バレンタイン後のサフバロ セラミックのマグカップに手早く湯を注ぎ、小ぶりなスプーンでかき混ぜる。熱湯にインスタントコーヒーの粉末が溶けて、値段の割にはふくよかな香りが手狭なキッチンに漂った。朝の空気と一緒にそれを肺いっぱい吸いこむと、バロンは新聞の見出しに目を落としたまま食洗機の取っ手に手を伸ばす。
いつものように右手で中を漁るが、目当てのソーサーのうち、一枚しか定位置に見つからない。指先が数秒ほどまごついた。眉をひそめて紙面から目を引き剥がした。
食洗機の中を覗きこむと、目当てのものが手前側の左右の壁に一枚ずつ立てかけられている様が視界に飛び込んでくる。
緩く瞬いてその状況を見下ろすうち、不意におかしさがこみ上げてきた。数日前は、右手奥――定位置とは対角線の場所に立て掛けられていたのを思い出していた。
こういう話に細かいのは自分の方だ。一緒に暮らす男は決まりのパターンというものに頓着しない類だった。
まずいと思いつつもつい熱が入って、余計な時間をいかに圧縮するかという論を並べてしてしまったのが脳裏に蘇ってくる。せっかくやっておいたことにけちをつけられて、それでも臍を曲げずに手を出してみるのが、なんともあの男らしかった。
あのときは自信のない様子で「次から気をつける」と口にしてみせたものの、恐らく手前側が定位置というところまでしか記憶から掘り出せなかったのだろう。迷った末にこんな真似をしたのだろうかと想像すると、ほんの少し頬が緩むのを自覚した。
同じ色で揃えたソーサー(片方だけでも定位置にあれば問題ないと思ったのだろう)を引っ張り出し、身を乗り出して二人分のコーヒーをキッチンカウンターの上に並べたとき――ちょうど寝癖で乱れた銀髪が視界の隅をのろのろと横切っていった。肩をブランケットで包んだその男は、二つ並んだカップから立ち上る湯気を見下ろして淡く微笑む。
「おはよう」
「……早かったな」
「お前が出掛ける前に顔を見たかったんだ」
「そうか」とだけ答えて、カウンターチェアに腰を下ろしたサーフの横に立ち、コーヒーを啜る。
横目にうかがったサーフの注意は、カウンターの隅に置かれた質素な花瓶に向けられていた。活けられているのは先日のバレンタイン贈った花で、こうして見える場所に置かれるといささか気恥ずかしい。
「随分気に入ったようだな」
カウンターテーブルの天板に重ねた手の甲に頬を乗せて花を見つめる横顔に声を投げれば、微かに笑う気配がした。
「気に入っている。お前が俺のことを考えて選んだ花だろ」
「……そろそろ冷めただろう」
サーフはマグカップに指先を触れさせて「まだ早い」と首を振った。
この男は淹れたての熱いコーヒーを好まない。湯気が出なくなるくらい冷めるまではそのままだ。氷でも入れてやろうかと提案したこともあるが、何が気に入らないのか断られてしまい、それきり今の形に落ち着いていた。
銀髪が揺れ、窓から差し込んだ朝日をはね返してきらめくのをぼんやりと見つめる。優美な線を描く鼻先は花瓶に向けられたままだ。
「少し萎れてきたな」
サーフがぽつりと言うのが聞こえて、花瓶に活けられた花弁に目を向ける。淡いピンクのものはなんとなく気が引けて、なるべく赤に近いサーモンピンクのバラを選んだ。小ぶりな花冠が寄り集まった様は壮観だが、言われれば確かにところどころ張りをなくしているようにも見える。
「保った方だと思うがな。枯れないものの方がよかったか?」
尋ねれば、緩く頭を振るのが見えた。
「そんなことはない。……でも、形が残るものにも少し憧れる」
無意識に、カップを持つ手に力が入った。視線はバラの花から陶器製の花瓶へと逸れていく。花瓶の下には花束が包まれていたビニールを切ってあつらえたシートが敷かれている。サーフが手ずから鋏を入れたものだ。天板を水気から守る意図でそうしたのかと思っていたが、それだけではなかったのかもしれない。
店が用意した花束には日頃の感謝とお決まりの文句を綴ったメッセージカードが添えられていたものの、サーフの手に渡る前に回収済だった。捨てるのもためらわれて手元に残したまま……それ以前に、ジャケットの左のポケットに入れっ放しだったことを思い出す。ああいったものが必要だったのだろうか?
