ヴァニタスの悪夢、執着と知れ。 埃を被った機械はがらくたと呼ばれて当然の錆具合で、つうっと指先でその表面を撫で上げ黒く汚れたそれを眺める。類にとって、それは大事なもののはずだった。なのに、なぜだろう。今はもう何も感じなくて、まるでそれがただのごみであるかのように、何の価値もないと断じるように、冷たく見下ろしていた。
——笑顔が、好きだった。自分の手で生み出した機械たち。それを活かし演出し、ショーを作り上げて、魅せる。観客、仲間、何より自分の演出に信頼を寄せ応えると告げる彼の眩さが、いっとう大切で、愛おしかった。
けれど今の類は、ひとりだった。たったひとり、立ち上がれないまま、あんなに輝いていたはずのものは色あせ、輝きを失い、朽ちたように佇んでいる。
息はしている。歩けるし、食事もできる。けれど何も出来ない、死んだような日々。
吊り上げたワイヤーが切れた故の転落、打ち所が悪く意識不明のまま眠り続ける彼の影が瞼の裏にちらつく。
『あの演出家、結構危なげな演出つけるからさあ、いつか絶対事故起こすと思ってたんだよね』
心無い誰かの声が聞こえた気がした。
ひゅっと喉が鳴り、未だ目覚めない彼を思い出して、心臓が激しく脈打つ。
「……っ、……」
はくりと口を動かしても声にならない。呼吸の仕方を忘れてしまったようにひゅうひゅうと不規則に喉が鳴るだけで、酸素を取り込めず頭がくらりと揺れる。
いつの間にか、類はスクランブル交差点に立っていた。雨の中、傘を持つ人々の中で、自分だけが何も持たずにただその場に突っ立っていた。濡れている筈なのに何も感じない。息苦しさにままならない中で、俯いたまま動けずにいると、不意に目の前で止まる足。のろのろと視線を上げた先には、ぼさついた伸びたままの髪で、雑にネクタイを結んで中学の制服を着た自分が居た。
「やっぱり僕は、ひとりの方が良かったんだ」
呟かれた言葉はやけに大きく響いて、周囲の喧騒の中でもよく通って耳に届く。
目の前に立つ自分。あり得ないだろう現象に漸くこれが夢なのだと気付いて、なら醒めなければと思うと同時、果てしてどこからが夢だったのかわからず混乱する。はくはくと喘ぐ様に唇を動かすと、ふっと自嘲するように笑った彼はこちらを見つめたまま言った。
「どんなに舞台をよくしようと思っても突飛な発想だと一蹴される演出。ついには危険だと言われていつかみんな、離れてしまうんだ。……僕が一番、それを解っているじゃないか」
ざあざあと降る雨の音に掻き消されそうな程小さく落とされた言葉が、棘のように突き刺さった。
「いつまでも、いまのままで居られるわけないじゃないか」
言いながら、泣き出しそうにも見えるその顔は酷く頼りなくて、それがひどく胸を締め付ける。違う、そんな事はない、司くんは、と口にしようとした瞬間、苦しさに限界を訴えた体は、ずるりとその視界を闇へと沈めた。
はっと目を開き、どくどくと早鐘を打つ鼓動と浅い呼吸に眉根を寄せて身動ぐ。と、ほっとしたような声音で名前が呼ばれた。
「類……良かった、目が覚めたな。酷く魘されていたが……」
深呼吸するんだ、と優しく胸元を一定のリズムで叩かれ、言われるがままに深く息をする。何度か繰り返して呼吸が落ち着いた頃、漸く自分が夢から覚めて、隣には司がいるのだと理解できた。可愛らしい猫の形をした常夜灯に照らされて、ぼんやりとオレンジ色に染まる部屋はいつも通りの景色だ。
「類? 水でも飲むか?」
心配げに見下ろす瞳に首を横へと振って応えると、そっと額にかかる前髪が払われてそのまま手のひらで撫でつけられる。
温かくて心地良いそれにじわじわと涙が溢れ、目を丸くした司が慌てて指先で拭い取るけれど、それでも後からどんどんと溢れるそれは止まらず頬を流れていく。
「類、類……どうしたんだ、そんなに酷い夢を見たのか」
ぼろぼろ零れる涙に脳裏に断片的な夢の内容が浮かんでは消えていき、けれどひとつとして言葉にはならないまま、ただしゃくり上げるように肩を震わせた。
「つか、さ、く……っ、」
まるで幼子のように泣く姿なんて、いい大人になってから見せたところで見苦しいだけだろうに。そう思って泣き止まねばと必死に息を整えようとするけれど、嗚咽ばかりが漏れ出てうまくいかない。司くん、と繰り返し名前を呼んでいると、隣に寝転んだ司にぎゅうっと抱きしめられて、とん、とん、と背中をさすられる。
「大丈夫だ、類、ここにいる……ちゃんとここにいるぞ」
何度も何度も繰り返される言葉に、しゃくりあげながら頷いて応えた。指先が白くなっていそうなほど強くシャツを握って、頭を抱え込まれた胸元に耳を押し当てればとく、とく、と脈打つ音が聞こえてくる。生きている、ここに居る、隣に居てくれている。それが嬉しくて、またじわりと滲む涙は悲しみからではなく安堵からくるもので、ゆっくり息を吐き出して呼吸を整える。
「……落ち着いたか?」
優しい声が降ってきて、こくりと小さく首肯すると、そっと体を離した司が顔を覗き込んでふ、と微笑んだ。目尻に残った雫が彼の親指に掬われて、くしゃりと頭をかき混ぜるように撫でられ、そのままもう一度引き寄せられる。
「ごめ、ん……まだ、夜中だろう……」
起こしてしまった、と謝ると気にするなと笑う声と共にぽん、と背を軽く叩かれる。すん、と鼻を鳴らして甘える様に擦り寄ると、あやす様な手つきで後頭部を撫でられた。
「どんな夢を見たのかはわからないが……オレはちゃんとここにいるから、安心しろ。ずっと一緒に居てやると言ったろう」
「……う、ん」
その言葉がどれほど嬉しいか、きっと司は知らないだろう。だから代わりに、精一杯の気持ちを込めてありがとうと呟いた。
『いつまでも、いまのままで居られるわけないじゃないか』
耳の奥にこびりついた自分の声に、そんな事はないと、司の温もりに溺れながら心の中で反論する。この先どんな未来が待っていたとしても、たとえ万が一、億が一ほどの確率で司が自分から離れようと思ったって、絶対に逃しやしないのだと。
微睡んだ先に見えたのは、自分の演出で輝く壇上のスターだった。
だから、彼は知らない。
自分を抱き締めるその男が、鋭く目を光らせながら低く低く唸ったことを。
「……何があっても、離してなんてやれるものか」
オレの、何より大切な————