白い虎「ジュンくん、一人でニヤニヤして。そんなだらしない顔、誰かに見られたら笑われちゃうね!」
「ええ、そんなに変な顔してました?すんません」
日和がジュンの手元の携帯電話を覗くと、可愛らしくころころと寝転がるライオンの赤ちゃんの動画が再生されていた。海外の人気動画をまとめたものが自動で再生されている。
「いや、この間仕事で動物園行ったりしたじゃないですか。すげえ可愛かったな〜って思って、終わってから動画調べたりしてたんですよ。そしたら最近のSNSってその……凄いじゃないですか。なんだっけ、あの、おすすめ機能的なやつが」
ジュンは何か言葉が出ないというように、指を空中に漂わせて悩んでいるようだった。
「アルゴリズム、のことを言いたいんですか」
それまで黙ってタブレットを見つめていた茨が、呆れたように口を挟む。
「アルゴリズム」
「ユーザーが興味を持ちそうなコンテンツを自動で表示し、エンゲージメントの向上を計る仕組みのことですね」
「あ、そうそう。それっす。さすが茨は物知りっすねえ」
「まあ、SNSマーケティングは自分の領域でもありますからね!」
「きみの得意自慢は今は聞いていないんだけどねえ?茨。それで、ジュンくんの携帯には動物の動画がたくさんおすすめされるようになっちゃったわけだ」
日和はジュンの携帯を奪っていくつかおすすめ動画をザッピングする。
「ジュンくんは浮気者だね!うちにはブラッティ・メアリっていう世界一可愛いお姫様がいるっていうのに。それだけじゃ物足りないって言うの?ああ、悪い日和!」
嫌だ嫌だ、と首を振りながら日和はポイとジュンに携帯を投げ返した。
「それとこれとは別じゃないですかあ〜?確かに他の犬見てても、なんだかんだうちのメアリが一番可愛いですけどねえ。ただ普段なら見ないような犬猫以外の動画もたくさんありますから」
こういうのもかっこいいんですよお〜、とジュンが見せてきた動画を見て、日和はぎゃっと飛び上がる。
「……ボールパイソンだね。性格は臆病で、ほとんど人間に危害を加えないらしいけど」
先ほどまで読書に耽っていた凪砂が手元の文庫本を読み終えたようで、日和が遠ざける携帯の画面に映る、手乗りサイズの蛇の動画を興味深げに覗き込んだ。
「嫌っ!!どう考えても見た目が悍ましいよね、理解できないねっ!」
「……こんなに人に懐くんだね。大丈夫だよ、日和くん。……ほら、愛らしく手から直接餌を食べている」
「あはは、食べさせているのはネズミですけどねえ。おお、これは素晴らしい。見事な丸呑みですよ!」
「全く悪趣味だねえ。この間のロケでも二人は巨大な蛇を首に巻き付けていたし……信じられないね」
自分以外の三人が楽しそうに蛇の捕食動画を見ているのを遠目に、日和はげんなりした顔を浮かべる。
「あれすごかったっすよね〜。オレも首に蛇巻いてみたかったのに、おひいさんが嫌だ嫌だって叫ぶもんだから……。そういえばナギ先輩、あの時動物園の虎に餌あげてたじゃないですか。でっかい肉を手渡しで食べさせるやつ」
「……うん、あれは楽しかったね。虎にあそこまで近づいたのは私も初めてだったから、迫力があって心が躍った」
「あれはすごかったね!凪砂くんが食べられちゃうんじゃないかって不安になったけど、すごく大人しくて、いい子だったね」
以前あったEden4人での動物園ロケ。貸し切って撮影を行ったのは地方のそう大きくない動物園だが、飼育されている動物たちとより密接なふれあいができることが売りであったり比較的珍しい動物がいくつかいたりすることで、知る人ぞ知る良施設だった。先日地上波でEdenが来た動物園だと知られたこともあり、若い女性ファンが小旅行ついでに聖地巡礼として訪れていることを、茨はSNSのエゴサーチにより把握していた。
番組は多くの反響を得ていた。ジュンがモルモットやウサギなどの小動物を抱き上げて愛でたり、日和が馬と仲良くなってひらりと乗馬体験を披露したり、茨は爬虫類のコーナーで蛇やイグアナを手慣れているように扱って、そして番組の何よりの大目玉は、凪砂が飼育員体験で虎に塊肉を餌付けする展開だった。
