4月の桜無配
「なぁいちまつ、さくら、きれいだなぁ」
ふわふわと浮ついた声に、殆ど閉じかけていた瞼を少しだけ持ち上げる。人気のない公園、頼りない街灯に照らされた葉桜と一面に広がる花びらの絨毯は、まるで絵の中の世界みたいに美しかった。
「…ん…もうほとんどちってるけどね…」
「そうだなぁ、きのう、風がつよかったから…そろそろ花見のきせつ、おわっちゃうかもな」
「…そうだね…」
いつもの無駄に腹から出ているデカい声とは随分違う、少し舌足らずに吐息混じりで紡がれる言葉はひどく耳に心地良い。ふらふらとおぼつかない足取りで歩くカラ松はさっきから脈絡もない話を繰り返したり、突然笑い出したり、急に立ち止まったかと思えば走り出したり。まるで元気な幼稚園児を相手にしているような気分だった。
「よるになっても、もうあんまりさむくないし…すっかりあったかくなってきたよなぁ」
今にも鼻歌でも歌い出しそうな機嫌の良さだ。季節が巡って春が来ただけの事でそんなにも喜べるのだから、ほんと、おめでたい頭をしているやつだなぁと思う。
「たのしいなぁ、いちまつ」
「……たのしくはない…おれははやくねたい…」
「せっかくの桜だぞ、そうだ!ちょっと花見していこう!」
「なんでおまえそんな元気なの…」
銭湯の帰りに六人で寄ったチビ太の屋台で、気分良く酔って、酔い潰れて。気づいた時には他の四人どころかチビ太すら帰ってしまっていた。凍死はしないとはいえ一晩中外にいたら流石に風邪を引いてしまう、まだ酔いが残ってだるい身体を引きずって、ふらふらと歩みを進める。慣れている筈の家までの道のりが、随分遠く感じた。いつもなら寝たふりをしてこいつに家まで運んでもらうところなのに、今日のこいつは珍しく、随分と飲んだらしい。通りがかった公園の大きな桜の木の下に走っていってしまったカラ松は、なにがそんなに楽しいのか満面の笑みでくるくる回っている。これが幼稚園児なら微笑ましいが、警察が通りがかったら通報されてもおかしくない奇行だった。
「…ねぇ…帰らないの…置いてくよ…」
ため息混じりに声をかけると、ぶんぶんと大振りな手招きをされる。渋々のろのろ近寄ってみると、ぐいと手を引かれた。
「っうわ、急になに…」
「うえ!上見てみろいちまつ!」
「ぐえっ……あっ、」
無理矢理上を向かされてゴキッと嫌な音が鳴る。けれど、その瞬間映った景色に目を奪われた。真夜中の真っ黒な空に、明るい月がぽっかりと浮いている。その周りを、写真のフレームみたいに葉桜の枝が囲っていて、視界いっぱいにはらはらと花びらが舞い落ちてくるのが見えた。
「なっ、きれいだよな!」
「……たしかに、夜桜も悪くないかもね」
満足気に鼻を鳴らすカラ松に、なんだか面白くなってきて頬が緩む。酔っ払いが二人並んで月と桜を見上げて浸っている様子なんて、側から見たらただの不審者だ。人目がないのをいい事にきゅっと手を握られて、浮かれたように額にキスを落とされる。
「…こんやは、おどるにはいい夜だとおもわないか?」
カッコつけた口調の割に少し滑舌が怪しくなっているアンバランスさが滑稽だ。腕を引かれて、バランスを崩してカラ松の胸の中に倒れ込む。そのまま社交ダンスの真似事みたいにされるがまま振り回されてちょっと吐きそうになった。
「たのしいなぁ、いちまつ!」
「…そうかよ、よかったね」
おれは、春が嫌いだ。みんな浮き足立っているのも、何か新しい事をしなきゃいけない気分にさせられるのも、日に日に高くなっていく気温にうんざりするのも、寒さに凍えるふりをして、布団の左側に寄ることが出来なくなるのも。目まぐるしく過ぎる季節と周りの景色に、自分が一人取り残されているような気分になる。自分は何も変われていないのに、季節は待ってはくれなくて、来月になればまた無駄に年齢だけ重ねてしまうのに、酷く焦りを感じてしまうのだ。
「…お前はいいよね、なんか、いつも楽しそうでさ」
握られた手を、そっと握り返す。毎年桜を見ると、涙が出そうになるほど切なくなるのはどうしてだろう。おれを一人置いて、みんなが、お前が、どこか遠くへ行ってしまう気がして怖くなる。
「……からまつは、おれのこと、置いていかないでね」
ぽつりとこぼした本音は、情けなく震えていた。満開の桜が散ってしまうのと同じくらいにあっという間に、お前がおれの前から居なくなってしまう事がなによりも怖かった。
儚いものほど美しく見えてしまうのは、人間の性なのだろうか。昔から多趣味で飽き性だったこいつが、おれのことだけを視界に入れてくれる時間なんて、きっと今だけだ。花びらの最後の一枚が落ちてしまうのは、今日かも、明日かもしれない。
「…大丈夫だぞ、こうしていれば、オレはどこにも行かないから」
ぎゅっと抱きしめられて、自分より少し高い体温がじわりと身体に染み込んでくる。口ではそんな事を言っていても、変化を恐れないこいつを繋ぎ止めておくことなんて誰にも出来やしないのだ。そんな事始めから分かっていたはずなのにどうして、おれはお前の手を掴んでしまったんだろうか。
「いちまつがオレから目をはなさないでいてくれたら、オレはずっといちまつのそばにいるぞ」
茶化すような、浮ついた声だった。そんな事を言われなくても、おれはもうずっとお前の事しか見えていないっていうのに。春の季節みたいに、くるくると騒がしく表情を変えながらどんどん変わっていくお前から、目を離す事なんて出来るわけがない。
「…やっぱり嫌いだ、春も、桜も、お前も」
もう帰ろう、とカラ松の腕を引く。ずるいなぁ、そうやって、目を離せなくさせておいて、どうせあっさりおれの前から居なくなってしまうんだ。分かっているのに、どうしてたった一言にこんなに救われたような気持ちになってしまうんだろう。
「いちまつ、愛してるぜ!」
家へ向かう足取りは、少しだけ軽くなっていた。