溶けたバターとトーストの香り。ミスタは寝ぼけ眼で鼻をひくつかせると、のそりとベッドから起き上がった。
彼には完璧な朝が二種類存在する。シュウより先に起きる朝と、シュウが先に起きている朝だ。つまるところ全てが完璧ではあるのだが、どうやら今日は後者らしい。
ちなみに後者の場合は、シュウの寝顔の代わりに朝のキスと美味しい朝食を手に入れることが出来る。というわけで、ミスタは早速キッチンにいるであろうシュウの元へと向かった。
「おはよ」
「ンモ、」
「食べてからでいいよ」
ミスタがキッチンへ入ると、シュウは丁度トーストの一口目を楽しんでいるところだった。既に着替えを済ませており、髪もきちんとセットされている。普段なら眠っている時間帯だというのに珍しい。予定でもあるのだろうか。
香ばしい香りが充満し、サクサクという咀嚼音と相まって食欲をそそる。ミスタの腹の虫もぐうと主張した。
シュウが服に落ちたパンくずを払う。バターのせいで唇がつややかに潤っている。彼の寝癖が好きだから、見られなかったことが少し残念に思えた。明日は早起きしよう。ミスタは通り際に彼の頬をつつき、服のフードに着いた糸くずを取った。
「出かけんの?」
「うん、ちょっとね。仕事で」
「ンー……そっか。おつ」
伸びをしつつ答える。ミスタは冷蔵庫を物色すると、巨大なオレンジジュースを取り出してそのまま飲んだ。冷気がすべり降りて足先を冷やす。ボトルをしまって振り返ると、もの言いたげなシュウがこちらを睨んでいた。
「なに?」
「直飲み……」
「これ俺しか飲まないし」
「冷蔵庫も開けたままだよ」
「ごめんて。ン!」
これ以上何か言われる前にキスで誤魔化す。寝起きで歯を磨いていないから、頬に軽く。ミスタはシュウの肩をポンと叩くと、鼻歌を歌いながら洗面所へと向かった。
歯磨きを終えて戻ると、上着を羽織ったシュウが玄関に立っていた。鍵を手に取り、鏡を覗いて前髪を整える。ミスタは壁に寄りかかり、何をするでもなくそれを眺めた。
「帰り何時ごろ?」
「16時くらいかな。どうして?」
「いや、なんとなく。いてら。Love you」
「Love you too. 行ってきます」
軽くハグをして見送る。ひらりと手を振ったシュウの足音が遠ざかり、廊下を曲がって消えた。注意深くそれを聞き届け、ドアを閉めると合時に走り出す。
ミスタは再び洗面所に駆け込み、顔を洗って化粧水を雑に叩き込んだ。乾くのを待つ間に服を着替え、シュウが用意した朝食で腹を満たす。髪をセットして香水をつけ、お気に入りのアクセサリーを着ければ身支度は完了だ。
透明のリップを塗り、鏡を確認して一息つく。一秒でも無駄にしていられない。
そう、ミスタは重大な任務を抱えていた。ミスタとシュウの今後に関わる問題、サプライズプレゼントの調達だ。特に記念日というわけではないが、今日は二人の誕生日のちょうど中間、真ん中バースデーなのだ。感謝を伝えるのにはピッタリの日だろう。
シュウが帰宅するのは16時。バレないよう完璧にこなさなければならない。玄関のカギを閉め、普段と違う帽子を被る。用心深くコートの襟を立てたミスタは、そそくさと自宅を後にするのであった。
◇◇◇
NYの近代的な街並みをしばらく歩き、目当てのパブを見つける。店の頭文字が書かれた真っ黒な扉を開けると、暖色の明かりに照らされた店内がミスタを迎えた。
カウンターでギネスを頼みつつ、横目であたりの様子をうかがう。ビールは嫌いだが仕方ない。パブの人々に紛れ込むには、これが一番有効なのだ。平日の昼間にも関わらず、店内は酒を嗜む大人たちで賑わっていた。
奥のテーブル席に目当ての人物を発見する。迷いなく近づくと、俯いていた男が気怠そうに顔を上げた。すかさず三回瞬きをすると、男の顔からふっと敵意が抜ける。初対面にも関わらず、ミスタはわざとらしく大声を出して話しかけた。
「久しぶりだな、会えて嬉しいよ!」
「俺もだよ兄弟」
軽くハグをして席に着く。ミスタはさりげなくポケットを確認し、財布もスマホもスられていないことを確認した。”仕事相手の確認”を終え、男が本題に入る。
「モノは?」