凪砂がその動物園でふれあった虎は、一般的な虎ではなかった。
雪のような白い毛並みに黒の模様、アイスブルーの瞳をたたえた美しい白虎、ホワイトタイガー。
ホワイトタイガーは、「ホワイトタイガー」という種の動物ではなく、突然変異によってその白く美しい姿を獲得したベンガルトラの白変種である。現在は絶滅危惧種で、野生ではもう発見されていない。今動物園で見ることのできるホワイトタイガーは、全てが人工的に繁殖した個体だ。
茨はロケの司会進行を行いながら、閣下によく似た毛の色をお持ちなんですねえと感心するトーク運びを見せた。
「虎って凶暴なイメージですけど、ああやってると大きな猫って感じで可愛かったですねえ〜。たまに回ってくる動画で虎を飼い慣らしている人とかいますけど、噛まれねえのかなあ」
そう言ってジュンは別の動画を流す。顔の掘りが深く煌びやかな印象の貴族らしい男性が、巨大な虎の顎を撫でて愛でているものだった。
「そりゃあ、いざという時に噛むでしょうね。どんなに懐いているように見えても獣ですよ。それは一般的な犬猫であっても同じことでしょう」
「まあそらそうですけど……でもベッドで人間と虎が一緒に寝てたりとか、朝起こしに来たりもしてるから、すげえなって」
「ぼくはそんな命の危険を感じながら眠るのは御免だね。それに、悲しい事故が起きないように暮らす場所を正しく分けることは、人間の責務だと思うしね」
別にオレが本気で飼いたいわけじゃないんですけどねえ、とジュンは苦い顔をする。リアリストの二人に投げる話題ではなかったかもしれない。
ジュンは開いていた動画を閉じたが、動画の中の人懐こい虎を見つめていた凪砂は、懐かしむように遠くを見つめた。
「……美しい子だった。またあの子に会いたいな」
「はあ、あの虎に、でありますか」
うん、と小さく頷き、凪砂は茨の瞳を捉える。
茨は白虎に対し凪砂のような毛並みだと例えたが、凪砂は手元の真っ赤な生肉に懸命に齧り付くそのアイスブルーの瞳に茨を重ねていた。
シーツの上で身体にのしかかられる度に、ああ、やはりこの男はあの白い虎のような人だ、と茨は思った。
どっしりと大きな身体を横たわらせ、鋭い瞳で存在感を放つ。他の個体とは異なる白く美しい身体は神秘的で、古来に神と扱われたことも頷ける。
強く美しい孤高の存在でありながら、ネコ科の動物として腹を見せて寝転がりあくびを見せて気を抜けさせた。巨大な生肉をがつがつと食らう姿は野生の姿を思い出させ、こちらに危害は加えて来ないものの、人間はこの生き物に喉笛を噛みちぎられてしまえばひとたまりもないことを見せつけられる。
白く輝く銀の糸が垂れてきて、行儀悪くべろりと唇を舐められた。別の生き物と重ねていることを嗜められているようだった。何も言わず静かに、捕食の予告をされているみたい。こじ開けるように唇を舌でなぞられ、お手上げだと茨が口をひらけば、食べ尽くすように侵入してきた。
簡単に自分の頭をその顎で砕いて、咥えたまま胴体を振り回して蹂躙できてしまうような生き物が、自分の前で喉を鳴らし腹を見せている時、どれほどの愉悦を感じるだろうか。そうやってふと先日ジュンが見せてきた虎を手懐ける動画を思い出す。
こんな行為、急所全部晒して、喉仏を舐られて。そうやって動脈に近い場所を触れられるたびに、不思議と脳が痺れて悦んでいる。食事のような全身への口付けに気が済んだのか、頭が上げられて目が合う。凪砂の柔らかな髪を褒めるように撫でれば、猫のようにスリと頬を腕に擦り付けてきた。
あの美しいホワイトタイガーについて動物園の飼育員が生態を解説してくれたが、ホワイトタイガーは白変種であり、アルビノではないのだという。アルビノはメラニンの欠乏による遺伝子疾患で生まれてくるが、白変種の遺伝子は通常のベンガルトラの通りである。よく見る黄色い毛をしたトラに比べて身体が弱かったり寿命が短いということはない。