顔に熱が集まるのを誤魔化すように残りのコーヒーを呷ると、サーフのしなやかな指がようやくマグカップに伸びた。
所望通りに薄めに淹れたコーヒーを啜ったサーフが満足そうに笑みを浮かべ、ソーサーの向こうに置かれていた紙箱を手元に引き寄せる。サーフがバレンタイン用に買い求めてきた、バロンも聞いたことのあるそこそこ高級なショコラトリーの製品。
特に示し合わせることもなかったが、二人で少しずつ食べるようにしていた。両手で慎重に蓋を開けたサーフが、中を覗き込んだ目を軽く見開く。
「あとひとつしかない」
遠慮するような一瞥を寄越した男に向け、顎をしゃくってみせる。ほっとしたような表情を浮かべて最後のひと粒を口に放り込むと、サーフはうっとりと両瞼を伏せた。
このチョコレートも相当に気に入ったらしい。空になったマグカップをソーサーに戻す頭の中で、クライアントとの打ち合わせ場所からショコラトリーの店舗を経由して帰るルートを組み立てる。少し遠回りになる上、全く同じものが手に入るとは限らないが、悪くないアイデアだと思った。
ネクタイを強めに引かれたのはそのときだった。僅かに熱のこもった銀の瞳が食い入るようにこちらを見つめている様に鼓動が早まる。膝を気持ち屈めて軽く唇同士を触れさせると、鼻腔を甘い香りがくすぐっていく。
角度を変えてもう一度口づければ、薄く開いた口唇がやんわりと笑みを形づくったのがわかった。満足げな息が鼻へ抜けていくのを聞く。
伸びてきた指先が穏やかに髪に潜ってくるのを心地よく受け入れながら、観念して左のポケットからざらついた質感のカードを取り出す。
こちらの手元を追いかけようとした視線を引き戻すように、右手の指を柔らかな銀髪に絡めて力強く胸元へ抱き寄せた。
少し苦しげな呻きが上がるのに笑声で応じながら、ぽってりした材質のソーサーの下に「ハッピーバレンタインデー!」という気恥ずかしい文言で始まるメッセージカードを滑り込ませる。メッセージが記された面をテーブルの天板に押しつけたのが、最後の抵抗だった。
「……お前は急にこういうことをするから、いつもびっくりする」
面白がるような視線を寄越した前髪をやんわりと撫でながら、バロンは身体を離す。花瓶の脇にひっそりと佇む置き時計に目を向けると、出かける時間が迫っていた。名残惜しさと、助けられたような気分が半々。控えめに息をつき、椅子にかけてあった上着を羽織る。
「いってくる」
「ああ。遅くなるようなら連絡してくれ」
素早くキッチンカウンターを回り込んで自分の分のカップとソーサーを食洗機に放り込むと、鞄を掴んで大股にその場を後にした。
足早にドアを潜り抜けた後、扉が閉まる寸前。白い壁からすらりとした左手が生えてくるのを、振り向いた視界に認める。エンボス加工の施されたカードを人差し指と中指で挟み、緩やかに振ってみせているのがわかった。相当に上機嫌であることが、たったそれだけの所作からありありと伝わってくる。
緩く髪を撫でつけて上着の襟を立てると、バロンはエレベーターに向けて足を早めた。ホールに設えられた鏡が緩んだ己の顔を映し出すのに気づくまで、その口元は柔らかく綻んだままだった。
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# 定型文の方が雄弁に心情を語る
/(お前がこれを、俺に見せてもいいと思ってくれたことが嬉しい)
Happy Valentine's Day
For my Valentine.
With a thankful heart.
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20240218