「持ってきた」
取り出したものをテーブルに置く。懐中時計だ。1960年代流行の形をしており、金の枠に白い文字盤が上品な様相を呈している。これはミスタが元の時代に居た頃使っていた時計であり、駆け出しの頃に依頼主から譲り受けた特別な品だった。一見何の変哲もないが、よく見ると裏面に所有者のイニシャルではなく、「何一つ見逃さない」と妙な言葉が刻まれている。実際、この時計を手に入れて以来、ミスタは一度たりとて犯人を取り逃したことが無いのであった。
男はミスタの時計を手に取ると、一通り眺めまわした後フンと鼻を鳴らした。黄色い歯を見せて笑い、時計を内ポケットにしまい込む。
「いいのか?探偵が手放しちまって」
「別に。それより俺急いでんだけど」
「焦るなよ。仕事はちゃんと果たすさ、ブローカーとしてな」
男が小汚い包みを放る。ミスタはそれをキャッチすると、手のひらの上で包みを開いた。出てきたのは3センチほどのブローチ。濃紫の石で出来ており、模様が液体のように動いている。
「ふーん、ちゃんと本物?」
「試すか?」
そう言うやいなや、男がミスタの手にフォークを突き立てる。あわや大惨事――かと思いきや、フォークは不自然に逸れてガツンとテーブルに傷をつけた。
「ほらな」
「……はは、冷や汗かいたわ。サンキュ」
「どうも。良い取引が出来て何より」
握手を求められ、一瞬迷ってから応じる。ミスタはブローチをコートのポケットに入れて立ち上がると、靴底を鳴らして店を後にした。最後に一度振り返る。男の姿は既に無かった。
◇◇◇
さて、一方。仕事をすると言って外出したシュウは、とある女性の自宅から出てきたところだった。少し疲れた様子のシュウを見て、玄関先まで見送りに来た女性が微笑む。
「じゃあね、またいつでも来て」
「はい、機会があればまた」
軽く挨拶をしてマンションを後にする。大通りに出たシュウは、カバンを大切に背負いなおした。中にあるものを思い出して口元が綻ぶ。手に入れるために苦労したけれど、それだけの価値はあるだろう。
時刻は15時半。告げていた帰宅時間には間に合いそうだ。目的を達成して安心したシュウは、手をポケットに突っ込むといくらか歩みを遅くした。空はまだ明るく、通りは活気にあふれている。
シュウが一つの店に目を止めた瞬間、スマホが着信で震えた。ミスタからだ。すぐにイヤホンをつけ、通話に出る。
「はーい……うん、うん、終わったよ。今帰るとこ」
話しながら入店する。マカロンタワーを通り過ぎ、ディスプレイに並ぶケーキを一通り眺めたシュウは店員の言葉にジェスチャーで答えた。ケーキを指さし、指を二本立てる。
「んー、20分くらいで着くかな。……僕も。じゃあ後でね」
通話を切る。支払いをカードで済ますと、シュウは店を出てミスタの待つ我が家へと向かった。ケーキを崩さないよう、慎重に運ぶ。驚いてくれるだろうか。
「ただいま」
シュウが帰宅すると、ミスタはちょうど出来合いの総菜を温めている所だった。返事をしつつ食器を並べ、鼻歌を歌いながら飲み物を用意する。
「いい匂い」
「おかえり、ちょうど飯あっためてたわ。食べよ」
シュウはミスタの目を盗んでケーキを冷蔵庫へしまうと、勧められるまま席に着いた。香りにつられて大きく腹が鳴る。レンジから取り出した惣菜をテーブルに置くと、ミスタも同じく席に着いた。
「ありがとう。じゃあ食べ――」
「あのさ」
フォークを手に取りかけたシュウをミスタが遮る。彼は深呼吸を一つすると、今から重大なことを打ち明けるかのように緊張をにじませた。つられてシュウも姿勢を正す。
「えっと、シュウに渡したいものがあって」
そう言ったミスタがポケットに手を突っ込む。取り出されたのは小さな包みだった。不器用ながらも綺麗にラッピングされていて、皺の寄った包装紙からは彼が自分で包んだことが伺える。
突然のサプライズプレゼントに驚きつつも、シュウは嬉しそうにそれを受け取った。手のひらに乗るサイズの小箱は想像より重みがあり、中身を期待させる。
「わ!これどうしたの?」
「あー、今日って俺らの誕生日のちょうど真ん中なんだよね。知ってた?だからその、日ごろの感謝……的な」