なぜホワイトタイガーの身体は突然変異で白くなったのか。それは氷河期時代、白い身体の方が身を隠しやすいために突然変異で獲得したものであり、美しい毛色はそんな過酷な環境を生き抜いた個体である遺伝子を受け継いだ証明であるということだという。しかし氷河期が終わってからは逆にその毛色が目立って不利に働いてしまい、美しくもかつては環境に適していたはずの彼らは、少しずつ淘汰されたのだった。
身体の異常などではなく、自然界を生き抜くために獲得した生存戦略としての美しさ。
茨はそれを聞いてその生き物が少し気に入ったのだ。
くるくると指先で凪砂の細い髪の毛を弄る。この男の白は、アイドルとして生きるために神が与えたものであろうか。
本来必要なものが除かれたが故の、不足の白ではない。強さとして与えられた白だ。
「……茨、もしかして疲れている?」
「はっ?いえ、別にそういうわけでは」
突然の身に覚えのない指摘に、思考が我に返った。ぼんやりとあの虎のことを思い出していたせいで、集中できていなかったからか。
「……今日は何だか、私の髪の毛が気になるみたいだったから。ストレスが溜まっている時、いじりたがるでしょう」
凪砂は先ほどまで無遠慮に茨の全身を食べていたとは思えないほど、こちらを気遣うような瞳を見せた。プライベートの行為上であっても、集中できずに相手を不安がらせたことはいただけない。茨は少し申し訳なさそうにして、指先から髪の毛を手放した。
「ああ、すみません。閣下の御髪が今日も美しく、惚れ惚れしていただけですよ」
「……それは茨が、私の髪の毛のケアを気遣ってくれたからだよ」
今日は仕事で来た遠征先のホテルを一部屋とっていた。いつもであれば寮でのヘアケアは、美容液の使用などは指示しているが実際には凪砂本人に一任している。毎日風呂上がりに茨が髪を乾かしに行くことは流石に難しかった。風呂上がりに本でも読み始めてしまえば没頭して髪をびしょびしょに濡らしたまま放置してしまう凪砂だが、そんな状態を発見したら注意するように同室のメンバーには茨からお願いしていた。
今日はホテルでの同室で、風呂上がりの凪砂の髪を丁寧に茨がドライしたため、普段から美しさを保つその髪の毛の艶がより一層際立っていた。
生まれながらにしてアイドルである凪砂の髪の毛は毛質にも恵まれており、基本的には常に指通りが良いのだが、比較的状況が悪い時もあった。海外放浪中は水質が合わなかったりケアを怠っていたりでパサついたり、茨に出会ってからも洞窟に篭っていたりした時は、土煙や湿気でキシキシになったりしていた。その度に茨は秀越学園のシャワーで凪砂の長い髪を洗い上げ、プロの美容師が髪質を見て分析した最適なヘアケア商品を用意して磨き上げたのだった。
「この間の虎のことをつい思い出していたんです。閣下が餌やりをした、あのホワイトタイガー」
「……ああ、ジュンたちとそんな話をしたね」
「ええ、閣下のお姿があの白虎のように神秘的だな、と」
ばくばくと自分を貪る様子も、あんな動物みたいだと思ったことは隠しておくことにした。
過酷な氷河期が終わった地上では、白く美しい身体は意味がなくなった。
アイドル業界を生きるこの白い虎は、その氷の地がもし失われたとしたらどうやって生きていくのだろうか。
「……私はあの子を見た時、茨を思い出したよ。瞳が透き通るように青くて綺麗だったから。……君の中の青とは全然、似ていない色だけどね」
茨の瞳が深い海のような青ならば、虎の瞳は氷のような水色だと言えた。
「……私と君がもし一つの生き物になったとしたら、あんな姿になるのはどうだろう。黒い縞模様と青い瞳が君で、白い体毛が私。……どう?凄くぴったりだと思うな」
凪砂は名案だと言うように目を輝かせた。まあ随分と、ロマンチックなご提案ですねえ。茨は苦笑して唇に口付ける。
まだ二人は二匹の虎のまま、食事のようなじゃれ合いを再開した。