性l行l為に愛情を〜に関しての私の見解「愛情のある親が交わってできた人間ってことか?」
この言葉は尾形が普通の人間であったということを表したかった言葉の一つというのは妹との話で納得したんですが、
「性行為に愛情の有無を重要視している」
ということに自分の中で何故違和感があるのか改めて考えてました。
「性行為の中では愛情を向けているという相互関係であるべき(愛がなくてはいけない)」
となるとお互いに愛があった、つまりあの男と母親は愛し合っていたという意味になってしまい、その間に生まれた自分は愛し合った末に生まれた普通の人間であるということを認めてしまうことになる。
あの男は母親を愛していなかった、愛し合った末に自分が産まれたわけではなかった、故に祝福されてこなかったという「欠けた人間」であることにあれだけ固執していたのだから
「性行為は愛し合ってするべきと尾形自身は考えている」
という解釈に違和感が残る。
正直性行為自体が重要ではなくお互いに愛し合っていたかが肝心なわけで、性交に愛があるべきとなると
「それじゃあ何故あの男と母親は交えることができたのか?(そもそも子供を作るような行為をしないのでは)」
という疑問が尾形の中に残るのではないか?というか、片方に(お互いに)愛情が無くても性交して子供が作れるのだということを自分の存在で体現してしまっているわけで、それを否定したら自分の存在自体を否定してしまうことになるのではないだろうか。
だからこそ自分の存在を位置付けるために
「愛情の無い親が交わって出来た子供は何かが欠けた人間である(で、俺が産まれたってワケ👶)」
と思い込んでそうなろうとしていたのではないか。
最期になったその時に両親に愛した瞬間があったのかも知れないと理解したんだろうな。理解したというか、そうだったかもしれないと心のどこかで思っていながらもそれを否定していたんだろうと思う。
前も呟いたように欠けた人間になろうとしていたのなら「それ」を確認していた可能性があると思ってるので娼館行って娼婦と数回関係を持った可能性はありそう。
もしどこかの娘から好かれていても向けられた愛情に知らないふりをしていそうだし私的に尾形は釣った魚にエサやらない(やり方がわからない)と思ってるので何も無く終わってる可能性もありそうだなー。
女好きではないだろうしそれを証明しようとしているだけな気がするので愛情が無くても性交が出来るなとわかってしまったら子供が出来る前に娼館は行くのをやめてそう。
私の見解はこんなところでしょうか。
…他の方の見解が正しいとか間違ってるとかいうことでは無いです。童貞ピュア尾という説があっても良いんです。
他の方の意見を見て「私の中で違和感を感じるのは何故か、私の中の尾形を肯定する為には自分はどう解釈したらいいのか」というのを考えたかっただけです。