ミスタは照れ臭そうに続けた。
「シュウ、こないだ仕事着の飾り壊れたって言ってたじゃん?ほらあの、胸元の丸いやつ。似合いそうなの見つけたからちょうどいいかなって。開けてみて」
そう言いつつ顔色を窺う。シュウは嬉しそうにプレゼントの包みを破り――次の瞬間、驚きで言葉を失った。
小箱の中央にそっと置かれた濃紫色のブローチ。といってもゴテゴテした装飾は無く、石に台をつけただけのシンプルなものだ。大きさも形もちょうど良く、色も相まって仕事着と着用するのにぴったりに思える。だがそれよりもシュウの言葉を失わせたのは、ブローチから感じる呪力であった。古く強力で、この装飾品がただのお飾りではないことを感じさせる。呪物、それも一級品と言って差し支えなかった。
「ミスタ、これただのアクセサリーじゃないよね?」
「やっぱわかる?その、シュウの仕事って結構危ないから俺いつも心配で。着けてると怪我しないらしいんだよね、それ」
「すごいっていうか、驚いたっていうか……ありがとう。手に入れるの苦労したでしょ」
「ハハ。いやまあ、時計と交換したんだけど」
予想以上に感心され、思わず口走る。
とんでもない言葉を聞いたシュウは勢いよく顔を上げた。
「時計?時計ってミスタの?」
「うん。別にいいって、あんなの骨董だし」
呆然とするシュウ。言われたことが飲み込めないらしく、彼は無くなってしまった時計を探すかのように部屋を見渡した。ミスタもつられて不安になる。
「えっと、なんかマズかった?」
妙な空気。なにかおかしなことを言っただろうか。ミスタは瞳に不安を乗せて恋人の顔色を窺った。顔の前で手を振る。シュウは何度か瞬きすると、頭を振ってようやく我に返った。一転して微笑み、手の中のプレゼントを大切そうに眺める。
「ううん、今まで貰ったプレゼントで一番嬉しいよ」
シュウは心からの礼を言うと、ブローチを包装紙で丁寧に包み直した。そうしてテーブルの端に置き、自分のカバンを取りに行く。
「あのね、実は僕からもミスタにプレゼントがあるんだ。僕がなんであんな反応をしたか、開けたらわかると思う」
布で覆われた包みを取り出す。両手で持ち、恭しく差し出した。
「僕からミスタに。いつもありがとう」
ミスタは戸惑いながらそれを受け取ると、布を剥がして紙の包みを破った。
中身を覗き、ヒュッと息を呑む。
「シュウ、これ」
「僕たち、考えることは一緒だね」
プレゼントを手に取り、持ち上げて室内灯にかざす。包みの中から現れたのは、探偵といえばこれ!と言えるようなシンプルな虫眼鏡だった。ひと目で上等だとわかる牛革の持ち手は驚くほどに手に馴染み、長年使い込んだかのようにしっくりくる。
だが何よりミスタの目を引いたのは、持ち手に刻印された奇妙な文字だった。内容はわからないが、探偵特有の観察眼ですぐに気がつく。ミスタの時計と筆跡が同じなのだ。
頭のなかで一つの結論が導き出される。これは明らかにミスタのプレゼントと同じ類のものだ。ということはつまり、金では買えないものなんだろう。
「探偵の仕事って危険だから心配で。呪力と引き換えにして貰ったんだ」
呪力ならまたのんびり溜めるけど暫く仕事はお休みかな、と笑うシュウ。ミスタはプレゼントとシュウの顔、テーブルの上の包みを順番に見て呆然とした。
「呪力と引き換え?」
ミスタが繰り返す。答える代わりに、シュウは二人分のグラスに飲み物を注いで微笑んだ。
「ねえミスタ、僕たちのプレゼントはしばらくしまっておこうよ。ひとまず今日は”真ん中バースデー”をお祝いしない?ケーキも買って来たんだよ」
「え」とミスタは言った。「俺もケーキ買ってきた……ホールで」
さて、これはそれぞれの一番大切な宝物を、愚かにも同日に失った二人の男の物話である。しかし今一度考えるべきだろう。愛する人の笑顔の為、大切なものを犠牲にできる愚か者がこの世にどれだけ存在するのだろうか。我々には知る由もないが、ただ、これだけは言えよう。
彼らこそ、今日この世界で最も幸せな恋人たちなのである。
参考、引用『賢者の贈り物/オー・ヘンリー』