雨の、音がする。
意識はふわふわとしているのに雨の気配だけは感じられて身体を縮こまらせた。
雨は嫌いだ。
母を喪ったあの日から。
「————……」
ふ、と吐いた吐息と共に萱草色の睫毛を僅かに押し上げる。
最初に見えたのは畳だった。
どうやら畳の上で寝ていたらしいが一護の家には畳の部屋は無い。
じゃあここは?と働かない頭でもう少しだけ目を開ける。
広い部屋であった。
重厚な古い柱や美しい絵が施された襖。
くゆるのは香の匂いか。
勿論、一護はこんな部屋は知らない。
「どこだ、ここ……」
起き上がろうと手を付いたが、何故だが身動きがし辛い。
視線を下へとさげてみれば、真っ白な着物を着ていた。
何枚も重ねて着ており、かつ一番上の生地は分厚い為に、それが身動きし辛くなっている原因だろう。
触った指先の感覚は滑らかで、着物の生地に疎い一護でもこれが上質な布で出来ている事は分かる。
触って気が付いたが、真っ白いと思っていた着物は生地とは僅かに違う白色で刺繍が着物全体的に見事な細やかさで施されていた。
何故そんな物を自分が着ているのか分からず、一護は羽織っているだけだった上の着物を破かない様に恐る恐る脱ぐ。
分厚い着物だった為にそれを脱いだだけでも動き易さが違う。
裾を持ち上げて一護は雨の音の聞こえる方へと歩き、障子を開ける。
天気雨であったようで、障子を開けたとたんに差した日に一護は一瞬目を細めた。
「……」
あの日は曇天で、こんな風に雨粒は陽の光を浴びながらきらきらとしていなかった。
美しく整った庭も雨を弾いて光っており、一護はほう、と溜め息を吐く。
雨を美しいと思ったのはいつ以来だろう。
ぼんやりと眺めていたが、何時までもこうしてはいられない。
庭は随分と広い様で、雨の所為もあって先が見えない。
自分の居る場所を把握しようと思ったが、それも出来ない様だ。
動き辛い着物で外へと出て逃げるわけにもいかず、一護は一旦諦めて部屋へと戻る。
その時、シャン、と鈴の音が鳴り響く。
「何だ!?」
次いで、タン、と襖が勝手に開いた。
障子の向こうは小さな部屋で、そのまた奥に襖がある。
誰も居ないが、自動扉とも思えない。
その隣の部屋の襖もまた、タン、と開いた。
一体何が来るのか、と『誘拐』されていた状況と合わせて一護は身構える。
タンタンタン、と一体何処まで開くのか、寧ろ無限に続くのではないかと感じた瞬間漸く終わりがきたらしい。
向こうに、人の影が見える。
小さく見えたそのいで立ちは、異様という他無かった。
長い艶やかな黒髪であるが姿かたちから男だという事は分かる。
だが顔の上半分が黒い狐の様な面を付けている為に人相や表情までは分からない。
裾も袖も長い重そうな衣を微かな衣擦れの音だけ立てて男が近付いて来る。
「だ、だれだ!」
堂々とした歩みは、一護と同じ様に誘拐された人間では無い事が分かる。
ならば犯人か、若しくは何らかの関係者であろう。
一護が誰何しても男は何も答えず、歩みを止める事もしない。
一護の目の前に来た事で漸くその足を止めた。
煩く鳴る心臓を如何にか落ちつけながら一護は釣り上げた目で僅かに男を見上げる。
鼻から下しか窺う事が出来ないが、それでも整った造作をしているのは見て取れる。
仮面越しにじっと見詰められている気がして、一護は居心地の悪さに身を揺らしたくなったが、動けば負けだと思い睨み返す。
「成る程、良く似合う。だが、何故打掛を脱いでいる」
数分、黙っていた男が漸く口を開く。
低い耳を震わす様な声もやはり覚えの無いものであった。
うちかけ?と一護は首を捻ったが物は分からなくても「脱いでいる」という言葉で一番上に着せられていたあの重い白い着物だという事が分かった。
「動き辛ぇから。それに勝手に着せられてたんだ、着てやってる義務はねぇだろ」
一護の答えが気に食わなかったのか、はぁ、と男が溜め息を吐く。
呆れた感情が入っているのは流石の一護でも分かる。
「あんたが、俺をこんな所に連れてきたのか」
「ああ」
「誘拐だぞ!分かってんのか!?」
「誘拐ではない。私は兄を嫁として迎えただけだ」
「…………は?」
最初、何を言われているか分からなくて一護は激高していた事も忘れてぽかんと口をあけて男を見上げるばかりになってしまった。
男の落ち着いた声で揶揄ってる訳でも、冗談を言っている訳でも無い事は分かる。
