先生をひとりじめまつのせんせい、と後ろから飛んできた生徒の声に、反射で振り返る。けれど視界の先に声の主の姿は見えなくて、首を捻りながらきょろきょろと視線を彷徨わせた。
「ここの問題について教えてほしいんですけど…」
「あぁ、いいよ、ちょっと見せて」
通り過ぎた教室の中から見知った声が聞こえてきて、あぁ、そっちの方の『松野先生』だったのかと合点がいく。一人できょろきょろしていたのがなんだかちょっと気恥ずかしくなった。
昼休みの始まりを告げるチャイムが鳴る。テスト期間も無事終わって、久しぶりに一緒に昼飯食えそうかな、なんて思っていた所だったので、なんとなく数歩戻って教室を覗く。わいわいと騒ぐ生徒達から少し離れた所で、一松とひとりの女子生徒が立ち話をしている様子だった。
「…それにしても、わざわざ自分で問題集買うなんて熱心だよね…これ、本来三年生で習うやつだよ」
「私、将来研究職につきたくて」
「テストもいつもほぼ満点だもんね、おれが言うのもなんだけど結構難しく作ってるのに」
「あはは、毎回細かいところ突いてきますよね、ちょっと意地悪っていうか」
「あ、やっぱりそう思ってる?でも受験問題とかになるとああいうクソみたいな出題多いんだよね。今のうちに慣れとけば対策しやすいかと思って」
一松はこちらにまだ気がついていないようだ。騒がしい教室内で会話を聞こえやすくする為だと分かってはいるけれど、なんだか少し距離が近い気がする。やっぱり好きなものが同じだと気が合ったりするのだろうか、なんて思った。オレは昔から理系科目はからっきしだったし、そもそも英語だって昔海外で暮らしてた時に自然と身についたものだ。教師になったのだって成り行きみたいなものだし、努力家で元々勉強が好きな一松とは何もかも全然違う。
「先生って見た目ちょっと怖いけど優しいですよね、授業も分かりやすいし」
「…変わってるね、そんな事初めて言われた」
ちょっと照れたように目線を逸らす姿にどきりとする。教師としての顔の一松をこんな風にじっくり眺める事は普段あまり無くて、なんだかちょっとそわそわした気持ちになった。
「じゃあ、また次の授業でね。君も早く昼飯食べな、分かんなかったらまた聞きにおいでよ。…おれ、人待たせてるし」
唐突にばちりと目が合って、びっくりして跳ね上がる。荷物をまとめてまっすぐ向かってくる姿になぜか酷く動揺した。
「っき、気づいてたのか」
「…そりゃ気づくでしょ。あんなガン見されたら」
「いや別に覗き見する気は無くてだな…偶然すぐ横のクラスで授業だったから…」
「何ごちゃごちゃ言ってんの。昼飯食う時間無くなるよ」
「えっ、あ、あぁ…」
さっさと歩いて行ってしまう一松を慌てて早歩きで追いかける。気づいてくれたのが嬉しいような、ちょっと恥ずかしいような。思わず頬が緩んでしまう。
「…なんか一松って、意外と生徒に好かれてるよなぁ」
「別に、テスト前後だけだよ。毎回来るのはあの子くらい」
「も、もしかしてさっきの子、一松の事が好きなんじゃ…」
「ないない、あの子職員室にもよく来てるけど、こないだ数学の土田先生とめっちゃ話盛り上がってたし。単純に勉強が好きなタイプなんだろうね」
「えぇ…勉強が好きなティーンなんて本当に存在するのか…?」
「仮にも教職員がそれ言っちゃダメだろ。まぁ気持ちは分かるけど」
「うん、でもそうか…熱心なのは良い事だしな…」
「…なに、もしかしてちょっと妬いた?」
揶揄うような声に、一瞬無言になってしまう。ごく普通の、日常的な教師と生徒の距離感だった筈だ。いつもなら、気にも留めない筈なんだけれど。
「……ちょっと羨ましいなとは」
「でも別に、仮に生徒に好かれたとこでどうにかなる訳じゃないよ」
「そ、そっちじゃなくてだな…」
「……えっ?」
「…一松が、あんな風に人を褒める事って、珍しいだろ?もしオレが理系だったら、そういう話で盛り上がったり出来たのかなって」
「…ふうん…お前もそういう事考えたりするんだ」
心なしか、声が少し明るくなった気がする。一松は酷い猫背だから、隣を歩いているといまいち表情が分かりにくい。なんだか少しうなじが赤くなっているような気がするのは気のせいだろうか。
「オレは理系科目はからっきしだけど、一松は国語科目も英語も出来るんだもんなぁ。オレが最高にカッコいいのは変わらないけど、もうちょっと勉強しとくんだったなぁ」
「…お前だって生徒からは人気者じゃん。まぁ面白がられてるだけかもしれないけど」
「でもオレの所には質問とか滅多にこないぞ?」
「…テスト解説の時間に英文使ったオリジナル曲歌うようなトンチキ教師に受験対策は頼らないでしょ…三年担当にならなくてよかったね」
「オレの新曲が楽しみでテスト頑張ってるって生徒も結構いるんだぞ。後で一松にも聴かせてやるからな」
