それでも劇は続く「ずっと羨ましかったんだ」
「平和で楽しい子ども時代を持つ人間が、そうやって育った結果持ちうる他人を信じる心が、ずっと」
羨ましくて、眩しくて。素敵だと思った。フォンテーヌ、いや、テイワットの子供達が全員そのように成長してほしいと願っていた。
「だって、それは絶対に自分が持てないものだから」
幼少期に信じていたものは全てまやかしだった。だから、絶対に信じられる根拠をこの目で確認するまで、用心深くいなければいけない。
だから純粋に羨ましく思っていた。"それ"は、大変輝かしくて、好ましい。だから——自分は近づいてはいけない。
「でも、そんな俺でも、絶対に信じられるものがあったよ」
普段より特段柔らかな口調で、リオセスリはその名前を口にする。
——なぁ、シグウィン看護師長?
「あんたが初めて俺の手に触れた時の温かさも、無力感に項垂れた俺を抱きしめてきた時の鼓動の音も、俺は全部覚えてる」
だってそうだろう? 彼女は人間を信じてる。儚い命を持つ生き物の善性を絶対的に信じてる。その目で、手のひらで、心で、人に愛を注ぐやさしいいきもの。
「俺はそれに応えたかった。応えなければ、と思わされたよ」
初めて本当の愛を知れた気がしたから。その始まりは彼女にとっては当たり前の、人間全般に対する慈愛だっただろう。それから、メリュジーヌ特有の敏感さで、瞬時にリオセスリの抱えるものに気づいた。他人を警戒することしか知らない傷だらけの少年に、辛抱強く語りかけた。
「神の目を持っているのにどうして使わないのって怒られたこともあったな」
リオセスリが闘技場から毎度ボロボロになって帰っていた頃の事だ。その日も傷だらけの血だらけでシグウィンの元に来たリオセスリに、そんな風にならなくてもいい手段があるでしょうと怒った。リオセスリが教えたことはなかったが、シグウィンは当然のように氷元素の使い手だと知っていたのだ。
結局何も言わずににっこりと笑うリオセスリに、何か理由があるのはわかるわ、仕方ないわね。そのかわり必ず毎日医務室に来ること! と言う他なかったシグウィンが、その後自分の不甲斐なさに落胆していたのも知っている。
そんな彼女がいたから。
「あんたがいたから、俺は愛を失わずに済んだ」
「最後まで下手くそだったがな。……ちゃんと伝わってたか?」
リオセスリは自嘲気味に片頬だけで笑いかけた。
今日のフォンテーヌ廷は、朝からずっと雨が降っている。まるで目の前の彼女の心理をそのまま写しているかのように。
そろそろ泣き止んでくれないか。リオセスリはそう眉を下げてシグウィンの目尻に指を添えた。
「ちっとも困ってないくせに」
ここまでずっと唇を噛んで黙りこくっていたシグウィンは、それで決壊したようにしゃくりあげた。
ずるい、ずるいわ、公爵。うわごとのようにシグウィンは言う。
外の雨が強まった気がした。共鳴するように、シグウィンの涙はいよいよ大粒になって降り注いだ。
——共鳴しているのは、あっち側だろうがな。
ゆるゆると口角を上げるのを止められない。
「そりゃないぜ、看護師長。人の寿命はあんたにだって、"誰"にだってどうにもできない。そうだろう?」
誰、を強調して、含み笑いを溢した。
「俺の看護師長。——シグウィン。俺の愛は、あんたに伝わっていたな?」
今度は信じ切った声音だった。
「当然よ。ウチの大事な可愛い人間だもの」
シグウィンはしがみつくように、リオセスリを抱きしめた。
不器用なこの人に愛をあげられて本当によかった。背中に回された大きな手のひらの温もりを享受して、シグウィンは心から思った。
「ウチだって救われていたのよ、公爵」
メリュジーヌは、人間と多くの感覚が異なる。美的感覚も、味覚も、その他色々。いくら現在のフォンテーヌでメリュジーヌが慕われていようと、その感覚の違いから優しさが仇となることは多くあった。多くのメリュジーヌはそれを理解していないが、シグウィンは違った。
ウチの思いやりは上手く受け取ってもらえない。でも、間違っているとは思わない。こっそりやるのだ。この心は本物なのだから。
シグウィンは人間が大好きだ。だから、人畜無害な「マスコット」を偽った。人間にとって、メリュジーヌはそうあるべきだ。人間に信頼されるには、そうでなくてはならない。
それすら何よりも素敵なイタズラのように楽しめるようになったのはきっとリオセスリのお陰だ。シグウィン達のイタズラは、確かにリオセスリの"悪癖"に影響されたものなのである。
初めて会った時、リオセスリが仮面を被っていたように、シグウィンも全身武装の「優しい看護師長」だった。それが思わず剥がれた時リオセスリはニヤリと笑った。そうだ、そんなあんたが見たかった。そう言って。
初めてミルクセーキを渡した時、まだ少年のリオセスリは少し疑った顔をして、
「これはあの謎肉みたいな味しないだろうな」
と言った。
「あら、大丈夫よ。素敵な見た目でしょう?」
確かに些か飲物あるまじきファンシーさであったが、人間から見ても可愛らしいと感じられる見た目である。
結局リオセスリはそれを飲み干した。一口含んでから全て飲み干すまでずっと、この世全ての「不毛」を味わっているような顔をしていたが。
