫の音に紛れるくらいの小さな声でつぶやいた。
事態が完全に収まり、二人は幹に刺した剣を静かに納剣し、後始末を門弟たちへと委ねる。
そのまま挨拶だけ交わして立ち去ろうとする江澄を、藍曦臣が引き止めた。
「さっきの、聞こえましたよ」
「は?」
藍曦臣に急に話を振られて、江澄は何のことかわからず、ぞんざいに聞き返してしまった。
「綺麗だ、と」
「……ッ!!」
まさか聞かれているとは思わなかったが、そういえば姑蘇藍氏は耳が鋭いのだったかと今になって焦る。
けっして他人には覗かれたくない秘めごとを暴かれた気がして、鼓動は早鐘を打つし頬も熱くなってきて、江澄はいたたまれず、その場を走り去ってしまいたかった。
魏無羨がそんな江澄を見たら間髪入れず揶揄ってくるのだろうが、藍曦臣のほうは頬こそ染めてはいないが、めずらしく視線をさまよわせ、戸惑いがちに口を開いた。
「私の声も聞こえたのでしょ?」
「あ?……ああ」
藍曦臣に尋ねられて、江澄はそうだったと思い返す。
はじめに綺麗だなどと、自分には似つかわしくない言葉を吐いたのは藍曦臣のほうだった。
「なんの冗談かと思ったぞ」
「違います。私は嘘は言いません」
「……!!」
きっぱりと言い切られ、ここでもまた姑蘇藍氏の掟を思い出し、江澄ははからずも藍曦臣の本気を知る。
だからといって、何をどうすればいいのか、江澄には全くわからない。
一方の藍曦臣のほうも、江澄の言葉を確かめたところでどうしたいのか、何もわかっていなかった。
江澄のことを綺麗だと思ったのも本当だし、江澄に同じように言ってもらえたことも嬉しくて、ただ離れがたくて江澄を引き止めたけれど、その先のことは考えていなかった。
「…………」
「…………」
たがいの戸惑いはそのまま長い沈黙となり、二人の間を流れる。
「戻るぞ」
「はい」
先に口を開いた江澄に促され、藍曦臣も従う。
来た時とはまるで違い、どこかぎこちなく歩きはじめた二人の後ろでは、藤の木が静かに佇んでいた。
一度は折れて妖と化したが、新たに生きることを許されたその木は、枝に残された花房をわずかに揺らす。
揺れた花房の先でいまだ蕾んでいた花がふわりと開き、歩み去る二人の背を見送った。