わずかな月明かりさえ締め出した暗闇を、パチン、という音と共に暴力的なほどの蛍光灯の灯りが引き裂いた。先程まで朧げに浮かんでいた輪郭が明確な形を顕に、その肩がびくりと大袈裟に跳ね、と同時にガサガサとアルミの擦れるような音が響く。
「もうやめるって言いましたよね」
場にそぐわないはっきりとした、明朗な声だった。返事は無い。
フローリングを素足で鳴らし、振り向きもしないイホンの背後で立ち止まる。
「ねえ」
そう言ってハソンが手を伸ばした瞬間、固まったように動かないでいたイホンがテーブルに散らばる錠剤をむんずと掴み口元に運んだ。が、ハソンはそれがすべて口内へ押し込まれるより早くその腕を掴むとそのまま後ろに捻り上げる。床に白い粒がばら撒かれ、指先が後を追うように虚しく空を掴んだ。
ハソンは抵抗する身体を後ろから腕を回しテーブルと身体で挟み込むようにして拘束すると、捻った右腕も自身の腹の間に押し込みそのまま慣れた様子でイホンの口の中に指を突っ込む。
「今何粒食べました?全部出して」
舌下を探ると二粒のまだ綺麗に形の残った錠剤が唾液と共にイホンの顎を滑り落ちた。
ハソンは器用に足で散らばった粒を出来るだけ遠くへ押しやると、ようやくイホンの身体を放す。途端に激しい咳をしながら崩れ落ちるイホンの両脇を素早く支え、ゆっくりと床に座らせた。
「ヒョン、大丈夫?」
俯いたままのイホンを心配そうに覗き込む。先程まで力でイホンを征していた男とは思えない、まるで雨に濡れた仔犬のような目だった。
「……どうして」
床についた手を、爪が皮膚に食い込むほど握り締め、イホンは喉を震わせるようにして言った。
「何、」
「どうしておまえは俺の邪魔ばかりするんだ」
心外だとばかりに瞬いた丸い目にイホンはまた苛ついた。そんな風に純粋なフリをして他人の懐にするりと入っては誑し込む。これ見よがしに舌打ちをするが、そんなことで折れてくれるような精神を持ち合わせていないのも腹立たしい。
「ついこの前、もう薬は飲まないって約束しましたよね。あの時全部捨てたはずなのにいったいどこからこんなに……」
ハソンはテーブルの上の、乱雑に放られたPTPシートを見上げる。イホンが中身を取り出し終えた残骸の他に、ふた束ほど輪ゴムで結えてあった。
立ちあがってざっとシートに綴られた名称を見るに、見慣れた名前が並ぶばかりで違法なものは混在していないようだ。とりあえずほっと息をつく。それでも、あまりに量が多すぎる。真っ当に処方されたものだとは思えなかった。
「約束なんかしてない」
「しました」
「おまえが!一方的に言わせただけだろうが!」
勢いのままに床へと叩きつけた拳から血が滲んでいる。洗い流す際また痛い痛いと喚くハメになるのだから、加減をすればいいのにとハソンは思ったが、ストレートに伝えたところで聞く耳を持たないだろう。
肩で息をするイホンをこれ以上刺激しないよう、ハソンは再びゆっくりとしゃがみ込み、血に濡れたイホンの手を取った。
「じゃあ、今度はちゃんと約束してください」
「いやだ」
「僕はもうあんなあなたをみたくないんです」そしてハソンは一瞬躊躇するように口をもご付かせたあと「――王」
覚悟を決めたような表情で、そう付け足した。
イホンはその瞬間、カッと目を見開いて床を睨んでいた顔を勢いよく上げたかと思うと、そのままハソンの胸倉を掴みのしかかるようにして馬乗りになった。ハソンは一瞬だけ「うわっ」と声を上げたが、分かっていたとでもいうような静かな目で逆光で暗く影の落ちた顔を見上げていた。
「殺してやる」
「やめてください、とうさんとかあさんが悲しむ」
「じゃあ俺に死ねというのか」
「それも、とうさんとかあさんが悲しむ」
「そんなわけない。あの時だって、誰も悲しむ人間などいなかった」
Tシャツの襟元に赤黒いシミが付くのを、ハソンは溜息交じりに見る。
「あの時と今は違うでしょう。とうさんもかあさんも僕たちのことを大事に思ってくれています」
「そんなこと、どうして分かるんだよ」
イホンはハソンの襟を力任せに引き上げ、そのままの勢いで下ろした。ゴンという鈍い音とともに、ハソンは後頭部をしたたかに床に打ち付け、たまらず唸り声を上げた。
イホンは自分がやったことであるにもかかわらず、痛そうに顔を歪める。そんなイホンを見たハソンはとうとう眉を顰めて言った。
「何が不満ですか?こんなに愛されておいて、素直に受け取れないのならあの時だって……結局居ても居なくても同じだったのでは?」
「五月蠅い、五月蠅い五月蠅い!」
イホンが激昂のまま振り上げた手をハソンは軽くいなして、その身体ごとひっくり返し、同じようにして馬乗りになった。
軽い。ハソンが全力で体重を掛けたら潰してしまいそうだ。同じように育ってきたはずなのに、どうしてこんなにも違う。
目尻から生理的な涙を流し真っ赤な顔を歪めたイホンを、ハソンは哀れむことしかできなかった。
自分の兄として生まれなおした彼はいつから再び過ちをなぞることになったのだろう。後悔しても遅い。でも、ハソンはもう、確かにこちらを見ているはずなのに何も映っていないイホンの濁った眼を見たくはなかった。
「お願いだから、もう止めよう?」
「返せ」
「いやだ」
「この野郎!」
「僕が!」
ハソンはイホンの両頬をてのひらで包むように添え、祈るようにその額と額同士を合わせる。
「僕が悲しいよ、ヒョン」
ハソンを引き剝がそうと背中に回っていたイホンの手が、音を立てて離れる。
どちらともなく鼻を啜るような音だけが、静かな部屋の中にただ、響いた。