「…クラス隣だったんだから思いっきり聞こえてましたけど…」
一度職員室に荷物を置いてから、昼食を持って人気のない屋上へ向かう。生徒は立ち入り禁止の場所だが、先生達はタバコ休憩なんかにちょくちょく使っている事もあり、暗黙の了解的なアレとなっているので、お互い時間に余裕がある晴れている日は二人でここで昼飯を食べるのが習慣になっていた。
ガサガサとコンビニのビニール袋を漁る音が二人分響く。家で作ってくる事もあるけれど、ここ一週間くらいは中間テストで忙しかったからコンビニ弁当続きだ。
「……てかお前さ、今回の曲の内容…」
「んん〜?なんの事だ?」
「いや、やっぱなんでもない…おれ英語分かんないから」
「一松が大学の時に書いた論文、全部英語だったじゃないか」
「…お前発音良すぎてリスニング難しいんだって…本当に聞き取れなかったとこ結構あったし」
「あれ、もしかして思ったよりちゃんと聞いてくれてたのか?」
無言で照れたように口を尖らせる一松が可愛くて、にやけてしまう口元が抑えられない。毎回テストの文章問題として載せているオレのオリジナルソングは、恋愛をテーマにした歌詞が多い。生徒受けもいいし、こうやって一松に聞かせた時の反応が楽しみなんだ。ちなみに今回は今年の夏、一松とナイトプールに行った時の思い出を綴ったものにしたのだが、この様子を見るにちゃんと気づいてくれたみたいだな。
「なんなら今夜、オレの家で改めて個人レッスンしてやろうか?」
「…お前が言うとなんかやらしい意味に聞こえるんだけど」
「そう思ってくれてもいいんだぞ?久しぶりだしな」
「やめろ、午後の授業集中出来なくなる」
パックの野菜ジュースをじゅるじゅる啜りながら眉を顰める一松に、なんだか少し胸がすっとするような気持ちになった。一松の気持ちが自分に向いているのが嬉しくてたまらなくて、そこでやっと自覚する。
あぁ、オレ、寂しかったんだな。
テスト期間の間、お互いに忙しくて二人きりの時間なんか全然取れなくて、毎日同じ場所にいるのに、一松の目線はずっと書類かパソコンか生徒に向いていて。オレも忙しさは同じだからじっくり考えるような暇はなかったけれど、きっと知らず知らずのうちに寂しさが溜まっていたのかもしれない。
「…オレ、高校の化学、勉強し直そうかなぁ」
「……なに、こっちもしろって?個人レッスン」
「一松が教えてくれたら頑張れる気がする」
「…去年の年末、混ぜるな危険が読めなくて風呂掃除で毒ガス事件起こしかけた奴は日本語の勉強からした方がいいんじゃない?」
「いやあれは…注意書きは目に入ってたんだがついな…」
「おれが途中で気づかなかったら笑い事じゃ済まなかったからね?事故例とか見る度にこんなバカ居ねえだろと思ってたけど、まさか実際に目にするとは…」
思い出しただけで頭を抱えて深いため息を吐く一松に、思わず苦笑いする。当時も随分怒られたけれど、あの時の本気で蔑む様な目は忘れられないトラウマだ。
「真面目に聞くなら教えてやってもいいけどね。いい練習台になりそうだし」
「えっ、いいのか?」
「その代わり、おれ結構厳しいけどね」
「それは…うーん、優しく教えてくれるとありがたいが」
「ちょっとくらい激しい方が好きなくせに」
「…こら、やらしいぞ一松先生。どんなレッスンするつもりだ?」
「ひひ、お前はそっちに関しては優等生だもんねぇ」
「…その言い方はちょっと犯罪のスメルが漂うからやめようか…」
生徒に聞かれたらどうするんだ、なんて照れ隠しに呟きつつ、唐揚げ弁当を飲み込むようにかきこんでいく。今日は絶対早めに帰ろうと心に誓った。
「ちなみに、どのレベルまで出来るようになりたいとかあるの?」
「うーん、一松が作ったテストで満点取れるようになるのが、当面の目標かな」
「マジか、随分デカく出たね」
「えっ、そんなになのか、一松のテスト」
「そこそこの点数までなら普通に勉強してれば取れるけど、満点は難しいかな。今回の中間テストではさっきの子の九十六点が最高だったし」
「えぇ…」
さっきの会話を思い出して若干血の気が引く。確かあの子、三年で習う内容の問題集解いてるって言ってたよな?
「…お前がおれの生徒になったら、きっと一生卒業できないと思うよ」
にや、と意地悪な笑みを浮かべる一松に、なんだかどきりとする。今、一松の目がオレだけを見ている、そう思ったらぞくぞくした。
勉強したいなんてただの口実だ。だけど、この学校のどの生徒よりも沢山、一松の視線を独り占め出来たらなんて思ってしまうのは、ちょっと欲張りがすぎるだろうか。
「…一生卒業出来なくても、ちゃんと面倒見てくれるんだろ?」
昼休み終了の五分前を告げるチャイムが鳴る。呆けたような顔をしている一松を横目に、慌てて弁当の残りを口に詰め込んだ。