そこから始まり今も続くミルクセーキをめぐる攻防は楽しかった。揶揄うようにミルクセーキを避けるその手は、最後には結局ミルクセーキを掴むのである。
「看護師長の愛は刺激的だな」
そう言って顔を顰めるリオセスリに、
「公爵はこれが大好きだものね?」
と全てをわかった顔で笑うのだ。
リオセスリはメリュジーヌを世界一優しいもののように扱うが、メリュジーヌ達に言わせればリオセスリこそ優しい人間だった。表情には出ない「祈り」を察せられるのはメリュジーヌだけだった。彼はよく他人が愛されることを祈っていた。まるで自分が愛されることについては思ってもみないように。
リオセスリにこっそりシールを貼り付け始めたのは、確かに遊びだった。バレずに沢山貼れた方が勝ち。彼はいつ気づくだろうか。怒るだろうか。怒った顔も見てみたいかも。でも、きっと怒らないわよ。そんな遊びはとても楽しかったけど、遊びというだけじゃなかった。
メロピデ要塞の改革を企むリオセスリ。正式な管理者となり、公爵となったリオセスリ。どのような状況下でも、人々が恐慌によって支配されることを望まない彼は、常に自分以外の誰かの平穏を願っているようにも見えた。
そんな、慕われつつも誰もそばに寄せ付けない空気を持つ人間のことを気にかけている者もいるのだと。貼られたシールを見るたびに自分が愛されていることを思い出して。キミがキミの幸せを願えないのなら、私達が願ってあげるから。これが要塞に遊びに来るメリュジーヌ達の総意である。
ハァ、と毎度軽いため息をついてシールを剥がすリオセスリは、しかし一度も拒否しなかった。シグウィンが聞いたのは、「背中に貼るのは見つけられないからやめてくれないか?」と、それだけだ。
これら優しさの応酬について、メリュジーヌが先かリオセスリが先かは関係ない。リオセスリは優しくて、そんな人間だからメリュジーヌ達はリオセスリがいっとう好きなのだ。
リオセスリは聡明で、人ならざる者の慈愛を正しく解釈できる人だった。そんな聡明さと優しさのお陰で、シグウィンはただの「シグウィン」として、リオセスリの側に居られるようになったのである。
こうしてシグウィンとリオセスリはより一層親密に会話を交わす仲になった。たくさんの秘密を共有した。二人と、時に二人が見つけてきた信頼できる仲間と共に、作戦を立て、計画を実行した。武力で解決しようとする時、シグウィンはいつも留守番だったけれど、リオセスリはいつもシグウィンの元に帰ってきた。
「ただいま、看護師長」
「おかえり、公爵」
当たり前となったその会話が大好きだった。大好きだったのだ。
「本当に、そろそろ泣き止んでくれないか? このままだとフォンテーヌ廷が水没しそうだ」
そう言ってリオセスリはよしよし、とシグウィンの頭を撫でた。
「ちょっと、子供じゃないのよ」
「でも、撫でられるのは好きだろう?」
「それは、そうだけど」
シグウィンは不貞腐れる。リオセスリがシグウィンの頭に触れたのは初めてだった。ヌヴィレットとは違う、ゴツゴツとした手の少し雑な指遣い。しわくちゃになって、浮き出た骨が少し痛かった。でも、この手が大好きだと思った。
「いいじゃないか。この歳になるとつい、小さきものを可愛がりたくなる」
「ウチは公爵が生まれてくるずっと前に、今の公爵の歳を追い越してるのよ」
こんな軽口の応酬も、これからできなくなる。
「ヌヴィレットさんにもそろそろ怒られそうだ」
「こんな時くらい許してくれるわよ」
シグウィンの涙はまだ止まらない。
困ったなぁ。そう言ったリオセスリの言葉尻が震えるのがわかった。シグウィンはハッとして顔を上げる。
「そろそろ、取り繕えなくなりそうだ」
これまでずっと穏やかな表情だった男の眉が、くしゃりと歪むのが見えた。それで、シグウィンはグシ、と涙を拭った。そうだ、自分は縋って泣き喚きに来たわけではないのだ。
「それは困ったわね」
無理矢理でも、不恰好でも、にこりと笑った。
「大丈夫よ、公爵。大丈夫」
揺れる瞳がリオセスリの心情を物語っていた。だから、これは絶対に伝えなければならないのだ。
今度はシグウィンがリオセスリの頭を撫でた。これまでのフォンテーヌへの貢献に感謝を。それから、注がれた愛にそれ以上の愛を。
「ずっとウチがそばにいるから。だからもう、安心していいのよ。肩の力を抜いていいの」
どうか、どうか、永い夢が穏やかで温かいものでありますように。
「今までおつかれ様、公爵」
シグウィンは最大の慈愛を込めて告げた。
「おやすみなさい、リオセスリ」
「…………ありがとう、シグウィン」
リオセスリは、自分の名前をそれなりに気に入っていた。自分で選んで自分で決めた、長ったらしくて呼びづらい名前だ。
それでも今、ようやく本当の意味でこの名前を受け入れられた気がした。「リオセスリ」は「生者」を演じる役名だったのに。
今、自分はリオセスリで、リオセスリとして一生を終える。それが心から嬉しかった。
人生の大半を共にした小さなパートナーの腕の中で、リオセスリはゆっくりと目を閉じた。
止まない雨が空から降り注ぐ。それはまるでスポットライトの煌めきの粒。主人公の物語はまだまだ続くけれど、リオセスリは堂々と礼をして舞台を降りた。
お疲れ様でした、「リオセスリ」。名役を讃え、観客は惜しみなく拍手を送る。
これにて閉幕。次回の公演まであと————