時空院さんと寂雷先生のお話(現在軸) 目隠しを外される。
徐々に明るさへ馴染む視界が、時空院のいるガラス張りの部屋を認識した。
二十畳ほどありそうな室内には自分しかいないようだ。転がされているマット以外に物もない。
ガラスの外は広い部屋で、多くの端末とモニタ、それから大勢の白衣の女達がいる。防音のようで外の音は一切聞こえない。
拘束具に覆われた体を動かして緩慢に上体を起こすと気付いた何人かが顔を向けてきたが、害はないと見なされたかそれだけだった。
手近な壁、というかガラスに背を持たれかける。正面には外側の部屋のドアが見える。
見つめて待つこと十分強、ようやくドアが滑らかに開いた。
制服の女に続いて長身痩躯の男が入ってくる。
猿轡を噛まされている口を動かす。笑顔になったつもりだができているだろうか。
髪がさらに伸びたようだ。少しやつれても見える。
いや知っている、映像を見ているから知ってはいるのだが、やはり直接の邂逅は感慨が違う。
ill-DOC、神宮寺寂雷は白衣の女達と何かを話しながら、特に意図していない動きで顔をガラス部屋に向けてきた。
そして時空院と目が合い、少しだけ、だが確実に驚いた様子で目を見開いた。ここにいるのが自分だとは知らなかったようだ。
頭を下げる。上げた時には、もう寂雷の視線は外されていた。
しばらく女達と話をした寂雷がマイクを受け取る。
ガラスの部屋へと入って来た寂雷は、ドアが閉まるのを確認してから時空院を一瞥して言った。
「彼の拘束を解いてください」
ガラスの外で動揺がさざ波のように広がるのがわかる。
頭上のスピーカーから声が降ってきた。
「しかし、こいつは凶悪な、」
「構いません。彼に私は殺せない」
寂雷の言葉に女達が何やら話し合う。結論はすぐに出たようだ。
「……わかりました」
声と共に、拘束具のロックが外れたのがわかった。時空院は手早く手足の拘束具を外して猿轡をとり、立ち上がる。
「お久しぶりです、ill-DOC。またお会いできて光栄ですよ」
改めて恭しく頭を下げる。
寂雷は頬ひとつ動かさず時空院の礼を受けとめ、静かに口を開いた。
「……君は、これから私が何をするのか知っているのですか」
「ヒプノシスマイクのアップデートのための実験、と聞いています。さすがですねえill-DOC、君の力は中王区も欲しがるというわけだ」
詳しいことはまったく知らないが、機密であろうヒプノシスマイクの実験にわざわざ寂雷を参加させるということは、彼でなくてはならない理由があるに違いない。
そこに何故時空院が選ばれたのかは、自らの行いのたまものだと自負している。ことある毎にill-DOCに会わせろと要求してきた甲斐があったというものだ。
望み続けた面会が、まさかこんなにもお誂え向きなものになるとは嬉しい誤算だったが。
「さあどうぞ、ill-DOC」
正面に立ち、体の力を抜く。
寂雷は何の感情も見えない表情でマイクを構えた。長い腕の中でマイクが形を変える。
アスクレピオスの杖、意匠としては評価するがそれを寂雷が使うのはどういう了見だ、と思っていた。だが中王区に捉えられ時間だけはたっぷりあった時空院には既にそれを慮る鍵があった。
光輪を伴うスピーカーが現れて、低い声が韻を紡ぐ。
脳に墨が流れ込んでくるような感覚、冷たく、静かで柔らかな。
時空院は奥歯を噛んだ。
「……こ、れは、」
これは殺意ではない、悲しみ、哀れみ、慈悲、否ちがう、慈愛か? わからない、知らない、わからない。だが。
「こんなもの、君じゃない……!」
時空院は天使の羽の奥にある寂雷を目を睨み付けた。
「なんですかその目は……」
時空院は落胆していた。まさか、あのバトルを交わして未だなおこの段階とは。我ながらかなり熱烈なアピールをしたつもりだったが、伝わっていなかったらしい。
「知っていますよill-DOC、戦い方を変えましたよね。君のバトルは全部観ているんです、中王区はラップバトルの映像だけは積極的に観せてくれますから。戦い方を変えた、君、迷っているのでしょう? 大丈夫です、私に遠慮は不要です! 私には本当の君を見せてくれていいんですよ。さあill-DOC、本能のままに私を殺すといい。言ったでしょう、私は君のような強者に殺されるのが夢だと!」
見つめる寂雷の瞼が僅かにおりた。す、と視線が鋭くなる。
「その目、そうその目、やっとだ……」
大丈夫私にはわかります。
冷たく鋭利な表情、くだらない建前を持たぬ美しき人外の目。
だが時空院は気付いた、その目の向く先が自分ではないことに。
何を見ている、私を見ろ、君の殺意を受け取るべきは私だ。
「ill-DOC」
手を伸ばす。
わななく指先の向こう、研がれた視線が薄い瞼に消え、石膏のような頬がほんの僅か酷薄に動く。
そうして時空院は理解した。
「ああ」
理解して時空院の全身からこわばりが消えていった。
それならいい、それならわかる。
強きが残り弱きが消える、強者による淘汰は生物の正しい姿、強者から与えられる死を望むのは自然なこと。
やはり、私達は同志だ。
「君も、君自身に、」
どさり、という音と体への衝撃を他人事のように受け止める。
狭くなっていく視界の中で、届かぬ手が床へと落ちた。
***
被検体が倒れて一分、ガラス張りの室内にアナウンスが響く。
「データ取れました。成功です、お疲れ様でした」
ドアが開く。
ゆっくりと部屋を出た実験者と入れ違いに、刑事局員がガラス部屋に入っていき、被検体に拘束具を装着した。
実験者からテスト用マイクを受け取った研究員が、長身の脇からガラスの中を覗き口を開く。
「あの男、事前の資料からはもっと抵抗、と言いますか騒ぐかと思ったのですが……静かなものでしたね」
実験者は研究員の言葉には何も返さず、顎を巡らせ廊下へと通じる扉を向いた。
「帰っても?」
「ええ、大丈夫です。外までお送りします」
短い問いに、研究員も頓着せず扉を手で示した。