分かってしまったからこそ、余計に意味が分からなかった。
「よめ、って……夫婦とかの嫁、か?」
「其れ以外に何がある」
「いやだって突っ込みどころが多いっていうか、俺は男だし顔も分からねぇ初対面の男の嫁に為れとか嫌に決まってるし」
「顔が分かれば良いのか」
「いや……」
そういう意味だけじゃ、と続けようとしたその前に男が被っていた半面を外す。
恐ろしい程に整った顔の男であった。
先程は狐の仮面越しだった所為で視線が合っているかも分からなかった長い睫毛に縁取られた紫掛かった目がじっと一護を見ていた。
その視線に目が離せなくなり、一護は無意識に唇から吐息を零す。
「此れで良いな」
「あ、……えっと……」
「それと兄と私は初対面では無い。以前一度出会っている」
「は?どこで」
こんな特徴的な男など幾ら人の顔を覚えるのが苦手な一護でも覚えている筈である。
だが記憶を掘り返してみても断片も出ては来ない。
「此の姿では無かった故、兄が分からぬのも無理は無い。十年程前、神社で黒い狐を助けた覚えはあるか?」
「きつね……?」
十年ほど前、と言われて一護は思い出すように視線を男から少しだけ上にずらす。
今まで忘れていたというのに、尋ねられてふと思い出した。
確かに、幼い頃に狐に出会った覚えがある。
良く分からないモノが見えてしまう事に少し疲れた一護は近所の神社に一人で遊びに行って、そこで左の前足を怪我した黒い狐に出会っていた。
その時は『野生の狐に触ってはならない』等知る由も無く、持っていたハンカチで縛って怪我の手当をしてやった。
医者である父の見よう見まねであったし、今思えば手当とも呼べない稚拙なものであった。
だが手当するまで警戒していた狐は気を赦してくれたのか、ハンカチを巻いた後は一護の隣で得意げに座っていたりしていた。
狐と友達になってしまった、と、くふんと笑っていた一護であったが、頷く素振りはあるものの言葉を話せない狐に一方的にしゃべりかけていた数分後、行き成り現れた自分より大きな黒狐に腰を抜かしてしまった。
低い唸り声と威圧感のあるその姿に、食べられる、と一護は目をぎゅうとつぶったが、数分経っても何も起こらない事に閉じていた目をおそるおそる開ける。
一護を庇う様に前に出ていた手当をしてやった黒狐が、大きい方の狐へときゅうきゅうと鳴いていた。
それが話している様だ、と怖さも忘れて二匹のやり取りを見ていたが、大きな狐が一護の方へと向く。
先程感じた威圧的な恐怖はもう無い。
ビー玉の様な綺麗な薄紫の目が柔らかく一護を見詰めた後、鼻先をするりと一護のまろい頬へ摺り寄せた。
「へへ、くすぐったい」
「あ」
今思えば幾ら子供だったとはいえあの大きさの狐など異様であった。
そういえば、あの狐は同じ色の眼をしていた気がする。
「もしかして……大きい方の、狐?」
「ああ」
覚えていたか、という様に男が眼を細めた。
それが余りにも優しい色をしていたものだから、一護は思わず身体を揺らしてしまった。
「小さい方の狐は我が義妹、ルキアだ。あの節は世話になった」
「そうだったのか……そのルキアは元気か?」
「ああ。彼奴も兄に会いたがっていた」
「そっか……あー、その……ルキアを助けた礼にこんな……け、結婚なんて言い出したのか?」
「否。私が兄の心根に惹かれた。其れは可笑しな事だろうか」
「う、その……」
白哉に尋ねられ、一護は言葉に詰まる。
そんな事は無いと普通であれば言うであろうが、自分の結婚という理解の追いつかない状況であれば素直に言う事は出来ない。
何よりこの美しい男が、自分に惚れているだなんて。
「結婚は、好き同士のヤツでやるもんだろ……!あんたは俺の事、その……好きかもしんねぇけど俺はあんたの事分かんねぇし……」
「……」
「だから、うー……と、友達から!」
一護の思い付きの提案に、白哉の目が微かに見開く。
予想外の一護の提案だったのだろう。
けれどその奔放さが面白いとばかりに、ふ、と口元が笑みの形へと変わる。
「そうか……少し性急過ぎたな。良い、ゆっくりと……時間はある故」
そう言いながら白哉の手が伸び、一護の頬へと触れる。
「ひょわっ!」
触れられた箇所がいやに熱くなって、これは若しかしたらダメかもしれない、と一護は頭の片隅で思ったのであった。